M. Donnelly「文学における視点の認知的価値」(2019)論文紹介

https://academic.oup.com/jaac/article/77/1/11/5981458

 

はじめに

  • 書誌情報:DONNELLY, M. (2019), The Cognitive Value of Literary Perspectives. The Journal of Aesthetics and Art Criticism, 77: 11-22.
  • 文学の認知的価値についての論文
    • 文学の認知的価値の問題:私たちは文学作品から何がしかを学ぶように思われる。それは本当だろうか、そしてそうであるなら、そのような文学の認知的価値はどのようなものなのか、という問題。
    • 認知的価値:例えば科学実験は科学的知識、哲学の思考実験は概念に関する知識を与えてくれる
      • 文学から得られる認知的見返りは、新聞や科学実験、哲学論文から得られる「(命題的)知識」とは異なるように思われる。ではそれはどのように言い表せるだろうか。
    • 発表者は文学に認知的価値があるか/ないか、という結論よりも、フィクション(文学)が現実に対して持つ力をどのように定式化・正当化・記述できるのか、という議論に興味がある。本論文はその点で研究に資すると言える。
    • 今回の論文で「文学literature」と呼ばれるのは、狭義の文学=近現代のリアリズム小説であり、SFやファンタジー、ノンフィクション、そして小説以外の文学作品などは含まない。

 

 

本文

Ⅰ.イントロダクションINTRODUCTION

  • この論文では、以下の二つの文学の認知的価値を示す
    • 1.文学は「微妙な差異のある視点的概念nuanced perspectival concepts」を与えてくれる
      • これは「私たちは自分の世界経験を構造化する様々な概念を拡張したり、他人の世界経験を理解しようとする際に、用いることがある」もの
      • この論文では、自他による世界の主観的経験の認識において、この文学から得られる「視点的概念」がどのように役立つかを論じる(主にⅣ)
    • 2.他人の視点から行為を理解すること:他人の動機の理解
      • 文学はまた、他人の行為の主観的動機を理解する、現実と違って危険の無い訓練の場を与えてくれると論じる(主にⅤ)
    • 以上のような文学の認知的価値を探究するにあたり重要なのが、以下のような文学の特徴:
      • 「文学は、読者と作者の両方に平等にアクセス可能とされる視点を対象としたものではない。文学は(例えば科学的、歴史的、あるいは哲学的テクストがそうであるように)世界を共通の客観的視点から記述すると主張しない。また(例えばジャンルフィクションがそうであるように)共有された文化的視点から記述するとも主張しない。文学はその代わりに、読者を自身の主観的視点から出て、なじみのない視点に参与するように誘うのだ」 (11)
        • 文学が普遍客観的視点でも、慣習的に構築された視点でもなく、(読者自身とは別の)主観的視点から記述されているという特徴こそが、文学の認知的価値を可能にしていると筆者は主張する。

 

 

Ⅱ.芸術と主観性ART AND SUBJECTIVITY

:絵画が人の主観的経験の一般的特徴を明らかにしていることを述べたうえで、文学は同様の仕方で寄与することはできないと述べる。また文学から得られるのは「経験」ではなく、あくまで「視点」であると述べる。

 

  • 文学を論じる前に、美術史家のBurri (2007)の絵画論を引用:絵画の発展によって人間一般の主観的視覚経験の特徴が明らかにされてきた
    • 「Burriは芸術を、個人化された主観性と普遍化された客観性の中間の、社会的に教え込まれた出発点から、より主観的な視点を明らかにすることを目的にした探求の一つの形であるとする」(12)
    • これを明らかにするため、視覚芸術の歴史を例に挙げる
      • 15世紀ブルネレスキの遠近法、そこから数世紀かけてセザンヌ等の印象主義というように、芸術家たちは長い時間をかけて、より正確な主観的視覚領野の表象様式を作り上げてきた
      • これは言い換えれば「部分的に客観化された出発点a partially objectivized starting point」から「主観的な視覚的視点subjective visual perspectives」を明らかにしていった過程と言える
    • 以上のような探求によって、画家たちは(普段は意識しないが)多くの人々に共通する視覚的知覚の特徴を明らかにした;線的遠近法や視覚の周縁部がぼやけていることなど
      • しかしその一方で、文学芸術によって同様の事が起こるとは考えづらい
        • 確かにプルーストジェイムズ・ジョイスヴァージニア・ウルフなどは(「意識の流れ」の手法など)「内的生inner lives」を強調した記述様式を用いた。
        • しかし文学の構成要素building blockは、絵画の構成要素である色や形がそうでないように、抽象的で概念化されている
        • また以上のモダニストの手法が、(絵画のように)すべての人類に共通する主観的経験の普遍的特徴を記述しているということは疑わしい
          • 多くの人々はプルーストの語り手のように、ジョットやボッティチェリの絵画の人物を思考に組み込んでいないし、また語り手の世界経験は彼自身の特殊性(不眠、別離に伴う不安など)によって構築されている
        • 以上のように、絵画と異なり文学によって、人間一般の主観的経験の特徴が明らかにされるとは言えないだろう
      • また認知主義の主張によくあるような、文学から「特定の種類の経験の知識knowledge of particular kinds of experiences」=「経験的知識experiential knowledge」を得られる、という意見も疑わしい[2]
        • Walsh (1969):(命題的知識に対する)「経験的知識」、つまり恋に落ちたり子どもを失ったりすることがどういうことかを、それを描写する文学を読むことによって学ぶことができる
          • ウォルシュは文学を通じて、「代理的経験vicarious experience」を読者に引き起こすことができると主張した
        • 筆者の反論:「文学作品は読者に、文学作品を読むという経験のみを与える。そして恋に落ちたり子供を失ったりすることについて読む経験は、恋に落ちたり子供を失ったりする経験とは、重要な仕方で異なる」(12)
          • どのように異なるのか:例えば明らかに前者は楽しむことができるが、後者はそうではない[3]
          • 筆者は結局のところ、ウォルシュの、文学鑑賞によって(その作品を読むということ以外の)ある種の一人称的「経験」(あるいは経験的知識)が得られるという主張は、あまりに強すぎると結論付ける
        • また文学は「他人が文学作品において記述されている種類の状況を経験すること[4]」に関する三人称的知識さえ与えるかどうか疑わしい
          • 現実の経験は特異的idiosyncraticであり、人によって異なる。しかし文学における登場人物の経験が、現実の誰かの経験を表象している必然性はない。そのため、文学は現実の他人の経験の知識すら与えてくれないだろう[5]
        • 以上の(文学作品は経験的知識を与えるという)主張を吟味するために、具体例としてゾラ『洪水The Flood』の読書経験について述べる
          • 『洪水』:老農夫ルイス・ルービエンの一家が洪水に巻き込まれ、建物の屋上に避難するも、ルイス以外全員溺死する話
          • 筆者に依れば、ある経験の描写を鑑賞することと、それを実際に経験することが違うのは明らか
            • 「この物語を読む中で、自分の家族を災害で失うというのがどういうことであり得るのかを想像するのは容易である。しかし私の物語を読む経験は、私が洪水で家族を失う経験とは、まったく異なる。読書しながら、私は自分が心地よい乾いたソファに寝そべっていることに完全に自覚的なのだ」(13)
          • また『洪水』を読む経験は、現実の他人が同じ状況に居るのを知ることとも異なる
            • 現実にその場に居合わせるのと異なり、『洪水』を読む中でソファから出て助けなければという気持ちは起こらない[6]
            • 更に言えば、ルービエン一家に対する心配の感情は、読者としての知識(ゾラの作品で登場人物は大抵ひどい目に会う)に基づいており、その点でも現実の他人に対する心配の感情とは異なる
          • 結論:「かくして、私の物語を読む経験は、私自身が洪水のただ中に居る経験と、現実に誰かが洪水で溺れているのを見る経験の、両方から重要な仕方で異なるのだ」 (13)
        • 第2節の結論:「文学は、それが自分自身のもの以外の主観的視点を想像的に探索するために与えてくれる機会を通して、重要な認知的価値を持つと、私は考える[7]」しかし筆者の主張は、以下の点でウォルシュらと異なる。
          • ①読書によって私たちが探求するのは「別の主観的視点alternative subjective perspectives」であって、「代理的な主観的経験vicarious, subjective experiences」ではない
            • Ⅲでこの区別を扱う
          • ②文学が認知的に与えてくれるのは「知識」ではなく、「自分自身や他人をより良く理解するために必要な道具や技術tools and skills required for a better understanding of ourselves and other people」である
            • これについてはⅣとⅤで議論する

 

 

Ⅲ.経験と視点EXPERIENCE AND PERSPECTIVE

:「視点的性質」概念を導入し、それによって以後の、文学から得られる認知的利益の議論の基盤とする。

 

  • 前提として、「経験」は「視点」によって異なる
    • 自分と他人は同じ経験をしない。またたとえ同じ時間・場所を共有していても、「私たちは世界を異なる視点から経験する。つまり、世界の物事は異なる人にとって異なって現れるのだ[8]」。
    • またこれは単に事実的な認識が異なるだけでなく、同じ対象(例えば猫)に対して、ある人は快いと感じるが、他の人がやっかいと感じる、というような感性的な主観性を含むことを意味する
  • 「経験」と「視点」は概念的に区別される
    • 「私は主観的視点を、世界が、特定の人にとってその世界経験の中で特徴づけられる仕方として考える。私の視点は、①一般的な特徴づけ(例えば、私の友人同様、私は猫を毛むくじゃらで四つ足のものとして見る)、②私に固有の特徴づけ(例えば私は自分の猫を快くほっとさせてくれるものとして見る)、③そして物事のタイプに関する一般的信念(例えば私はすべての猫が感覚を持っていて、道徳的配慮に値すると信じる)を含む。視点は経験ではない:物事が私にとって特徴づけられる仕方は時間と共に変化するが、私の視点は時空間で展開するような出来事ではないのだ。どちらかと言えば視点は、それを通して経験が構造化されるグリッドのようなものなのだ」 (14)
      • まとめれば、視点は経験そのものではなく、経験を認識する枠組みである。それは個人的で他人と共有できないものから、誰にでも当てはまるような一般的なものまで多岐にわたるものを含む。
    • 次に筆者は、私たちは他人の視点を、部分的に(一部の側面に限って)想像できると述べる。
      • 「私は、他人の視点の側面aspectsを、他人の経験のどんな時間的な断片も想像せずに、想像することができる[9]。これは私が、その人にとって特定の物事が特徴づけられるいくつかの仕方を、その人の経験のあらゆる断片のすべての構成要素を想像することなしに、想像することができるからである。」 (14)
  • 例えば、友人が電話で砂浜に座っていることを述べるとする。私はその友人の視点の重要な側面( 目の前の砂や海)を鮮やかに想像することができる。しかしそのときに、「私はそれを、友人の砂浜での経験に似た経験をしたり、友人の経験がその全体性においてどのようなものかを想像することなしに、想像することができる[10]」のだ。
  • 以上から筆者は、「視点的性質perspectival property」を導入する
    • 「私は視点的性質を、ある存在物が何らかの主観的視点から持つことができるが、すべての主観的視点からは持つことができない性質と考える[11][12]
    • 視点的性質の例1:「目の前にあるpresent」
      • 友人の目の前にはヤシの木があるが、私の前には無い。
    • 例2:相対的位置属性relative locational attributes
      • 自分からは右にあるが、あなたからは左にある
    • 最も興味深い視点的性質:感情的affective・評価的evaluative性質
      • 例えば、自分の視点からは重要であったり愛しているものが、友人の視点ではそうでなかったりするだろう。
      • そして視点的なものと同様の性質が、客観的な性質として存在することもある
        • 「注意したいのは、いくつかの視点的性質に、客観的な対応物(例えば、対象が美しかったり望ましかったりする客観的な意味)があったとしても、視点的な性質はどんな客観的性質とも同一ではないということだ」 (14)
        • 絵画が「客観的に」美しかったとしても、ある人にとって「主観的に」美しいと感じられる必要はない。またある行為が客観的には善いとしても、それを自分にとって善いと感じられる必要はない[13]
      • 以上を前提として、文学の認知的価値に関する主張を展開:文学を文学として鑑賞するとは、自分とは異なる視点的性質を認識することである
        • 「文学作品に参与することは、単に言葉を処理するのとは反対に、登場人物、事物、そして出来事が、その作品において割り当てられている視点的性質のうち少なくともいくつかを所持していると想像することを要求するのだ」 (15)
      • 文学に参与することは、自分が登場人物に似た経験をすることや、物語の状況に実際の他人が置かれているのを経験することとは異なる
        • 「ある出来事an eventが展開していて恐ろしいということの想像は、その出来事が(それらが私自身の視点から見て展開していて恐ろしいときに)[同じような]出来事eventsが持つ視点的性質によって特徴づけられている、ということを私が想像することだけを要求する。単に出来事がそのように特徴づけられていると想像することは、砂と海が眼の前にあることを想像することが、私が砂浜に居る経験のどんな断片も要求しないのと同様に、私の経験のどんな断片も描かれた出来事の実際の経験に近似するということを要求しない[14]」 (15)
          • 前半部:作中の出来事が怖ろしいことを想像するというのは、単に自分から見て現実の類似した出来事が怖ろしいと感じるときにその出来事に帰属させている性質(つまり私自身の視点的性質)を、その作中の出来事にも帰属させるのを想像することに過ぎない[15]
          • 後半部:想像は経験を必要としない。作中のある出来事がある視点的性質(「目の前にある」「恐ろしい」)を持つと想像することは、自分が現実にその出来事をそのようなものとして経験することや、あるいは自分以外の誰かが現実にその出来事を経験するのをそのようなものとして見ることとは、まったく異なる。

 

 

Ⅳ.概念的豊饒化の基礎としての文学LITERATURE AS A BASIS FOR CONCEPTUAL ENRICHMENT

:文学からは、視点的性質を含んだ概念を得ることができ、それこそが文学の認知的利益である。そのような概念とは、作品における存在の視点的性質の特徴づけを、読者が一般化したものである。そのような視点的概念によって自他の主観的経験を名指すことが可能になるだろう。

 

  • 「概念」について:「私は概念が、特定の特有の特徴を通して存在物のクラスを同定する、一種の道具だと考える[16]
    • 概念によって、存在物が所属するタイプを名指すことができる。
    • 例えば「犬」概念によって、犬に特有の物質的・行動的特徴を持つ特定のイヌ科の動物を区別することができる
  • 科学的・哲学的文脈において、概念は定義や必要・十分条件の集合によって導入されるが、文学においてはそうではない
    • 「代わりに、文学作品は特定の(通常は虚構の)人物、出来事、感情その他を特徴づける。言い換えれば文学作品は、特定の存在物を、他のものとの何らかの関係を持つものとして提示するのだ」 (15)
      • つまり、理論的には概念は定義によって提示されるが、文学においては特徴づけや他との関係性によって提示される
    • 読書において概念を用いる仕方は二つある
      • 一つ目は、作中の存在物に対して、既存の概念を当てはめること。これは、その存在物が概念に当てはまるような特有の特徴を持つことを認識することによる。
        • そうしなければ私たちは登場人物が人間であったり、関係がロマンティックなものであったりを認識することができないだろう
      • 二つ目:文学における存在物の特徴づけを一般化することで、新しい概念を得ることができる
        • 例えば『洪水』において、娘が自分の子どもを水面の上に掲げながら近くの屋根で溺れそうになっているところを見ながら、それを助けられないルイスの経験の描写から、特定の種類の経験の概念を得ることができる。
          • ここで得られるのは、「愛する人に恐ろしいことが起きているのを見ながら、それを助けられないという経験」  (15)の概念
        • また「犬」概念が大きさ、色、形、行動において幅を持つように、そのような概念が適用される経験にも幅がある
          • 例えば、どのような恐ろしいことが起きているのか、その愛する人が親族であるのか、その恐れに怒りが混じっているのか、などについて。
        • このように文学から得られる概念によって、『洪水』のルイスの経験と共通項を持つ、自分の経験や他人の経験を同定identifyすることができる
      • 客観的な視点で書かれるテクストから得られる概念と、文学から得られる概念は、概念の種類や得る方法において異なる
        • 文学作品から得られる概念は、通常視点的性質を持つ
          • 上の例であれば、「愛する人が怖ろしい目に遭う」概念は、「愛するbeloved」や「恐ろしいhorrific」などの、人によって異なる視点的性質を含む
        • そして文学から得られる視点的性質を含んだ概念は、客観的性質によって存在物を特徴づける概念と異なり、即座に経験可能である
          • 例えば、何らかの行為に「道徳的に間違っている」という客観的性質を帰属させるためには、自分の主観的視点から外に出て、何らかの客観的な道徳的基準を適用する必要がある
          • 一方で、「恐ろしい」や「脅威である」というような視点的性質の場合は、単に自分の情動に注目すれば良い
        • 文学から得られる概念は、その得る方法において異なる:文脈が大きな役割を果たす
          • 「文学由来の概念は、その中で参与した読者が関連する視点的性質を概念のプロトタイプに想像的に適用するような文脈を通して、得られるのだ」 (16)
            • 『洪水』であれば、〈娘に恐ろしいことが降りかかっているのを見ながら何もできないルイスの状況を想像する〉というプロトタイプ的文脈を通して、〈愛する人に恐ろしいことが降りかかっているのを見ながら何もできない〉というより一般的な概念を得る。
          • 同様の方法では、新聞や哲学者の思考実験から文学から得られるような概念を得ることはできない
            • 新聞や思考実験においては、文学で提示されるような視点的性質が明らかでないため
            • 「登場人物を、読者が想像的に関心を持つような人々として提示し、物語における出来事を、適切な想像的反応(緊張、不満、恐怖)を参与した読者に引き起こすように展開させるということが、ゾラの書き手としての技術の一部なのだ[17]」 (16)
          • 「優れた文学は、参与した読者が視点的性質を、自分の経験において特徴づけられている物事から文学作品の虚構的存在に、想像的に転移させるように駆り立てるのだ」 (16)
            • 読書において読者は、自分の現実の経験で結びつけられている視点的性質を、作中の登場人物・出来事に想像的に帰属させる。
          • また文学から得られる概念は、定義の適用ではなく、プロトタイプからの一般化(されたもの)generalizationsである
            • その結果として、
              • 「文学作品における存在に帰されているまさにどの特徴が、現実世界で類似の事物を区別するためのプロトタイプとしてその存在を用いるときに一般化されるのかは、その読者に依るのだ」 (16)
              • 作中の存在には、様々な視点的性質が帰されることで、主観的・文学的概念が提示される(「愛する人が酷い目に遭っているのに助けられないという経験」概念)。ただし読者は、視点的性質のすべてを作中と同様に現実世界の事物に帰するのではなく、そのうちのいくつかを選択して、現実世界の類似物を見出す、ということ。
            • 以上から、文学の認知的利益は以下のように言い表せる
              • 「このように、文学作品から概念を拾い集めることは、主観的視点の内側のから/を超えて考える読者の能力を、読者が、存在物が一つの視点からどのように特徴づけられるかを推論し、異なる視点の間で存在物が特徴づけられる仕方に多かれ少なかれ共通点を見つけることによって、発展させるのだ。」 (16)
            • 他の哲学者たちも同様のことを述べているように見える
              • Catherine Wilson (1983):私たちは文学から、自分がすでに持っている世界(特に自他の行為)をとらえるための概念よりも、優れた概念を取り入れることができる
                • 例:日本の小説を読むことで、自分が今持っている「名誉」「犠牲」概念よりも優れた「名誉」「犠牲」概念を、採用することがある
              • 他の論者(Robert Stecker, Eileen John, Noël Carroll, and John Gibson)はそれに加えて以下のように述べる
                • 私たちがすでに持っている概念に対して、文学はその概念が当てはまるような具体的で複雑な状況を提示することによって、私たちは理解を深めることができる
                  • 例:『オセロー』を読むことで、「嫉妬」概念の理解が深まったり広がったりする
                • ただし、筆者は上の議論には異議を唱える
                  • 概念枠組みの大幅な変更や、概念の理解そのものは、文学鑑賞の主要な機能と結びついているわけではない
                  • 文学への参与はあくまで「私たち自身の世界のような世界を、私たちとは異なる複雑な複数の視点を通して、想像的に探索すること[18]」であり、重要なのはそれによって〈作中における存在物への視点的性質による特徴づけ〉を可視化すること
                  • 「しかしもし私たちが、文学における特徴づけから、その一般化によって概念を得ているとしたら、そのように得られた概念は通常、名誉、犠牲、そして嫉妬のようなまさに一般的概念というよりも、文学作品で直接描かれた存在物(特定の人々、出来事、経験その他)に関するものである[19]」 (18)
                • また文学作品は、その提示する概念が読者の既存のそれよりも優れている場合にのみ、認知的価値を持つという主張にも筆者は反対する
                  • 読者が文学作品における概念を劣ったものと考え、自分の経験に適用したくないと考えても、他人の視点を理解するのに役立つということだけで、認知的価値を持つと言えるだろう。
                • 以下で、文学から概念を取得し、それを自分や他人の視点からの世界経験を特徴づけるのに用いる具体例を二つ紹介する
                  • ホメロスイリアス
                    • アキレウスが戦いの褒美として手に入れた奴隷ブリセイスを、アガメムノンによって奪われることに怒る描写から始まる。
                    • アキレウスの視点では、自分の戦士としての名誉は褒美の格によって示されるものであり、それを奪うというアガメムノンの行為は、命よりも重要な自分の名誉を不公平にも格下げするものである。
                    • このアガメムノンの行為への特徴づけを、直接現実の他人の行為への特徴づけに用いることはしないかもしれない。しかし他人の視点を理解するのに用いることはできる。
                      • 「例えば、教授が、憤慨した発言をして学部の活動に参加するのを拒むことによって、私の同僚の昇進を助けることに失敗したことに対してその同僚が反応したとする。私は、同僚が教授の行為を、アキレウスアガメムノンがブリセイスを奪ったことを見るのに似た仕方で、つまりその人としての価値を不公平にもその評判を下げることによって貶める侮辱として[見ていると]、推論するだろう」 (17-18)
                        • アキレウスに関する視点的性質を含んだ概念を、一般化した上で実際の他人の経験を理解するのに利用している
                      • ヘンリー・ジェイムズ『大使たち』:中年のストレザー氏が、アメリカに連れ戻すはずの人物がパリで既婚者の女性と関係を持っているのを目撃する。
                        • 「きわめて大雑把に言えばジェイムズはここで、ストレザー本人が些細かつ苦痛であると感じる仕方で、彼が自分の想像力、善意、そして欲望に誤って導かれたという経験を描写している。そのような種の経験には名前が無い。そうであるなら、ジェイムズの文学的描写は、そのような経験を(例えば自分自身の場合やストレッチャーのものとの類似点や相違点を見出すことによって)認識し理解しようとするのに有用である」
                          • 文学の与える概念によって初めて、名前の付けられていない経験を認識し理解することができることがある。

 

 

Ⅴ.行為の動機の理解UNDERSTANDING MOTIVES FOR ACTION

:文学の与えてくれるもう一つの認知的利益は、他人の行為の動機を類推する技術である。

 

  • 文学における人物の動機を理解するのに、登場人物の視点に賛成する必要はなく、単に認識すれば良い
    • 「重要なのは、登場人物の視点の要素がどのようにその行動を支持するのかを認識するのに、その視点を共有したり、是認したりする必要はないということだ。[…]物語に参与するために重要なのは、主役級の登場人物が、自身の視点から全く意味を成さない仕方で行為していると見なさないことなのだ」
      • その動機を理解するために、作品の提示する人物の視点(つまりその人物が置かれた状況における目標や価値観など)を支持するendorse必要はない。ただその行為を、一つの視点から意味を成すものとして認識することが必要である。
    • 実のところ、作中の人物の視点を、想像的にすら完全に共有することはできない。なぜならその人物は自分が作中の人物であると知ることができないためである。
  • 読書によって、自分以外の視点から行為の意味を理解することを訓練することで、認知的資源を発展させることができる
    • ただしそれは概念的豊饒化とは相互に独立である:作品で提示される概念を完全に理解しつつも、行為の動機を理解できないことは十分にあり得る
  • そしてそのような練習は、実際の人々の行為を、その人自身の視点から理解するのに有用である
    • 「そのような技術の一つは、私たち自身の視点の側面を背景に退かせることで、他人の行為を、その人の視点において何が動機づけているのかをより良く理解する能力である。現実世界では、他人の視点を理解することと、それに賛同することの違いのかじ取りをするのが、難しいことがあるのだ」(19)
      • 文学によって、他人の視点から行為の動機を理解する能力が鍛えられる。そしてそのような訓練の機会は、現実ではなく文学においてこそ、多く与えられるものなのだ。
      • つまり現実では自分の価値観を脅かす行為に対して、その視点を理解するよりも、その行為やその結果を防ぐことに労力が向けられる
      • しかしフィクション上の登場人物に対しては、現実の脅威の心配をすることなく、その視点を理解することに注力することが可能である
    • また読書によって、自分の動機と他人の動機の共通点を見つける技術も磨かれるだろう
      • リチャードソンの『クラリッサ』において、クラリッサは求婚者のラヴレースを、両親が彼と関係を持つのを禁じていることと、彼が彼女の貞操を脅かすという理由で、拒絶する
        • 筆者はクラリッサのように性的慎み深さや親への従属を重視しないが、それでもより一般的なレベルで、クラリッサが押しの強い求婚者であるラヴレースを拒絶する動機を理解できると述べる:クラリッサはラヴレースを、彼女の視点から見て彼が彼女を自律した個人として扱っていない、という理由で拒絶すると理解可能である。
          • 「これはより一般的な動機の構造(つまりその人自身の視点から見て無礼な人と好意からの関係を持つのを避けること)であり、これを私とクラリッサは他の重要な視点における違いにも関わらず、共有しているのだ」 (20)
        • まとめれば、文学は現実よりも以下の点で想像力の訓練の材料と理由を与えてくれる
          • 現実に知り合うだけでは、文学における主人公ほどに背景知識や心的生活の詳細を得られることは中々無い
          • また優れた文学作品は、読者を美的報酬によって報いることで、読者が(時には縁遠い)登場人物を理解しようとするように動機づける

 

 

Ⅵ.文学と共感LITERATURE AND EMPATHY

  • 様々な経験科学における実験は、共感能力が文学作品に触れることによって向上するという結果を示している
  • 今までの議論のまとめ
    • 「私は第4節で、私たち自身の視点からの存在物の特徴づけだけでなく、またそれが他人の視点にはどのように現れるかを想像するのに役立つことがある、視点的概念を文学から得ると主張した。さらに、第5節で述べたように、物語文学への参与は、自分とは異なる視点における行為の理由を理解する技術を発展させる。まとめれば、それらの認知的資源は、現実の人々を理解するのに役立ちうるのだ」 (20)
  • この論文は、文学は「私たち自身の視点を構成する概念的資源の融通を拡張したり向上させるexpanding or increasing our facility with the stock of concepts structuring our own perspectives (21)」という主張に対して反論する
    • このような主張は、文学がどのように自分以外の視点を理解する能力を高めてくれるのかを説明してくれない
    • また、文学がそのように世界認識の枠組みを洗練させてくれたとしても、それは自分以外の視点の理解には役に立たないだろう

 

 

Ⅶ.結論CONCLUSION

  • 今までの議論の繰り返しであるから、省略する。

 

[1] “we may use either to extend the array of concepts structuring our own experience of the world or to try to understand another person’s experience of the world” (11)

[2] Stanford Encyclopedia of Philosophyの「どのようにの知識Knowledge-How」の項によれば、以下のとおりである。知識knowledgeとは何か、そしてそれはどのようにして得られるのかに関する哲学である認識論epistemologyにおいては、一般に二つの知識が区別される。つまり「どのようにの知識knowledge-how」と「であるの知識knowledge-that」である。前者は例えば「自転車の乗り方を知っている」ときに持っている知識であり、後者は「2020年に優勝したのはソフトバンクホークスだと知っている」と言うときに持っている種類の知識である。ここであればウォルシュは、文学を読むことによって、「恋に落ちる・子供を失うとはどのようなものかを知っている」という経験的知識を得られると主張している。

[3] これは「悲劇のパラドックス」として広く論じられている。

[4] “what another person experiences in the sorts of circumstances described in literary works” (13)

[5] これはどういうことだろうか。まず人間の経験が千差万別であるために、ある誰かの一つの経験を他の誰かの経験と同一視することはできない。さらに文学で描かれる経験は、現実の誰かの経験であることを主張しない。以上の二つの主張を組み合わせると、文学は現実の誰かの経験を描いているとは言えない、ということになる。

[6] これは「フィクション(における情動)のパラドックス」として広く議論されている。

[7] “I think that literature has important cognitive value through the opportunities it affords for imaginatively exploring subjective perspective other than our own.” (13)

[8] “[W]e experience the world from different perspectives – things in the world appear differently to different people” (14)

[9] 「側面aspects」という語や「時間的断片temporal segment」という語が具体的には何を意味しているのか、理解しきれていない。おそらく他人の視点を想像するのに、すべてを想像することはできないが、いくつかの側面に絞って想像することはできる、という程度の意味だろうか。

[10] “I can do this without having any experience similar to her beach experience or imagining what, in its entirety, her beach experience is like” (14)

[11] “I take a perspectival property to be any feature which an entity can have from some subjective perspectives but not from all subjective perspectives.” (14)

[12] このような定義だと、逆に視点的でない性質は存在しうるのだろうか、という疑念が生じる。例えば「猫である」という述語すら、本当にすべての主観的視点によって持つことができるものなのかは明らかでない(私たちとは異なる生態学的知識を持つ人にとってはどうだろうか)。結局のところ、ある性質が視点的であるかどうかは、少なからず程度問題なのかもしれない。

[14] an eventの想像に対する視点的性質の想像は、他の類似したeventsに私が帰属させるものを、その単一の出来事に帰属させる想像であると解釈した。

[15] しかしそうすると、文学に参与することとは、作品の提示する視点的性質(のうち少なくとも一部)を想像することである、という主張はどうなるのだろうか。ここでは作中の出来事に帰属させられる視点的性質は、結局(作品のものではなく)読者のものであると言っているように思える。それともここでは文学鑑賞ではなく、一般的な想像(砂浜に居る友人からの電話など)の話をしているのだろうか。

[16] “I take it that concepts are tools of some sort for identifying classes of entities through certain characteristic features.” (15)

[17] このゾラの例は、文学においては新聞などの客観的視点で書かれたテクストでは明らかでない視点的性質が与えられている例だと思われる。そうすると読者に与えられる想像的反応と、作中の視点的性質は、同一のものということだろうか。

[18] “to imaginatively explore worlds like our own through complex perspectives different from our own” (17)

[19] この一文が何を意味しているのかはわからなかった。上で述べるように、文学から得られる概念は一般化を経る必要がある。しかしそれは「一般的概念」そのものではない、ということだろうか。

[20] ただし、むしろ「視点」概念は文学というより、野家啓一が『物語の哲学』で述べるように、「物語」に特徴的なものではないかと私は考える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Roger Puivet 「様相美学」(2011)論文紹介

proceedings.eurosa.org

 

 

Ⅰはじめに

 

 今回紹介する論文はRoger Puivetロジェ・プイヴェ(1958~)によるもので、筆者は現在フランスのロレーヌ大学の哲学教授。フランス語での美学・哲学関係の著作が多いが、内容は分析哲学から大陸哲学まで多岐にわたる。

 この論文は芸術作品から何かを学ぶことはできるのか、そしてそうだとしたら芸術から得られる知識はどのようなものなのか、という問題系である芸術の「認知主義cognitivism」に関する論文。特に文学作品について、フィクションに過ぎないものが現実世界にどのような力を持ち得るのか、という問題を考えるのに役に立つかもしれない。ただ芸術の認知主義に関する論文の中では多く引用されているとは言い難いし、また結論もそれ以上の議論の発展が難しそうなものではある。それでも「様相modality」概念を芸術の認知的価値に結び付けるのは面白い。

 論文の概要は以下の通りである。まず初めに筆者は、芸術は私たちに何かを教えてくれる、という美的認知主義の一部を擁護すると言明する。筆者は芸術が教えてくれるのは「何か真の命題」ではなく「新しいものの見方」や「正しさ」であるとするグッドマンに部分的に同意しつつも、それと関連した存在論的な主張には反対する。そしてシュトルニッツの「何か真であることを知るのに芸術は必要ない」という美的認知主義に反対する主張にすら筆者はある意味で同意するのだ。しかしそれでも筆者は美的認知主義を擁護する。それは芸術(主に小説や映画などのフィクション物語)が、私たちに様相的知識(何が可能であったり、不可能であったり、必然であったりするかに関する知識)を与えてくれるからだとする。それは作品によって私たちがごっこ遊びで想像する際に、私たちの様相的直観と相互作用することで為される。作品と鑑賞者の様相的心性のずれによって想像のしづらさが生れたり、観賞者の心性が修正されたりするのだ。筆者はそのような作品と鑑賞者の様相的な相互関係の研究を、様相美学と名づける。

 

 

Ⅱ内容紹介

 

イントロダクション 

筆者は最初に、芸術の認知的価値に関する議論における、美的認知主義aesthetic cognitivismを紹介する。それはBerys Gaut(ゴート)の「芸術と認知Art and Cognition」(2002)で以下のように定式化されるという:

 

「認知的主張[…]芸術は私たちにトリヴィアルでない仕方で物事を教えてくれる。」

「美的主張[…]そのような芸術が私たちに物事を教える能力は、部分的に芸術の美的価値を決定する」

 

このうち筆者は、前者に関してのみ考察する。そしてそのことによって、「どのように、そして何を」芸術は私たちに教えてくれるのかについて述べるとする。

 

1.

筆者はまず「芸術が何かを教えてくれる」という主張への反論として、純粋にインストゥルメンタルな音楽や、非形象芸術が挙げられることに触れる。しかしその反論は正しくなく、それらも何がしかを、私たちに教えてくれるとする。つまり「何かを学ぶこと」を「命題的真propositional truthを得ること」とは同一視しない立場を筆者は取るのだ。そして筆者はNelson Goodman(グッドマン)の『世界制作の方法Ways of Worldmaking』(1978)における同様の主張を引用する。つまり認知は理解の向上であり、つまり真理を発見することというよりは、新しいものの見方の獲得である。それは何かそれまで認識することのできなかった性質を、認識できるようになることなのだ。それはグッドマンが『心やべつの物事について Of Mind and Other Matters』(1984)で、「ある重要な画家の展覧会から出るとき、私たちが踏み出す世界は、私たちが展覧会に入るときに踏みでた世界ではない。私たちはすべてを、それらの作品の観点から見るのだ」と述べる通りであり、そこで筆者はグッドマンの美的認知主義が存在論的複数主義ontological pluralismにつながっているとする。

 しかしその上で筆者はグッドマンの主張は行き過ぎであるとする。確かに芸術によって「世界が変わる」ことはあるが、それは単に「感銘を受けた」と言っているだけで、純粋に存在論的な言明ではない。確かに芸術鑑賞は理性的な認識活動の一種で純粋に感覚的なものではないが、しかし芸術作品を鑑賞することで、作家の作った別世界の認知が為されるわけではない。つまりグッドマンは美的認知主義が存在論相対主義ontological relativismを必要とするとするのだがが、それは「あまりにも形而上学的・認識論的なコストが大きすぎるだろう」(p.16)と筆者は考える。この後論文では主にフィクションを含めた物語に焦点を当てるため、グッドマンの主張には深入りしない。物語は、世界に対する新しいパースペクティブや、あるいはグッドマンが言うような探索すべき新しい世界を必ずしも必要とすることなく、私たちに何かを教えてくれる命題的な主張propositional claimを提示すると筆者は考える。

 美的認知主義(芸術はトリヴィアルでない何かを教えてくれる)に対する反論として、多くのフィクション(主に小説や映画など)が「幻影的で、野卑、反倫理的、そして結局は退屈」 'illusory, vulgar, immoral, and, finally, boring' (p.17)であることを筆者は挙げる。それに対して考えうる応答は、文学史において名作とされる作品について考えるべきだ、というものである。例えば「人間性に関する教訓lessons for humanity」を与えてくれるとされる、ドストエフスキーの『罪と罰』などを筆者は例に挙げる。しかしその場合でも以下のような問題が生じるとする。つまり読者はその小説から何を学ぶのか?そしてもしドストエフスキーが擁護するテーゼを特定出来たとしても、それを真面目に受け取り、教えられたものとする論拠は何なのか?というものである。これは文芸批評の仕事に思われるが、筆者はこのような疑問に文芸批評家たちは取り合わず、ただ作品の「包括的重要性global significance」のみを気にかけるのだとする。つまり批評家らは、ニュートンの『プリンピキア』を読む時とは違い、小説の場合はそれが何を教えてくれるのかを、作中の3つか4つの文によっては示そうとはしないというのだ。しかも、もし『罪と罰』のような作品が「包括的重要性」を持っているとして、その「包括的重要性」に対する注目は、私たちに何かを教えることになるだろうか、と筆者は疑問を呈する。そして私たちが何を学んだのかを示すことが出来ないのならば、私たちは芸術から何かを学んだと主張し得えないのではないかと述べるのだ。

 さらに筆者はJerome Stolnitz(シュトルニッツ)の「芸術の認知的取るに足らなさについてOn the Cognitive Triviality of Art」(1992)における『オイディプス王』の例を挙げる。この作品は私たちに「人生では予想し得ないことが起こる」「誰も未来に何が起こるのかはわからない」などのことを教えてくれ、それは『オイディプス王』の「包括的重要性」かもしれない。しかしそれらのことは『オイディプス王』について語ることすら無しに知ることが出来るものだと筆者は指摘する。例えばパン屋の店員と「世界には不幸なことがたくさんありますね」「ええ、まったくです。私はその人が死ぬまで、誰かを『幸福だ』なんて言いませんよ」という会話をしたとして、そこから『オイディプス王』から学ぶことと同じことを学ぶことが出来るのだ(実は二つ目の言葉は『オイディプス王』の台詞の一つと全く同じだ)。つまり日常のありふれた事柄からそれらの「深遠な真実」や「知恵wisdom」を学ぶことが出来ると言うなら、芸術作品は必要ないのではないか、と筆者は述べる。

 以上のように美的認知主義に対する批判はある程度的を射ていると筆者は述べる。グッドマンの、真理に対する「正しさrightness」概念は、支持する人の少ないだろう相対主義的でポストモダン的な「世界ヴァージョンworld version」概念と結びついてしまっている。シュトルニッツの(科学などと比べ)「芸術的真理は娯楽sportであり、発育不全stuntedで、ほとんど及ばないhardly to be compared」という考えに筆者も同意するのだ。

 しかしその上で筆者は自身を美的認知主義者であるとする。その理由を二つ筆者は挙げる。まず一つに筆者は冒頭のゴートの主張「1.芸術はトリヴィアルでない形で私たちに何かを教えてくれる2.芸術のその能力は、芸術の美的価値を部分的に決定する」を支持するからである。またもう一つは、美的認知主義はゴートの二つの主張に収まらないものであるからだ。そして筆者によれば、後者はまた「私たちの芸術鑑賞は、心の認識的操作を必要とする認識経験の一形態である」という考えを含んでいる。筆者は同様に、関連した「芸術作品の理解と正しい観賞は、その美的性質を把握する能力を措定しており、またその理解と鑑賞は主に認識プロセスである」という考えも支持し、それゆえに筆者は「美的徳aesthetic virtue」の重要性を主張するのだとする。美的徳は、私たちが芸術を含む身の周りの世界の現実のreal特徴をとらえるために必要とされる、獲得された心性dispositionである。

 この章で筆者は美的認知主義に対して慎重である理由を述べたとする。しかしそれでも芸術は私たちに何かを教え得る、そして美的経験は認識的であるという直観は正しいのではないかと筆者は考える。そしてそのように美的認知主義を擁護する理由に、美的認知主義における、想像力の果たす役割の重視を挙げる。

 

2.

 筆者はまずゴートの想像力に関する議論を確認する。つまりゴートは

 

人は想像力から学ぶことが出来る。そしてそのことは、芸術が私たちが想像するのを導くことで、何かを教え得るという意味で特に重要である(p.19)

 

というように芸術・想像力・認識の関連を示す。しかしゴートはそのような考えに自己批判を加える。それは彼が「確認問題confirmation problem」と呼ぶもので、つまりもしフィクションが私たちの想像を導くことで何かを教えてくれるのなら、私たちはそれによって誤って導かれてmisleadいないかを確認できなければならない、というものだ。ゴートはこの反論に「私たちは物事の想像された状態に、情動的に反応することができる」(p.19)ので、その想像が正しいものであるかはある程度確認できるとする。筆者はそのような再反論が十分ではないのではないかと考え、そしてそこに「様相美学modal aesthetics」の必要性があるとする。それは「フィクションを通して可能になる様相的知識の種類の記述 an account of the kind of modal knowledge that is made possible through fictions」であり、Peter Van Inwagen(インワーゲン)が「様相認識論modal epistemology」と呼ぶものの分枝である。

 私たちが事実的factualであるとするものに縛られずに、フィクションのシナリオの鑑賞が引き起こすごっこ遊びの一種に私たちは参与することが出来る、ということがままあると筆者は述べる。そしてそのとき私たちは、私たちが可能であるとすることにすら、縛られないと考えられている。この意味で小説家や映画製作者たちは、人々が本当に信じていることに反するような想像上のシナリオを当の人々に信じさせている、と言えるのではないかと筆者は述べる。

 フィクションによって反事実的なことすら想像可能である一方で、筆者は「倫理的想像の抵抗moral imaginative resistance」と呼ばれるものに言及する。これはつまり倫理的に逸脱している世界を想像することの難しさである。筆者は殺人や強姦が善である世界を例に挙げる。「もし小説におけるキャラクターが殺人者でレイピストであるなら、どうやって私たちはそのことを考慮しそこなった彼のイメージを想像しform a picture得るだろうか」(p.20)と疑問を呈し、そして 私たちは彼が立派に振る舞っていると提示するシナリオを受け入れるのには抵抗するだろう、と筆者は述べる。

 しかし筆者は「倫理的想像の抵抗」に関しては深入りを避ける。あくまでこの論文の主旨は、ごっこ遊びは一般的に、可能性によっても「縛りがないunconstrained」という考えに関する議論だという。これは「倫理的想像の抵抗」論者にも受け入れられるだろうし、「任意の信念が可能であるわけではない」 ‘we cannot believe at will’(p.20)と考える哲学者たちも、「何かが可能であるのを想像すると決めることは可能だ」(pp.20-21)と考えるだろう、と筆者は述べる。しかしその上で筆者はそれは本当にそうだろうか、と疑問を呈する。

 私たちは小説や映画において、ストーリーの明らかなあり得なさimpossibilityに遭遇することがある、と筆者は述べる。このありえなさは現実世界に類似していないことや、現実世界で真でないこととは関係が無い。筆者は『ブレードランナー』を例に挙げ、そこで現実世界ではあり得ないほど人間によく似たロボットが登場するからといって、それがあり得ないとは言わないだろうと述べる。しかし一方で筆者が注目したいのは、逆にフィクションで提示される仕方では、物事が起こると想像できないことがあるということだ。それはフィクションのジャンルが何であるかとは関係が無い。つまりこの場合は(「道徳的想像の抵抗」に対して)「非道徳的想像の抵抗non-moral imaginative resistance」が存在するということになる。ただ注意したいのはそれがタイムトラベルやホビット、非凡な冒険をするセクシーな学者が存在することに向けてのものではないということだ。私たちはそれらを信じるbelieveことは出来ないが、簡単に「ごっこ遊びmake believe」することはできる。筆者はそのようなフィクションのキャラクターの振舞い方に向けた概念として、「様相的想像の抵抗modal imaginative resistance」を提示する。つまり私たちはある特定のキャラクターが振る舞うように、誰かが振る舞うのを想像できないということだ。筆者はゴートの言葉を再び引用する。

 

そのシーンを想像し、それが表現する命題を受け入れることもできる。しかし同時に私たちは人間の行為を含めた複雑な想像的投影という意味で、それを想像することが出来ないのだ。(p.21)

 

 私たちには、私たちが現実にそうであるのとは異なっているのを想像する力があり、そしてフィクションはそのような人間の可能性、つまり私たちがどのようにあり得るかを実験するものである、と筆者は述べる。しかしそれは常に成功するわけではなく、フィクションの提示する可能性に、私たちはしばしば抵抗するのだ。そのような「見込みのないnon-starters」フィクションは存在する。この意味で「私たちはごっこ遊びすると決める」と考える哲学者たちは、人間のそうする能力を過大に評価している。しばしば私たちは、フィクションで提示されるように物事が進行すると想像することが出来ず、ただごっこ遊びをすることが出来ないのだ。

 フィクションが私たちに何かを教えてくれるというのは、何が可能かそうでないか、何が真面目に考えるべき「別の可能性alternative」かそうでないか、を決める私たちの「心性disposition」を向上させることによってである、と筆者は述べる。だから何かを想像することが出来ない、というのは少なくともごっこ遊びの成功と同じくらい重要なのだ。それによって私たちは真剣に考慮すべき可能性と、認識論的に「馬鹿馬鹿しいstupid」もの、倫理的に「不快であるdisgusting」ものを区別する能力を身につけることが出来る。よって何かが何かしら特定の仕方では進行しないと考える、あるいは何かがそのようには進行してはいけないと考えるという、様相的想像の抵抗は、認識論的(前者)あるいは道徳的(後者)な重要性を持つのだ。後者においては、「作者が何かが特定の仕方で起こると提示するということは、道徳的に許容されるべきでないが起こり得る事柄を、作者が私たちに真剣に考えることを望んでいることを意味する」(p.22)という事実が、私たちに感銘を与え得るのだ。

 

 

3.

 

 この節で筆者は、何故フィクションが一種の「様相的想像の抵抗」の取得と発達において重要な役割を果たすのかを説明する。そのような抵抗によって私たちは、フィクションが可能性として提供するものを想像したり、あるいは拒絶したりするのだ。

 現実世界においては、私たちは確実な可能性の感覚を、自身を危険にさらすことによって獲得すると筆者は述べる。私たちは私たちが実際に選ぶこと以外が可能であると想像し、それが幻想であったとわかったり、あるいはそれが可能であったと後から気づいたりする。そして実際の選択を後悔したりするのだ。フィクションは私たちに、実際の人生で直面するような感情的な困難や倫理的苦痛、実存の危険無しに、可能性を想像させてくれる。私たちが現実で両立し得ない可能性に直面したり、選ばないといけないがどれがベストなのかがわからない、あるいはベストな選択肢があるのかすらわからないようなとき、フィクションは私たちの様相的心性modal dispositionを発達させる手助けをする試験管になってくれるというのだ。しかし一方でフィクションの様相内容も、同様の心性に支配されていると筆者は述べる。つまり現実と虚構の様相的心性は、一種の反省的均衡reflective equilibriumにあるのだ。現実に考えたことのなかった、あるいは考慮に値しないと考えていたことが可能であるとフィクションが私たちを説得するとき、私たちは可能性の感覚を修正する。一方でフィクションが私たちの最良の様相的直観に反するとき、私たちはそのフィクションに想像的に抵抗するのだ。ここで筆者は自身の例を挙げる。彼は子供のころラシーヌコルネイユを読むことで情熱的な恋愛が開かれた可能性(それはひどいものだが、無視は出来ない)であることを理解していた。また筆者はサドの小説の提示する可能性に抵抗し、それが実は本当の可能性ではなく、偽の可能性でしかない、真剣に考えるに値しない様相的な裏切りtreacheryであるとすら考えたのだ。

 そして筆者はフィクションにおける知識について以下のように述べる。

 

以上のことは、デイヴィッド・ルイスが言ったかもしれないようにフィクションが可能世界における実際の状況について教えてはくれる、ということはないことを暗示している。フィクションは私たちに可能性に関して、どの物事が可能か否かを決定するという意味では、教えてすらくれないのだ。しかしフィクションは私たちの様相的直観を向上させ、それらの直観に自信を持てるようにしてくれる。フィクションは私たちが様相的心性を身につけ、鍛えるのを手助けしてくれるのだ。(p.23)

 

つまりフィクションが何かを教えてくれるとは、様相的心性を向上させることによってだと筆者は主張するのだ。そしてこれは単に虚構的状況を鑑賞者が信じるだけでなく、「様相的想像の抵抗」によってそれを想像できないことによっても起こるのだ。以上を筆者は、フィクションは私たちの可能性(これは世界の様相的性質である)の理解に重要な役割を果たし得る、と述べてまとめる。

 以上の考えを、筆者は様相美学として位置づける。またグレゴリー・カリーの多くの論文は、実は様相美学に属するものだと筆者は述べる。

 次に筆者はインワーゲンによる「私たちの様相的判断の多くは、目による距離の判断と似ている」という考えを引用する。目測が日常生活ではある程度正確だが、他の場合にはあまり当てにならないように、前者も日常生活に限って有効なのだ。そしてインワーゲンは目測による距離判断が「非推論的non inferential」であるように、私たちの様相的判断もそうであるとする。そのような判断である様相的判断は、身の回りの世界において、何が可能か、不可能か、あるいは必然なのかについて判断を下すことが出来、また日常生活でそのような知識は不可欠であるとする。

 しかしもちろんそのような様相的判断は、間違うことがある。そして同様に、人によって異なることもある、と筆者は述べる。例えばある人は机を2フィート右にずらすと良くなる可能性があるとするが、もう一人はむしろ左にずらした方が良い可能性があると言うもしれない。そうすると前者は後者に、それは「ありえないimpossible」と言うだろう。このとき二人は、異なる様相的直観を持っていると言える。以上の例は「私が存在し、物質的なものは何も存在しない可能性がある」というような哲学的な言明とは大きく異なる、と筆者は述べる。この場合、筆者はそのような命題に一致するような様相的直観を持っていないと告白する。このような可能性は「論理的可能性」であって、学生は上の命題を、哲学の授業のコンテクストに載せて真面目に取るのかもしれない。しかし筆者はインワーゲンの「~が可能である(不可能である、偶然である、必然である)」という命題の真偽をどのように知ればいいのか?という疑問に同意する。私たちは日常生活における様相命題を知っており(「壁と隣の車の間の空間に車を停めるのか可能か?」)、また科学における仮説的推論、哲学においても思考実験という形での仮説的推論を使用(場合によっては濫用)している。しかし私たちは日常生活を超越した場合において自分たちの様相知識modal knowledgeを過信しており、さらに言えばより経験的な思考(特に生活の情緒的側面)においては、様相的直観の誤りやすさは明らかである。それらの事柄に関しては、私たちは何が未来に起こるかを想像する能力に関して懐疑的にならなければならない、と作者は言うのだ。また私たちが自分の人生に関して、別の可能性を想像する場合を筆者は挙げる。しかしそれが可能であるかを確かめるのは難しいし、またそれが意味を為すのかも定かではない、と筆者は言う。これは仮説を実験で確かめられる経験科学とは異なるだろう。そして哲学においても、様相的直観は確認したり、コントロールするのは難しいようだ。私たちはしばしば、真剣に考慮すべき可能性と馬鹿げた可能性の区別に自信過剰であり、全ての哲学的説明が曖昧な可能性の上に存在し得る、と筆者は言うのだ。そしてこのことを隠すため、哲学者たちはしばしば「何かが論理的に不可能事でないなら、それは論理的に可能だ」と言うと筆者は述べるが、それにはまたインワーゲンの「特定の事柄が特定の方法で不可能であると証明できないからといって、それは、どんな『可能性』(のようなもの)の意味においても、可能であるとは、ほとんど言えない」(p.25)という言葉で反論する。以上を筆者は、日常生活を離れた領域において、科学的な証明の手段を用いることが出来ないならば、私たちの様相的直観はますます当てにならないのだ、と総括する。

 筆者は「私たちは概して自分たちの様相的知識を過大に見積もる」と繰り返す。例えば反事実条件法において、私たちは以下のように考えがちである。「もし私が僧院の僧であったならば、とんでもない量の本を書き、祈りと瞑想の生活を送る時間があったろうに」「もし私がギャングだったら、金持ちですべての女性が私を愛しただろうに」。もちろんこれらは幻想である。「論理学的に可能な事柄a logical possibility」になるためには、まず初めに、そして単純に「可能な事柄a possibility」でなければならない、と筆者は述べる。そこから離れない限り私たちは様相的に誤ることはない。しかしそれこそが、多くの場合哲学において「様相懐疑論者modal sceptic」であるのが妥当に見える理由なのだ。筆者はデカルトを引き合いに出し、もしデカルトが真剣に懐疑的であったならば、彼は肉体としての存在を疑うのではなく、「私が存在し、物質的なものは何も存在しないことが可能だ」というような命題を理解する彼の能力の方を疑っていただろうと述べる。

 以上のように私たちは日常生活においては比較的控えめな、経験科学では検証可能な、哲学においては思い上がって危険な、様相的直観を持つ、と筆者は考える。しかし筆者は私たちが様相的直観を身につけ、磨き、そして享受する場所としてフィクションが存在するのだと言う。小説を読んだり映画を観ることで、私たちは自らの様相的心性を磨くのだ。それによって私たちの様相的直観が無謬になるわけではない。しかしそれにより私たちはある物事が可能であるか否かを判断する能力を持て、そしてその判断は何らかのフィクションに接する前とは異なるものになるのだ、と筆者は述べる。同様に私たちは、特定の小説や映画が偽の可能性を提示したときに、それはそのようにはならないだろうという観点から、それを取り下げる能力を得ることが出来る。これらのことは所謂「リアリズム」とは関係が無いと筆者は考える。完全に非現実的な物語も、私たちに真の可能性を提示し得るし、現実的な物語が空虚な可能性を提示することもあるのだ。

 筆者は様相美学の展望を以下のように記す。

 

様相美学は、フィクションが私たちにいくつかの可能なことを教えてくれるだけでなく、私たちの様相的心性を鍛え、推定的に可能であると提示されるものに騙されにくくしてくれる仕方の研究になるだろう。(p.26)

 

最後に筆者は聖書を引用し、悪魔がキリストに「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これ(世界)をみんな与えよう」と言い、それに対してキリストが「退け、サタン」と言う部分を取り出す。ある意味でこれは、キリストが悪魔によって示された可能性に、真剣に受け取らないことによって抵抗していると言える。「退け、サタン」を筆者は「私は様相的・想像的に抵抗するI modally imaginatively resist」と読み替えるのだ。小説家や映画製作者はある意味悪魔の役割を果たし、その場合の正しい作品の使い方とは、それの提示する可能性に、様相的想像的に抵抗することである。その場合であっても、作品はそれを受け入れたり拒絶したりする私たちの様相的心性を鍛えるという意味で有用であり得るのだ。

John Searle 「虚構的言説の論理的ステータス」 (1979) レジュメ

学内読書会で書いたので公開します。

 

はじめに

 

・初出:John Searle, “The Logical Status of Fictional Discourse,” in Expression and Meaning (Cambridge: Cambridge University Press, 1979), pp. 58-75

 

・いわゆる分析系フィクション論における「フィクションとは何か」という問いに対して、オースティンの言語行為論を援用しつつ語用論的に分析

-それまでの統語論的(ケーテ・ハンブルガー)・意味論的(フレーゲラッセル、クワイン、マイノング主義)アプローチとは一線を画す

 

 

 

①言葉や文章の意味と、それらを発話することによって遂行する発語内行為illocutionary act[1]との間には関係がある

-②しかしフィクションにおいては、言葉が通常通りの意味を持ちつつも、言葉に意味を与える規則が有効でない…これはどういうことか?というのが論文の主題

 

③以上の問題に取り組む前に、いくつかの概念上の区別をする必要がある

-フィクションと文学は異なる概念である

              -フィクションだが文学でない:漫画本comic book、ジョーク

              -文学だがフィクションでない:カポーティ『冷血』、メイラー『夜の軍隊』

 

④以下で筆者が試みるのはフィクション概念の分析であって、文学概念ではないし、後者は前者と同じようには分析することは出来ないだろう。理由は以下の三つ。

-⑤すべての文学作品に共通する、文学の必要十分条件となるような特徴traitがない。文学は結局のところ家族的類似性によって結び付けられているに過ぎない

-⑥「文学」とは、一連の言説に対して私たちが取る態度の集合であって、言説の内的性質のことではない。それを文学であるかを決めるのは読者であり、それをフィクションであるかを決めるのは作者である

-⑦文学とそうでないものは、連続的であり境界と呼べるものは存在しない。歴史叙述も文学になりうるし、シャーロックホームズシリーズが文学であるかの判断は分かれる

 

⑧次に、虚構的言語fictional speechと比喩的言語figurative speechの区別

-意味論的規則が変更されたり、宙づりになるという点では、両者は同じ

-しかし比喩的言語はノンフィクションでも用いられる[2]

-両者の区別は、虚構的=「真面目でないnonserious」、比喩的=「文字通りでないnonliteral」と言い表せる

 

⑨この論文では、虚構的発話と真面目な発話の違いを分析する。比喩的発話と文字通りの発話の違いは独立した問題であって、ここでは追求しない。

 

⑩「全ての主観的事柄は、私たちが問題に対する解決策を得る前に、私たちに考えるのを止めさせてくれるようなキャッチフレーズを持つ[3]

-虚構的言説に対して、「不信の宙づり」だとか「模倣」などのフレーズは、解くべき問題を示すがその解決策を示さない

-私たちの問題は、どのようにしてあるいは何故、そのような現象が起こるのかである

 

 

 

①フィクションとノンフィクションの例

              -ノンフィクション…ニューヨークタイムズの記事より

「ワシントン、12月14日。連邦、州、地方政府のグループは今日、ニクソン大統領の提案を却下した。それは連邦政府が地方政府の所得税を減税するための経済援助を行うというものだった。」

              -フィクション…アイリス・マードック『赤と緑』より

「馬無しにあと10日間も!アンドリュー・チェイス=ホワイト少尉は思った。彼は最近、名高いエドワード王の騎兵連隊員に任命され、満足そうにのんびりしていた。ダブリンのはずれの庭園にて、1916年4月のある晴れた日曜日のことだった。」

-両方とも、ほとんど文字通りにliterally(つまり比喩的でなく)書いているという点では同じ…では違いはなんだろうか?

-手始めに、ニューヨークタイムズの筆者は、「主張assertion」という発語内行為を行っている。「主張」という発語内行為の意味論的・語用論的ルールは以下の通り

-1.本質規則:主張をした者は、表現された命題が真であることtruthにコミットする(確約する、態度を表明する、あるいは肩入れする)commit oneself to

-2.予備規則:話し手は表現された命題が真であることの根拠や理由を与える立場に居なければならない

-3.表現された命題は、発話の文脈において話し手と聴き手の双方に明白に真obviously trueであってはならない

-4.誠実規則:語り手は表現された命題が真であるという信念にコミットする

 

②新聞の筆者は以上のような規則を守る責任があると考えられているのであり、仮に筆者がルールを守っていないならば、私たちは筆者の発話を、偽・誤り・間違い(1の違反)、根拠不十分(2の違反)、無意味(3の違反)、嘘(4の違反)だと見なす

 

③しかし上で引用したようなフィクションに対しては、そのような規則は全く適用されない

マードックの発話は、「1916年4月のある晴れた日曜の午後アンドリュー某が…」という命題が真であることや、その根拠を与える立場へのコミットではない

-彼女がその命題の真偽を知っている/知らないことや、その根拠を与えられる/与えられないこと、また命題の真偽に対する信念を持つことは、彼女の言語行為に関連しないirrelevant

 

④ここで私たちはこの論文の最も重要な点に行き当たる:マードックが遂行しているのは、一体どのような種類の発語内行為なのか

-文章の意味が、文章の要素に付与される言語学的規則によって決定され、その規則が、文章の文字通りの発話が〈主張〉であると決めるのであれば、それは主張でなければならない

-しかし一方で、それは主張を構成する規則に従っていないので、主張ではあり得ない

 

⑤以上の問題のよくある誤った解法:フィクションの作者は〈主張〉を行っているのではなく、〈ストーリーテリングtelling a story〉や〈小説の執筆writing a novel〉という発語内行為を遂行しているのだ

-そもそも発語内行為は文の意味の関数functionであり、文の意味が異なれば発語内行為も異なったものになり、逆もまた同様

-たとえば「ジョンは1マイル走ることが出来る」の発話と「ジョンは1マイル走ることが出来るか?」の発話は、二つの文が異なる意味を持つので、異なる発語内行為の遂行であると言える

-しかし、それらの文がフィクションの中で、文字通りの意味によって決定される元の言語行為とは全く異なる言語行為[4]を遂行するために用いられるならば、それらの文は元とは異なる意味を持つことになる

-つまりフィクションはノンフィクションとは異なる発語内行為を行うとする立場は、フィクションにおいて言葉が普通の意味を持たないという主張にコミットすることになる

-しかしこの主張は疑わしい:その場合、フィクション作品を理解するためには、それに含まれるすべての言葉や要素の意味を学び直す必要があることになる。またフィクションにはあらゆる文が存在し得るため、言語はフィクションとノンフィクションの二つの意味を持つことになる

 

⑥ではフィクションの作者はフィクションにおいて何をしているのか

-〈主張〉の「ようにふるまうacting as if」や「ふりpretending」、「やってみることgoing through」、「まねimitating」である…どれでも良いがここでは「ふり」と呼ぶ

-「ふり」には二つの意味:何かの、あるいは何かをする「ふり」とは

-1.だますことdeceptionである…「護衛をだましてホワイトハウスに入るためにニクソンの『ふり』をする」

-2.だます意図無しに、何かであるかのようなas if、あるいは何かをするかのような行為の遂行performanceである…「ジェスチャーゲームでニクソンの『ふり』をする」

-フィクションにおける言葉の使用が「ふり」であるというのは、二つ目の意味においてである

 

⑦「ふりをするpretend」は意図的動詞である:発話者が「ふりをする」意図を持っていなければ、それは「ふり」と見なされない

-よってフィクションは発語内行為の「ふり」である(第一の結論)ことから、テクストがフィクションであるかは、作者の発語内的意図に依存する(第二の結論)ことが帰結する

-テクストのどんな統語論的、意味論性質も、それをフィクションと同定しない[5]

 

⑧かつて一部の文芸批評の流派では、フィクション作品を論じる際に作者の意図を考慮すべきではないと考えた

-確かに作者の隠された動機ulterior motiveなどは考慮すべきではないかもしれない

-しかしテクストを小説、詩、あるいはテクストであると同定することすら、作者の意図に関するなんらかの主張であるのだから、作者の意図を完全に無視しようとするのは馬鹿げている

 

⑨ではどのような発語内行為の「ふり」は、いかにして可能になるのだろうか

 

⑩ノンフィクションにおける発語内行為(=主張)においては、それの守るべき規則があったが、それらは「語(や文章)を世界に関連付ける規則[6]」と見なせる

              -これを、言語と現実を結びつける「垂直規則vertical rule」とする

-そしてフィクションを可能にするのは、そのような垂直規則による言葉と現実のつながりを壊すような、一連の外‐言語的extralinguistic、非‐意味論的nonsemantic慣習である

-そのようなフィクション言説の慣習を、垂直規則による結びつきを破壊する水平的horizontal」慣習と見なす

-そのような慣習は、意味に関する規則ではなく、言説における語やその他の要素の意味を変えるわけではない

-むしろ慣習は、話し手が文字通りの意味を持った語を、通常その語の意味によって要求されるコミットメントを引き受けることなく、用いることを可能にする

-以上から導かれる第三の結論:フィクションを構成する、ふりをされた発語内行為the pretended illocutionsは、発語内行為と世界とを結ぶ規則の通常の運用operationを宙づりsuspendにするような、一連の慣習の存在によって可能になる

ウィトゲンシュタイン風に言えば、ストーリーテリングは、独特の言語ゲームであり、独自の(意味的でない)慣習・規則を持つ。そしてその言語ゲームは発語内的言語ゲームと一致するon all fours withのではなく、それに寄生するものである

 

⑪以上のことは、lyingとフィクションを対比させることでより明らかになる

-嘘の本質は言語行為の遂行における統制規則regulative ruleの一つに違反することにある

-しかし「違反violation」そのものが統制規則によって規定されているために、嘘をつくためには、規則を遵守することを学んでから規則を破る独自の実践practiceを習得する必要はない[7]

-一方でフィクションは嘘より洗練されている:フィクションには嘘にはない、「作者が騙す意図を持っていないのに、作者が真ではないと知っている言明を行うふりgo through the motionsをすることを可能にする、独自の一連の慣習」がある

 

⑫ここまでで、言葉を文字通りの意味で用いながら、その言葉の文字通りの意味に付随する規則を守らないことを可能にするものは何か、という疑問を考えてきた

-次に考えるべきは、作者が水平的慣習を発動させるのに用いるメカニズムは何か、あるいは作者はそのためにどのような手続きを行うのか、というもの

-作者はふりによって水平的慣習を用いるのだから、この問題は「どのようにふりは遂行されるのか」という問題になる

-ふりの一般的特徴:「高次のあるいは複雑な行動を、その部分を構成する低次のあるいはより複雑でない行動を実際に行うことによって、遂行する[8]

-殴るときに腕や手の動きを実際に行うことによって、殴るふりをする。この場合「殴る」ことはふりだが、腕や手の動きが現実realである

-子供が車を運転するふりをするとき、子どもは実際に運転席に座り、ハンドルを動かし、ギアシフトレバーを操作する

-そしてフィクションの作者の場合は、実際に文を発話(あるいは書く)ことによって、発語内行為の遂行のふりをする

-オースティンの用語で言えば、発語内行為はふりだが、発語utteranceは現実に為される

-フィクションにおける発語行為は、真面目な言説における発語行為と見分けがつかない。よって言説をフィクションと同定するテクスト的特徴は無い

-水平的慣習を発動させる意図をもって遂行される発話の行為こそが、発語内行為の遂行のふりである

 

⑬第四の結論:「フィクション作品の執筆を構成する発語内行為の遂行のふりの本質は、発話の通常の発語内的コミットメントを宙づりにする水平的慣習を発動する意図をもって発語行為を実際に遂行することに存する[9]

 

⑭以上の点は、一人称の物語や演劇というフィクションの事例を考えると明らか

-「それは1895年のことだった。私が立ち入る必要はなかった一連の出来事が、シャーロック・ホームズ氏と私が偉大な学園都市の一つで何週間かを過ごさせたのは。そしてその間にこそ、私が今に物語ろうとしている、小さなしかし教訓的な冒険が私たちに降りかかったのだ。」

-ここで作者(コナン・ドイル)は単に〈主張〉のふりをしているのではなく、(語り手の)ワトソン博士であるふりをしているのだ。

-このように一人称の物語では、作者は〈主張〉を行う誰か他の人であるようなふりを行う

 

⑮演劇においては、ふりを行っているのは作者というより、実際のパフォーマンスにおける登場人物である

-つまり、演劇のテクストは擬似-主張pseudo assertion

-脚本家:テクストにおいて行っているのは、ふりそのものへの参与というより、ふりの処方箋を書くこと

-虚構のストーリーは物事の事態のふりをした(偽装された)表象pretended representationだが、演じられた演劇そのものは、偽装された物事の事態そのものであり、役者が登場人物であるふりをするのだ

-つまり演劇においては、作者は主張をするふりをしているのではなく、役者が従う「ふり」をどうやって上演するenactかの指図directionを行っている

ゴールズワージーの戯曲『銀の箱』の例

-「第1幕第1場。バースウィックの大きく、近代的で、豊かに備え付けられたダイニングルームの幕が上がる。電気灯がともっている。大きく丸いダイニングテーブルの上には、ウィスキー、サイフォン、そして銀のたばこケースの載ったお盆が出されている。時刻は真夜中過ぎ。ドアの外から物音がする。ドアが急に開く。ジャック・バースウィックがまるで倒れ込むように部屋に入ってくる…

 

ジャック:やあ!ただいま帰った―(挑戦的にDefiantly)」

マードックの小説の場合、作者は主張のふりをしていたが、ゴールズワージーは戯曲に関する主張のふりをしているわけではない

-彼は戯曲が上演されるときに、ステージの上で実際に物事がどのように起るかに関する指図をしている

-このとき戯曲のテクストの持つ発語内的な力forceは、ケーキのレシピと同じようなもの=何かをするように指図する

-「ふり」の要素はむしろ、上演の際に現れる:役者はバースウィック家の一員であるふりをし、何々をするふりをし、そして何々という感情を持つふりをする

 

 

 

①以上のような分析は、以下のような伝統的なフィクション作品の存在論にかんする問題の一部を解決する

-「シャーロック・ホームズ夫人は存在しない、何故ならホームズは結婚しなかったからだ。しかしワトソン夫人は存在する。それはワトソンが結婚したからだ、ただしワトソン夫人は結婚から間もなく亡くなったのだが。」という言明は真なのか、偽なのか、それとも真理値を欠いているのか?

-以上の問題を解決するためには、真面目な言説とフィクションの言説を区別するだけでなく、それらの二つと「フィクションに関する真面目な言説」を区別する必要がある

-上の発言を真面目な言説として受け取るなら、それは偽である(ワトソン、ホームズ、ワトソン夫人は存在しないため)

-しかし同じ言説をフィクションに関する言説として受け取るならば、上記の言明は真である(ホームズとワトソンというフィクショナルキャラクターの婚姻歴を正確に報告しているため)

-筆者はドイルではないので、上の言明それ自体はフィクションではない

 

②上記の発言は、フィクションに関する言明として取ることで、言明形成の構成規則を遵守する

 

 

 

 

③では作者は、どうやってフィクショナルキャラクターを「創り出すcreate」のか?

-第1節の「アンドリュー・チェイス=ホワイト大尉はそう考えた」という文では、作者のマードックは固有名、パラダイム指示表現paradigm referring expression(?)を用いている。

-文全体が〈主張〉のふりであるように、この部分でマードック〈指示〉のふりを行っている

-〈指示〉が満たすべき条件は、指示すべき対象が存在することであり、マードックはそのように指示される対象がある「ふり」をしている

-また私たちも「ふり」を共有する限りで、アンドリュー・チェイス=ホワイト大尉が存在するかのように振る舞う

-つまり、フィクショナルキャラクターを創り出すのは以上のような〈指示〉のふりpretended referenceであり、そのような「ふり」の共有こそが私たちにキャラクターについて話すことを可能にするのだ

-ただしあくまでフィクションの作者は本当に〈指示〉を行っているのではなく(指示対象が存在しないため)、〈指示〉の「ふり」をすることでフィクショナルキャラクターを創り出しているのだ

-そして一度創り出されれば、ストーリーの外側に居る私たちもそれらを〈指示〉することが出来るようになる。この場合は〈指示〉の「ふり」ではなく、真正の〈指示〉が行われている(対象が存在するため)

 

④しかし一方で、虚構的指示fictional referenceはすべてが〈指示〉の「ふり」ではない

マードックの小説におけるダブリンの指示や、ホームズシリーズにおけるオックスフォードあるいはケンブリッジの指示は本当のreal〈指示〉であり、『戦争と平和』の「ピエール」と「ナターシャ」はフィクションだが、「ロシア」は現実のロシア、「ナポレオン戦争」現実のナポレオンに対する戦争である

-では何が虚構的で何がそうでないかはどうやって決めるのか:「作者が何にコミットしているのかは、何が間違いとされるかでわかる[10]」(?)

-つまり、もし第1節のノンフィクションの例において、「ニクソン」という人物が存在しないのならば、作者は間違っている

-しかしアンドリュー・チェイス=ホワイトが存在しない場合、マードックは間違ったことにならない

-そして『シャーロック・ホームズ』においては、ホームズとワトソンがベイカー街からパディントン駅に地理的にあり得ないルートで向かった場合はドイルが間違ったことになるが、ワトソンの記述に当てはまるアフガン帰還兵[11]が存在しなかったとしても、それは間違いにはならない

-ある種のフィクションのジャンルは部分的には、作者の作品における非虚構的コミットメントによって定義される

自然主義小説とお伽噺やSF、シュルレアリスム小説との違いは、現実の場所における特定の事実であれ、人にとって何が可能で世界がどのようになっているかという一般的事実であれ、作者がどの程度実際の事実actual factにコミットしているかによって部分的に決まる

 

⑤今までのまとめ

-人を指示するふりをしたり、出来事を説明するふりをすることで、作者はフィクショナルキャラクターや虚構的出来事を創り出す

-リアリズム小説や自然主義小説においては、作者は(虚構的指示に混じって)現実の場所や出来事を指示し、虚構的ストーリーを私たちの既存の知識の拡張として扱うことを可能にする

-作者は読者とともに、フィクションの水平的慣習がどこまで真面目な言葉の垂直的なつながりを壊すのかについて、一連の了解understandingを定める

存在論の「可能性possibility」に関する限りでは、何でも可能である:つまり、作者はどんなキャラクターも出来事も創り出すことが出来る

-一方で存在論の「許容可能性acceptability」に関する限りでは、一貫性coherenceこそが重要な考慮すべき事柄である

-しかし一貫性に関しては普遍的基準が存在しない:SFで一貫性と見なされるものが、自然主義ではそうではないこともある

-何が一貫性となるかは部分的には、水平的慣習に関する作者と読者の協定contractの関数である

 

⑥フィクションに非虚構的な発話が挿入されることがある

-『アンナ・カレーニナ』の冒頭:「幸福な家庭はみな同じ仕方で幸福であるが、不幸な家庭はそれぞれに異なる、違った仕方で不幸である」…これは虚構的でない、真正の〈主張〉である

-「幸福な家庭は多かれ少なかれ異なっているが、すべての不幸な仮定は多かれ少なかれ似通っている」とナボコフが『アーダ』の冒頭で意図的に誤った引用をしたとき、ナボコフトルストイに間接的に反駁して(そしてからかって)いる

-以上の例から、論文最後の区別が明らかになる:フィクション作品work of fiction虚構的言説fictional discourse

-フィクション作品はすべてが虚構的言説によって構成されないといけないわけではない、一般的にそうではない

 

 

 

・一つ答えていない重要な疑問がある:何故私たちは、おおよそ言語行為の「ふり」によって構成されたテクストに、これほどの重要性を置き努力を払うのか?

-簡単には答えられない…答えの一部は、人間の生における想像力の果たす重要な役割、そして人間の社会的生において共有された想像力の所産の果たす重要な役割に関係しているだろう

-そのような役割の一面は、一部の真面目な(つまり非虚構的な)言語行為が、それ自体はテクストに表象されないにもかかわらず、虚構的テクストによって伝達され得るという事実からも理解できる

-それは作品の「メッセージmessage」と呼ばれるもので、テクストの中でin the textではなく、テクストによってby the text伝達される

-テクストで直接言ってしまうのは子供向けのお話か、うんざりするほど説教臭いトルストイみたいな作家くらい

-作者が言語行為のふりの遂行によって、どのようにそのような真面目な言語行為を伝達するのかに関する一般的理論はまだ存在しない

 

[1] J.L.オースティンによる言語行為論の基礎概念:言語行為論は、発語行為locutionary act、発語内行為illocutionary act、発語媒介行為perlocutionary actという分類を基本とする

-発語行為:何かを発話する行為(「そんなことをしてはいけない」)

-発語内行為とはその発語行為によって為される行為(彼は私の行いに抗議した)

-発語媒介行為はそれによって結果的に生み出される効果のこと(彼は私を引き止め、考え直させた)

[2]ヘーゲルは哲学市場では死んだ馬dead horse(役に立たないものの意)だ」は虚構的でないが、比喩的である。「昔々はるか遠くの王国に賢い王がおり美しい娘が...」は虚構的だが、比喩的ではない

[3] “Every subject matter has its chatchphrases to enable us to stop thinking before we have got a solution to our problems.”

[4] つまり〈ストーリーテリング〉や〈小説の執筆〉など

[5] つまり語用論的性質(=作者の執筆・構成時の発語内的意図)によって決まる

[6] “[R]ules correlating words (or sentences) to the world” (p.326)

[7] 嘘をつくには〈主張〉という発語内行為の統制規則を知っていれば良い(知っている必要すらない?)が、フィクションではそれに加えて、それに寄生する規則を余計に知っていなければならない

[8] “It is a general feature of the concept of pretending that one can pretend to perform a higher order or complex action by actually performing lower order or less complex actions which are constitutive parts of the higher order or complex action” (p.327)

[9] “[T]he pretended performances of illocutionary acts which constitute the writing of a work of fiction consists in actually performing utterance acts with the intention of invoking the horizontal conventions that suspend the normal illocutionary commitments of the utterances” (p.327)

[10] “The test for what the author is committed to is what counts as a mistake”

[11] “A veteran of the Afghan campaign answering to the description of John Watson, MD”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

グレゴリー・カリー『物語と語り手たち』におけるフレーム理論

Gregory Currie, Narratives and Narrators - A Philosophy of Stories, Oxford: Oxford University Press, 2010.

www.oupjapan.co.jp

主に第5章「表現と模倣 Expression and Imitation」より。

 

 

0.はじめに-分析美学における物語論

 分析美学では「フィクション」が長らく重要なトピックとして研究されてきたが、一方でしばしばフィクションと強いつながりを持つ「物語」概念の研究はどうなのだろうか。物語一般の理論研究(=物語論)というとやはり、バルト、ブレモン、グレマス、そしてジュネット(あとエーコとか)のフランスの構造主義物語論を思い浮かべる人が多いと思うが、英米圏の現代美学でもやはり物語について論じている人が居る。今回紹介するカリー以外にもピーター・ラマルクが単著*1を出していたり、ノエル・キャロルが論文集を2冊*2*3を編集していたりする。ただフィクション論の文献の中に紛れ込んでしまっている場合もあったりして(マリー=ロール・ライアンが言うように物語概念はフィクション概念とは区別されるものであるのだけど)、あまり日の目を見ていない(気がする)。

 今回紹介するカリーのフレーム理論は、語りの視点の「フレーム効果」が読者のストーリーへの反応を促すというもので、物語におけるテクストと読者の感性的関係の枠組みを考えるのに有用かもしれない。

 

1.カリーの「フレーム」理論

 「フレームframe, framework」とは、カリーが(物語)コミュニケーションに関する概念として提示するものである。「フレームframeworkとは、ストーリーに対する望ましい認知的、価値的、感情的な反応の集合である[1]」とカリーは述べ、またそれが物語を表象する過程で表現されるもので、表象される物語内容そのものとは区別されるとする[2]。また作品のフレームは一度受け手に伝えられると、受け手の物語や登場人物、出来事に対する反応に影響を与えるとされる[3]。つまりフレームとは物語(の主に作者)が、物語の内容に対する受け手の様々な面における反応を制御する方法であると言うことが出来る。そしてあとで検討する事柄だが、このような物語のフレーミングに私たちは常に従うのではなく、提示されるフレームに対して抵抗することもあるのだ[4]

 

2.心理実験におけるフレーミング

以下ではカリーのフレーム理論を詳しく検討するが、カリーは初めからフレーム理論をフィクション物語に直接適用することをしない。初めに引用されるのは、以下のような心理実験[5]である。

 

病気に対抗する二つの選択肢が提示される。結果は以下の通り:

 

もし計画Aが採用されれば、200人が助かる。計画Bが採用されれば、三分の一の確率で600人が助かり、三分の二の確率で誰も助からない

二つのどちらかを選ぶように言われた人々のうち、72%の人々がAを選んだ。

 

もし計画Cが採用されれば、400人が死ぬ。計画Dが採用されれば、三分の一の確率で誰も死なず、三分の二の確率で600人が死ぬ。

 この場合、22%の人々がCを選んだ。

 

Kahneman and Tversky (1981)ではここで人々の反応に作用しているものを、フレーム効果(framing effect)と呼んだ。つまり前者(AとB)では問題を「得るもの」の点からフレーミングし、「200人を必ず救うことが出来る」ことが「600人を三分の一の確率で救う」ことより魅力的であるようにしている。一方で後者は反対に、「失うもの」の点からフレーミングしているのだ。計算すればわかるように、ABCDはすべて同じ事態を記述しているのであり、本来ならば前者と後者で違いは生まれないはずである。それにもかかわらず人々の反応が変化した原因を、ここではフレームと呼んでいるのだ。

 そしてカリーは、以上のシナリオを物語の形にした場合、前者と後者は「視点point of view」において異なると主張する。

 

二つの視点の違いは、潜在的に失われる命に対して、潜在的に守られる命に注目する傾向と関係している。二つの記述の何も、それらが事実に関する異なる意見の産物であるとは、示唆しない。

The differences between these points of view are to do with a tendency to focus on lives potentially saved as opposed to lives potentially lost; nothing in the two accounts suggests they are the product of distinct opinions on matters of fact. (88)

 

つまり二つの記述に対する反応の違いは、事実に対する「信念belief」の違いとは異なるものであり、それは二つの記述の「視点」の違いによるものだとカリーは言うのだ。以上のようにカリーは、フレームを語りの視点と結びつけ、その視点がどのように物語でフレームの役割を果たすかを詳述する[6]

 

3.視点と主体

視点とフレームの関係について述べる前に、カリーは視点がそれを持つ主体とどのような関係にあるのかを明らかにする。

「視点」と(それを持つ)「主体」の関係についてカリーは以下のように述べる。

 

私たちは、主体の心理的状態の全体性を、その視点への貢献として考えることが出来る。一方でそのような心理的状態の自己中心的な部分が、そもそもそのような視点を持つことを可能にしているのだが。

[W]e can think of the totality of an agent’s psychological states as contributing to their point of view, while a proper subclass of those states – the egocentric ones- make possible the having of a point of view in the first place. (89)

 

つまりある主体の全体性や自己中心性とその視点が、本質的に関係していると言うのだ。また同様に彼は視点が「自己中心的」である主体の、世界における時間的・空間的(そして精神的)な限界に必然的に付随するものであるとする前提に立つ。自己中心的でないような時空間的・心的状態は行為において存在し得ないということだ。

 そして以上のような一つの主体と結びついた視点は、物語において常に不完全な状態で与えられると言う。つまり語りの視点は主体の世界における限界に付随するものであるから、すべてを包含するような視点はあり得ないのだ[7]。そしてそれは同時に、視点がそれを持つ主体と他の主体の登場人物を区別するということを意味する。言い換えればある主体を他の主体から区別するものこそ、視点であると言うことが出来る。

そして視点が主体を弁別するものである以上、二人の人物の間で少なくとも一つは、一方が認知し、一方が認知しないものが存在する。しかしそれは「ある視点を十分に理解するとは、その視点が可能にする知ること、感じること、語ること、そしてすることのリソースを理解することだ[8]」と言うように、単に知識に限られない。それはその主体が知り、感じ、語り、すること全てが関係するとカリーは言うのだ。よってある同じことを知っていてそれを言うことに関しても、AとBという二つの主体の視点においては、知識と行為以上の違いが生じる。例えばAがそれをするのは驚くべきことで、Bはそうではないというような感情的な違いが、主体と視点の違いによって生じうるのだ。

また語り手の視点は、通常は物語そのものの中で説明されることはない。それは物語の内容ではなく、その外側から明らかになるものなのだ。カリーは語りの視点と物語の関係について以下のように述べる。

 

それ[語りの視点]は、関心やムード、感情、評価や他のものを表現するような、語り手によって行われることたちによって、明らかになるのだ。[…]語りの視点を表現するような物語は、自然にその視点の産物のような種のものになるだろう。怒った仕草が怒りの心的状態を表現するように。

'it is made evident by things the narrator does which are expressive of interests, moods, emotions, evaluations, and the rest. [...]A narrative expressive of a point of view is the sort of things which would naturally be the product of that point of view, as an angry gesture is one expressive of an angry state of mind.' (90-91)

 

語りの視点は物語において、語る主体の関心やムード、感情、評価などによって明らかになるものなのだ。このように、カリーは語りの視点が、語るという行為そのものから見出されるものだという立場を採っている。

 そしてそのような語りの視点を表現する行為は、以下のように多様であるとカリーは述べる。

 

多くの振舞いが人の視点を表現し得る。つまり何かを表現するように意図された[…]あからさまな振舞いと同様に、言語的あるいは非言語的行為、そして鬱の人の態度などの非随意的振舞いもそうなのだ。

'Many kinds of behavior may be expressive of a person’s point of view: verbal and nonverbal action, involuntary behaviour, such as the depressed person’s posture, as well as behaviour which is intended as expressive and which may [...]overt: in such a case I make it clear that my behaviour is intended as expressive.' (91)

 

例えば真剣な主張は、ある人の信念の意図されたあからさまな表現である。しかしその一方で意図せずに主体の関心・感情・ムード・評価などが、振舞いを通じて表現されることもあるのだ。そして後者の振舞いは、しばしば主体の視点を(非意図的であるために)示しているとされることが多いとカリーは述べる。一方で主体の視点を直接表現するように意図されていると思われる振舞いは、私たちを主体がそう望むような視点に誘導しているとされるのだ。

 

4.物語における視点のフレーム効果

続いてカリーは、物語における視点に関する前提をいくつか提示する。まず一つは登場人物の視点を、登場人物の性格characterの一部としてみることが出来るというものだ。ここでカリーはシェイクスピアの『オセロ』を例に出す。この作品ではイアーゴがオセロに、彼の妻デズデモーナとキャシオーが不倫していると信じ込ませる。ここではイアーゴがオセロの認知的視点を操って、オセロが確かに何かを見たり聞いたりしているようにするが、それはイアーゴが、オセロが何にどのように反応するかの性格を把握しているからだ。そのようなオセロの性格は、彼の視点であると言うことが出来るだろう。そのような性格としての視点を、カリーは以下のように考える。

 

私たちの多くは、ある特定の仕方で推論し、ある種の要素に重きを置き、特定の事実や可能性に他よりも注意を向ける。私たちは修正に抵抗を感じるような、一般的信念や優先事項を持ち、それは私たちの実践的および理論的推論に影響を及ぼす。また私たちはある選択肢を目立たせ、他をぼやかすような。感情的な感性を持っている。

Most of us reason in a certain way, give special weight to certain kinds of factors, attend to certain facts or possibilities more than to others; we have general beliefs and preferences which are resistant to revision and which affect our practical and theoretical reasoning; we have emotional sensitivities which highlight some options and obscure others. (91-92)

 

カリーの言う性格とは、私たちが何かを考えるときの傾向や、一般的な信念、そして感情の全般的な傾向のことを言っているのであり、視点はそのような性格の一部であると言えるだろう。そしてこの語りの表現する性格のため、あるいは語りが様々な出来事に対する反応を内包しているために、視点の表現としての語りnarrationは一つの人格全体を表現することが出来るのだ。

 そして物語作品における視点は、作中の人物と同様に作品の語り手も持っている。カリーは両者をそれぞれ外的語り手[9](主に作者)、内的語り手(登場人物など)として区別し、前者に物語コミュニケーション上の重点を置く。そして外的語り手の視点と内的語り手の視点が矛盾するとき、私たちは通常前者を正しいとし、後者を「倫理的あるいは感情的に信頼できないmorally or emotionally unreliable」とみなすという。そしてカリーは以下のように述べる。

 

私のここでの関心は、主に最も高次のもの、物語によって表明される最も権威のある視点である。この視点こそ、一つの全体として見られたストーリーの、フレーム効果が依存するものである。作品が完成された意味を為すためには、他の下位の視点も理解する必要があるのだが。

My interest here is primarily with the highest level, most authoritative point of view manifested by the narrative; this is the point of view on which the framing effect of the story, considered as a whole, depends, though other, subaltern perspectives need to be understood if we are to get a rounded sense of the work. (92)

 

ここでカリーが言う「最も権威のある視点」とは、以上の文脈を踏まえれば外的語り手の視点であり、その視点にこそ、物語のフレーム効果が存するという。確かに一つ物語作品において、私たちの反応を規定するのは語り手の視点におけるフレーミングであり、登場人物のそれではないのだ。

 そして最後にカリーはストーリーとフレーミングの関係について以下のように述べる。

 

ストーリーとフレームはそれぞれ別のものであり、両者はそれぞれ二つの別々の問いに対する答えに対応する。それは「ストーリーによれば何が起こるのか?」と「私たちはどのように、それらの出来事に反応するよう誘導されているのか?」というものである。しかし私たちは一般的に、一方を特定せずにもう一方を特定することは出来ない。フレームの知識の、ストーリーの知識への依存は明白だ。またより明白でないが、反対方向の依存もある[…]。つまりフレームそれ自体が部分的に、私たちがストーリーの出来事に関して言われることを、どのように受け取るかを決定するのだ。語り手に対する望ましい反応は、懐疑的なものなのだろうか?その答えを知ることは、ムードや作品のトーンの感覚による。もし語り手が信頼出来ないとするならば、そのストーリーで何が起こるかの仮定を、根本的に考え直すことになるだろう。

Story and framework are distinct things, and they correspond to the answers we give to two distinct questions: "what happens according to the story?" and "in what ways are we invited to respond to those happenings". But we generally cannot identify the one without identifying the other. The dependence of our knowledge of framework on our knowledge of story is obvious [...]. And less obviously, dependence runs the other way: the framework itself partly determines how we are to take things that are said about the story’s events. Is the preferred response to the narrator a sceptical one? Knowing the answer may depend on a sense of the mood or tone of the piece. If we take the narrator to be unreliable, we will have radically to rethink our assumptions about what happens in the story.' (93)

 

ここで言われているのは物語内容としてのストーリーと、それがどのように語られるかに関するフレーミングの関係である。ストーリーが明らかでなければフレームがどのように為されていることを知ることは出来ないが、信頼できない語り手などの場合、ストーリーがフレームに依存することもある。カリーは以上でフレームに関する前提を提示し終えたとし、フレーミングの実例とその背後にあるメカニズムについての記述に移る。

 

5.コミュニケーションにおけるフレーミングの例

 カリーはフレーム効果を、文学などの物語芸術によく見られるものの、より広い領野で見られるものだとする。まずカリーはコミュニケーションにおいて情報内容informational contentとシグナリングsignallingを区別する。これは上記の物語内容とフレームの区別と対応しており、これによってカリーはフレーム理論をコミュニケーション全般に適用しようと試みている。 シグナリングとは対話の相手にあるムードを生じさせたりすることであり、それは「その行動が自分に利益を与えたり、あるいは害になったりするような誰かの内に、正しいムードを作り上げることは、重要になり得る」 ‘Creating the right mood in someone whose actions may benefit or harm you can be important’(94)というように主体の利益のために重要な行為である。カリーはこれに人々の情動的状態を「チューニング」するために発達したものだと進化論的説明を与え、これを言語以前の音楽から派生したものだとする。

 カリーによって与えられるフレーミングの一つ目の例は以下のようなものである[10]

 

休日にコモ湖にやってきたジャネットとジョン。ジャネットはバルコニーのドアを開けて、ジョンに見える仕方で、また明らかに見えることを意図して、味わうように空気を吸い込んだ。

Arriving for a holiday at Lake Como, Jante throws open the balcony doors and, in a way that is visible to John, and is clearly intended to be visible, sniffs appreciatively at the air. (94)

 

ここでカリーが注目するのはジャネットの行為である。これによってジャネットは空気が新鮮だという情報をジョンに伝えようとしたのではない。ジョンはすでにそれを知っているからだ。ジャネットはそうすることによって、二人にとって相互に明示的な仕方で、空気の新鮮さに二人が注意を向けるようにしたのだとカリーは述べる。また加えてジャネットはジョンに、彼女が現在そうしているような仕方で世界を見るように仕向けてもいる。ジャネットのそのような意図は以下のように言い換えられる。

 

ジャネットはジョンに、彼女が世界のある一部に注意を向けている仕方で、注意を向けることを望んでいる。つまり、喜んで、始まったばかりの休日の可能性に興奮して、という仕方だ。ジャネットはジョンに、特定の物事に気づくことを望んでいる。またその物事が提示する特定の可能性に想像的に参与することを、そしてそれらの物事と可能性を一定の方法で価値があると見なすことを望んでいる。

Janet wants John to attend to that portion of it [world] in the way that she is attending to it: appreciatively, gratefully, with excitement at the possibilities for the holiday that has just begun. She wants John to notice certain things; to engage imaginatively with certain possibilities which these things present; to see these things and possibilities as valuable in certain ways. (94)

 

つまりジャネットの行為の意図とはジョンに、新鮮な空気に、ジャネットと同じ仕方で注意を向けてもらうことであるとカリーは言うのだ。そしてそれは「彼女はジョンに一定の仕方で可視世界をフレームすることを望んでいる[11]」と言い換えられ、そのようなジャネットの行為は(ジョンに対する)「フレーミング」であるとされる。

 上の例のようなフレーミングは、状況を考慮すればその意図に従うことは難しくないように思える。しかし従うのが難しいフレーミングが為される場合は存在し、そのような場合、「フレームを受け入れることは[…]概念的および感情的に自身を引き伸ばし[…]努力と心的柔軟性を要求する仕方で反応することを求める[12]」ことになるのだ。そしてこの例であれば、ジョンが単にジャネットを送っただけで休日を共に過ごすわけではなかったり、あるいは新鮮な空気が嫌いだった場合には、ジョンはジャネットのフレームを受け入れるのを難しく感じるだろう、とカリーは述べる。

 ただカリーによれば、ジョンがフレームを受け入れるのに困難を感じている場合、何らかの命題(例えば「新鮮な空気は爽快だ」)を想像しても役に立つことはない。ジャネットが求めるのは命題の共有ではなく、命題に対する一つの視点の共有だからだ。結局ジャネットのものの見方をジョンが受け入れるのは、ジャネットの例の仕草による。ジャネットのフレームをジョンが受け入れるということは、以下のようにまとめられる。

 

彼[ジョン]がしなければならないのは、それらの物事を評価することを含んだフレームに、想像的に入り込むことである。彼自身が本当にそれを評価していない、あるいはジャネットがそうするほどは、あるいは彼女がそうしている方法では評価していないとしても。

What he needs to do is to enter imaginatively into a framework that includes valuing these things, even though he may not really value them himself – or not so much as, or in the same way that Janet does.’ (95)

 

ジャネットが提示するフレームとは、ジョンに一定の仕方での反応を求めるものである。それに対してジョンは、ジャネットと性格や好み、そして知識をある程度共有している場合には、フレームを容易に受け入れることが出来るだろう。その場合ジョンはジャネットが注意を向けている可能性を想像することが出来るからだ。このような注意の共有をカリーは心理学や脳科学における「共同注意joint attention」の一種とする。次の例では物語の生成における、フレームとその背後にある共同注意の働きを、カリーは解説する。

 

6.物語における共同注意とフレーミング

以下はカリーの引用する、共同注意とフレーミングの例である。

 

母:指どうしたの?(What happened to your finger?)

子:挟んじゃった (I pinched it.)

母:挟んじゃったんだ。あぁ、それはとっても悲しいね (You pinched it. Oh, boy, I bet that made you feel really sad.)

子:うん…。いたい… (Yeah... it hurts.)

母:そうだね、痛かったね。指を挟むって楽しくなんてないよね。でも誰が来てよくしてくれたの? (Yeah, it did hurt. A pinched finger is no fun… But, who came and made you feel better?)

子:お父さん! (Daddy!)

 

この会話に対して、カリーは以下のようにコメントする。

 

母親は出来事を正しい時系列の順序に並べるように気を配り、表象された出来事の構成と順序を導く。また同時にその中で物語に参与するようなフレームを与えてもいる。つまり痛みを思い出させるが、その後のポジティヴな展開を強調することによって、ネガティヴな感情の強い再帰を避けるのだ。

The mother guides the construction and ordering of represented events, taking care to place events in their correct chronological order, while at the same time providing a framework within which to engage with the narrative: recalling the hurt but discouraging a strong resurgence of negative emotion by emphasizing the positive turn of events after that.  (96)

 

つまりこの例では出来事を直接経験した子が物語るのだが、その語りの生成に際して母親が介入している。そのとき母親は子の語る出来事を単に時系列立てるだけでなく、その語りの形式をコントロールすることによって、その出来事に対して子がどのように反応するべきかを規定しているのである。この例に関してさらにカリーはHorel and McCormack (2005)を引用し「そのような導かれた物語構成は母親と子供が『共有された過去の個人的・感情的評価』に至るのを可能にする[13]」と述べる。そしてカリーは以上のような会話におけるフレーミングと共同注意を、以下のように物語全般に適用する。

 

この意味での共有された個人的・感情的な評価は、私たちの最も成熟した物語への参与においても存続し、広く見られることを示す。そのような参与において、共有は受け手と、物語そのものの中に現れる作者人格の間に為されるのだ。

I suggest that this sense of a shared personal and emotional evaluation survives and indeed flourishes in our most mature engagements with narratives, where the sharing has come to be between audience and the authorial personality manifested in the narrative itself. (97)

 

ここでカリーが「成熟した物語への参与」と述べる際に念頭にあるのは、小説の読書体験だろう。以上で述べたような会話における共同注意や、出来事に対する個人的・感情的評価の共有によるフレーミングは、物語一般に見られるというわけだ。しかし私たちはすぐにその問題点に気づく。会話と違い小説などの読書経験は、両者の時空間的な共在を欠いているという点である。この点についてカリーは以下のように「誘導注意guided attention」の概念を用いて詳しく述べる。

 

7.物語作品における誘導注意

上で述べたように、カリーは会話におけるフレーミングで見られるような共同注意を、そのまま物語作品の鑑賞体験に適用することはない。カリーによれば、共同注意はコミュニケーションにおいて双方の「相互の開示mutual openness」を必要とする。しかし物語的コミュニケーションの場合多くは、作者はもう一方(読者)について何もわからないし、それ以前にそのような相手がいるのかすら、知ることがないのだ[14]。よってカリーは物語について以下のように考える

 

物語に組み込まれたある人の典型的な状況は、私たちを、それ自体厳密な意味での共同注意の状況を構成することなく、共同注意の探し手となるような傾向に置くそれらの能力に心理的に基礎づけられている、と私は考えたい。

I prefer to think of the typical situation of one engaged by a narrative as psychologically grounded in those capacities which make us apt to be seekers of joint attention, without itself constituting a case of joint attention in the strict sense. (97)

 

ここでカリーが言っているのは、物語への参与は共同注意をする能力に基づくが、それが成功しているのではなく、共同注意を探し求めているだけだということである。

そこでカリーは共同注意がその「洗練された形式refined form」であるような、より一般的な現象として「誘導注意guided attention」を提示する。それは「人は、もう一人の何らかの対象への注意の、その人自身のその対象への注意への影響を経験する[15]

誘導注意全般に関してカリーは「それ[誘導注意]は、場面や対象に向けられた共有された感情の価値的経験を、含む、あるいは含むようにデザインされている[16]」と述べ、感情の共有を強調する。物語作品のフレームと感情の関わりを、カリーは以下のように述べる。

 

私がここで感情の役割を強調するのは、物語のフレームを採用するのは物語内容に対して「調律される」ことを意味するからだ。それは物語の登場人物と出来事への参与の全体に及ぶ安定性を示すような、選択的で集中的な仕方で反応する傾向を持つようになる、ということなのだ。

I emphasize the role of emotion here because adopting a framework for a narrative means being tuned to the narrative’s content; being apt to respond to it in selective and focused ways that show some stability over the length of one’s engagement with its characters and events. (98)

 

つまり物語の提示するフレームを受け入れるということは、物語内容に対して自由に反応するのではなく、物語自体が指定する方法で反応するように要請されるということなのだ。それは単に物語の世界において、語り手が取り出して語るものに受け手が注目するというだけではない。その際に物語のフレームは、受け手の物語内容に対する感情を指定するのだ。

カリーは感情とは別に、「ムードmood」も誘導注意によるフレームにおいて果たす役割が大きいとする。それは「特定の出来事に対する一定の感情的・価値的反応を、他より起こりやすくする[17]」もので、物語における「誘導注意」の重要な一成分であるのだ。

特にムードに関して、カリーはディケンズの『リトル・ドリット』という小説を例に出す。彼によれば私たちは登場人物の運命や行為について知る前に、ディケンズの言葉の選び方によってムードを提示されるのだ。

 

彼[ディケンズ]は白い壁や道を「見つめる」ことや「土地の広がりや荒れた道」そして「こげ茶色の」塵のことを語る。厳しい暑さ、港の水、水膨れのある麦が表象されるのだが、その表象の様式は、容易に記述し得ない、ある種の陰鬱な抑圧を表現するのだ。

[H]e speaks of 'staring' white walls and streets, 'tracts of arid road,' and dust 'scorched brown'. The intense heat, the water within the harbour, the blistered oats are what is represented, but their mode of representation expresses a certain, not easily described, mood of sombre oppression (99)

 

このようにディケンズは物語における表象の「様式mode」によって、何かしらのムードを表現する。そして受け手はそれに対して「私たちは語り手のムードを実感する。[…]そして私たちはそのムードを自分たちのものとするのだ。ムードを作るのに、何らかの特定の、感情を惹起するストーリー内の出来事は必要ない[18]」というように、物語のムードを自分たちのものとするのだ。

 以上のような感情やムードの共有の原理を、カリーは人間の模倣しようとする傾向にあるとする。フレーミングのメカニズムにも人間の進化が関わっていると論じるのだが、ここでは省略する。カリーの模倣観は「心的調和としての模倣imitation as mental harmonization 」というものであり、それは意識的でも無意識的でもあるとする。

 

8.物語鑑賞における「標準参与モデル」

以上の議論を踏まえ、カリーは自らの「私たちの物語への反応が、作品の中で明らかになる語る人格の関心、評価、反応によって、形成される仕方[19]」という関心に対する答えを、最終的に「物語への標準参与モデルthe standard mode of engagement with narrative」としてまとめる。それは以下のようなものである。

 

物語は、それがその語り手の視点を表現するものとしての機能を果たすので、私たちの心にその視点を持つ人格のイメージを作り出す。そのことによって私たちにその人格の顕著な側面、つまりその価値的な態度や感情的反応、を真似するように促すのだ。そのような反応を受け取る中で、私たちは全体的であれ部分的であれ、その作品の標準的なフレームを受け入れるようになるのだ。

Narratives, because they serve as expressive of the points of view of their narrators, create in our minds the image of a persona with that point of view, thereby prompting us to imitate salient aspects of it – notably, evaluative attitudes and emotional responses. In taking on those responses, we thereby come to adopt, wholly or in part, the framework canonical for that work. (106)

 

[1] [A] frame work is a preferred set of cognitive, evaluative, and emotional responses to the story. (86)

[2] I will argue that framework is communicated to us, not as something represented, but as something expressed in the process of representing the story'. (86)また内容と形式としてのフレームの区別については、同書の6章4節 Confusing Framework and Contentで詳しく述べられている

[3] '[F]ramework, once communicated, will influence the response of the audience to story, its characters, and events.' (86)

[4] 'But we do not always welcome, or approve, these attempts to frame our experience of the work; we sometimes experience resistance to framing.' (88)本書では後に「想像的抵抗imaginative resistance」がフレーム理論との関わりにおいて論じられる。

[5] Kahneman and Tversky (1981) ‘The Framing of Decisions and the Psychology of Choice’, Science, 30: 453-8から引用したもの

[6] 「視点point of view」は一般に「物語られる状況・事象が提示される際の知覚・認識上の位置」(『ジェラルド・プリンス『改訂 物語論辞典』遠藤健一訳, 松柏社, 2015年)などと説明されるものである。しかしカリーにおける「視点」は明らかにそのような「知覚・認識上の位置」以上の、一つの人格の価値づけも含めたパースペクティヴなようなものだと言える。

[7] A narrator or character’s point of view is never given in full; what is focused on is always some relevant aspect of that point of view, usually some aspect which distinguishes that agent from other significant characters. (89-90)

[8] 'To understand a narrator’s point of view fully is to understand what resources for knowing, sensing, telling and doing that point of view makes available.' (90)

[9] 外的な語り手は以下のように端的に定義される:「フィクションの外的語り手とは、その人にとってストーリー上の出来事が虚構であるような人物のことである」 'The external narrator of a fiction is someone for whom the events of the story are fictional' (92)

[10] Sperber and Wilson [1995] から引用したもの。

[11]  ‘She wants John to frame the visible world in a certain way’ (94)

[12] Adopting a framework […] requires us to respond in ways that call for effort and mental flexibility, stretching ourselves conceptually and emotionally […]. (95)

[13]  'such guided narrative constructions enable mother and child to arrive at a "shared personal and emotional evaluation of the past".' (ibid)

[14] ただここでカリーは読者にとっての作者人格の不在には触れていない。作者人格にとって読者が開かれていないように、読者にとっても作者人格は開かれていないだろう。

[15] one experience the influence of another’s attention to some object on one’s own attention to it (98)

[16] They involve, and may be designed to involve, valued experiences of shared emotion, directed at a scene or object. (98)

[17] 'making certain emotional and evaluative responses to specific events more likely than others'

[18]  'We have a sense of the narrator’s mood, as expressed through his act of representation, and we quickly catch that mood ourselves; we need no specific, emotion-generating event in the story to create the mood.' (ibid)

[19] ways in which our responses to a narrative are shaped by the interests, values, and responses of the narrating personality we see revealed in the work. (105)

ラッセルの記述理論のメモ①

青山拓央『分析哲学講義』(ちくま新書, 2012年)の講義3「名前と述語」より。

はじめに

 基本的な概念だけどよくわかってなかったので。バートランド・ラッセル Bertrand Arthur William Russell(1872-1970)の記述理論 theory of descriptionsに関するメモ。この記述理論は分析哲学における「なぜ言葉は意味を持つのか」「言葉の意味とは何か」という大きな問題系につながるものと言える。

 ラッセルは「表示についてOn Denoting」(1905)という論文で、記述理論によって確定記述句を分析した。

 確定記述句とは単一の事物を指す句で、固有名と代名詞以外のこと。英語で言うなら定冠詞 'the'が付く句と言える。例えば「現在のイギリス王」「ヒッチコック監督の遺作」などが確定記述句となる。ラッセルとしては表示句(指示句denoting phrase)の分析のために、その部分集合である確定記述句を分析し、やがて固有名を分析するという道筋をたどる。確定記述句の分析はその道程にあると言える。

 一方で記述理論を雑にまとめるなら、「確定記述句やそれを含む文の論理構造を、一般名詞と量化によって記述する」方法のことだ。

記述理論の意義

 これが何故うれしいかと言うと、それまでは論理的に説明できなかった「指示対象が実在しない表現」が、意味のある言葉として論理的に捉えられるようになるからだ。言い換えれば、「指示対象を持たない言葉は、空集合を指示するのですべて意味が同じ!」ではなく、ちゃんと違う意味を持つ言葉として論理的に弁別出来るようになるということだ。確かに「百人の子供を生んだ女性」と「浦島太郎の息子」は具体的な指示対象を持たず、空集合を指示するが、だからといって同じ意味を持つわけではないだろう(vacuously trueではないということ)。

 またこれは、「ある人some man」などの、特定の誰かを指すわけではない表示句の意味を、述語論理学の枠組みで再解釈し、論理的に表せるようにした、ということでもある。

具体的な分析例

 具体的に考えてみる。確定記述句を含む文の例としてWikipedia*1で挙げられているのは、 "the current Emperor of Kentucky is gray."「現在のケンタッキー州の皇帝は白髪である」というもの。ここでは「現在のケンタッキー州の皇帝」が指示対象が一つに定まる確定記述句だ。さて「現在のケンタッキー州の皇帝」という言葉の指示対象は存在しないので、文は空集合を指示することになるだろうか?例えば「現在のケンタッキー州の皇帝は赤毛だ」や「2+2=5」も空集合を指示するのだから、上の文と同じ意味を持つことになるのだろうか?それは直観に反する。

 そこで記述理論の出番だ。この文をラッセルの記述理論を用いて言い換えると以下の3つの命題の連言になる:

1.there is an x such that x is an emperor of Kentucky.「ケンタッキー州の皇帝であるようなXが存在する」
2.there is at most one emperor of Kentucky.「ケンタッキー州の皇帝であるようなものは、多くても一人である」(あるいは「XとYのそれぞれについて、XとYが両方共にケ皇帝であるなら、X=Yである」とも。)
3.anything that is an emperor of Kentucky is gray.「ケンタッキー州の皇帝であるようなものは、すべて白髪である」

ケンタッキー州の皇帝は白髪である」iff1∧2∧3 ということだ。

 ここで注目したいのは、文が3つの命題の連言になる際、定冠詞 "the"を含まない形で記述されている、つまり確定記述句(the current Emperor of Kentucky)が消去されているということだ。ここにおいて「ケンタッキー州の皇帝は白髪だ」という文の意味を考えるに際して、「ケンタッキー州の皇帝」という確定記述句の指示対象について考える必要はない。この文は単純に1.の「ケンタッキー州の皇帝であるようなXが存在する」が偽であるから、全体として偽であるのだ。

量化の活用

 またこの記述理論による分析は述語論理における「量化」をうまく使っていることにも注意したい。つまり記述理論では、フレーゲ以来の量化記号である∀(すべての〜, any)と∃(ある何らかの〜, some)によって、確定記述を表すことが出来るのだ。つまり「ケンタッキー州の皇帝であるbe an emperor of Kentucky」という述語をF、「白髪であるbe gray」という述語をGとすると、「ケンタッキー州の皇帝は白髪だ」は「あるxについて、「xがFである」かつ「すべてのFについてyがFならばx=yである」、かつ「xがGである」」と言い換えられる。これは勿論以下の論理式の言い換えである。

(∃x( (Fx∧∀y(Fy→x=y) )∧Gx) )

固有名の分析へ

 前にも述べたように、ラッセルの分析は表示句、その部分の確定記述句、さらに固有名へと進んで行く。

 例えば浦島太郎という固有名を考える。彼は架空の人物であるから、確定記述句と同様に、その意味を指示対象とすることは出来ない。ここで固有名の意味を指示対象と同一視してしまうと、「夏目漱石夏目金之助である」はトートロジーということになってしまう。(もちろん実際には上の文は有意味であることは明らかだ)

 そこでラッセルは固有名を省略された確定記述であると考え、ある述語を満たす対象を指す言葉だとした。例えば浦島太郎であれば

  • いじめられている亀を助けた
  • 海のなかの竜宮城に行った
  • 乙姫から玉手箱をもらった
  • etc...
などの述語を満たすだろう。
 ここで以上の述語を「ウラシマる」という一つの述語にまとめてしまうと、「浦島太郎はB型である」という文は、以下の命題の連言として理解できる。
  1. ウラシマるような何らかのもの(人間)が少なくとも一つ存在する
  2. ウラシマるような何らかのもの(人間)が多くても一つである
  3. ウラシマるようなすべてのもの(人間)は、B型である
1.が偽である以上、これらの連言である「浦島太郎はB型である」も偽である、ということになる。よってここで固有名が含まれる命題について考えるときに、その固有名の指示対象については考えなくてよくなっている(だから存在しなくても構わない)というわけだ。
 
続きは今度

 

 

「想像力」に関するメモ

佐々木健一「想像力」『美学事典』東京大学出版会, 1995, pp.79-89.

 

メモ

 

・想像力は精神的活動のうちでも、身体に媒介されているという特殊性がある

→またそれゆえに具体的であり経験的な働きであると言える

→独自の一般性・論理性を持つ

 

・古典的概念から現象学的想像力にいたるまで、一種の「受動性」が認められている

→感覚的な外部刺激を基盤にする精神的活動であるということ

―また古典的概念において、そのような外部刺激が「記憶」と結びつけられる。デカルトも、想像力は記憶を基盤に像を形成すると述べる

 

・カントによる構想力(生産的想像力)と再生的想像力の区別

デカルト・ヒューム的な想像力は後者であり、既に経験した像(記憶)が基盤になる

→それに対して前者は、感性の多様としての後者を統一する、先験的総合の働きを持つ

―このような想像力は、見たことのないものを想像するというような創造的なもの

―そのような自由な想像力は、合法則性を備えた悟性と調和的に遊動することで、美的判断の基盤となる。言い換えれば美的判断は想像力の自由な合法則性によって規定される。

→以上のような構想力はカントによって美学・芸術と結びつけられ、ロマン主義に受け継がれる

 

・またここまでの議論とは少し異なる流れに、フィクション作品の様相と結びついた想像力もある。問題となるのは想像力の理性的規範(ただ想像力を理性と空想の中間に置くという点では他の想像力論と類似?)

―もちろんアリストテレス詩学』の議論のこと:歴史は起こったことを語るのに対して、詩は起こり得ることを語る

→何が「起こり得る」とされるのかについては、想像力における理性的な規範があるということか

―スクルートン:フィクション作品は現実に対して「適合appropreate」しなければならない(これも規範的)。常に現実を参照して、適切性を理性によって判断されるフィクション

→また一方でフィクションは可能性を構築することで、現実を可能性の文脈に置く。

→このような想像力は、再生的想像力の一種?現実的な蓋然性の感覚という意味でのヒューム的な連想の法則によって、フィクションの適切性が判断される。

 

レジュメ

 

定義:「身体に媒介されている限りでの精神の働き全般

「精神が身体の影響を遮断して、純粋に思考しようとするとき、その思考は抽象的・一般的・論理的な性格を帯びる。それに対して、身体との関係に即して思考するとき、その思考は具体的・具象的であり、経験の抵抗との相剋のなかで展開されてゆく。思考である限り、一般的であり論理的であることに変わりはないが、具体的であることによって、想像力の思考のもつ一般性や論理性は独特なものとなる。」

 

・第一義には「イメージを形成する力」「像を表象する力」だが、それだけでない

→例えば「文学作品の優れた想像力」というのは「虚構における優れた技巧」のこと

→「現実生活のなかでこの虚構の創出に相当するのは、他人の立場になって考えたり、他人を思いやったりすることであろうが、この場合にも像は必須の条件ではない。」

→〈像の産出〉でない「想像力」

 

・想像力は不在の対象だけでなく、現実の対象についての思惟でもある:物真似の認識

―現実にも想像力が働いているというカント的認識論→様相的直観?

 

 

・想像力の古典的概念

アリストテレス:「記憶(や狂気)」と重なる

―スコラ哲学:感覚的刺激を統括する共通感覚と関係

              ←記憶され想像される像は、外部感覚から共通感覚へと導かれるため

デカルト:共通感覚も想像力も、脳の松果体という記憶(精神)の座における、精神と身体の結合の働きである

―「左右の眼から伝えられた視覚的刺激はこの腺に収斂して、ただ一つの対象の像を結びつつ、記憶のなかに痕跡を残す。また逆に、精神はこの松果腺を動かして記憶の貯蔵庫のなかを探してしかるべき像を想起し、あるいは部分的な像を組み合わせて空想にふけったりするわけである。」

→つまり想像するとは、意識を身体に向けて、理性や感性で把握した観念に符合するなにものかを、身体において見つめること

 

・ヒュームによる想像力の法則

―ヒュームによれば知覚はすべて感覚に由来する。

―想像は「再生された観念」という点で記憶と類似するが、活気の強さ、そして「経験されたときの観念の順序の組み換え」という点で記憶とは異なる。

→つまり想像においては一つの観念から別の観念に、「類似」「隣接」「因果関係」の三つの連想によって移行する

→このような想像力はカントによって「再生的想像力」として一段低く見られた

 

・カントの生産的想像力

―構想力Einbildungskraft:「感覚的刺激の所与の多様性を一つの形象へと統一し、精神(悟性)の理解に供するもの」→身体=物体と精神の媒介(デカルトの想像力論の延長)

              →これに対して、すでにある像を想起する想像力は再生的想像力

→再生的想像力が発動するには、その前にその像が経験されていなければならないが、そのような最初の像を、感性の多様から統一させ、経験可能にする働きが先験的総合=生産的想像力

―知性を支える想像力:生産的想像力=構想力によってセンス・データは統一され形象を形成するが、それはさらに概念と像の中間的存在である図式に媒介され、悟性の理解出来るものになる

 

・カントはそのような創造的想像力を美学と結びつけるに至る

―これは古代のピロストラトスや偽ロンギノスの、見たことのない対象を取り上げる想像力と類似

―カントは対象を美と判断する働きを、想像力と悟性の調和的遊動と関連付けた

―悟性は合法則性を担うため、そのような美的判断は「想像力の自由な合法則性」によって規定されていると言える

→ここで言う「自由な想像力」は(連想の法則に支配された再生的なものではなく)自分から感覚的な形を創り出すような、生産的で自発的な想像力である

→ロマン派の創造的想像力へ

 

・コールリッジと創造的想像力:悟性↔感性、精神↔自然、無限↔有限を媒介するカント的想像力はロマン主義に受け継がれる

フィヒテを経て、ノヴァ―リス、シュレーゲル、シェリング

―シュレーゲル:自我は世界の多様を概念の統一性に還元し、世界を縮小する(『純粋理性批判』認識論的想像力)一方で、詩的想像力によって自己を世界に拡大する(『判断力批判』創造的想像力)

シェリング:カント的想像力をベーメの影響下で創造力へと移行させた

―コールリッジ:想像力↔空想力fancyの対立

              ―空想力:連想の法則に支配された再生的想像力

↔想像力:多(複数の状況・要素)を一(一つのイメージ・感情・直感的思考・根本原理)へと還元・一体化する力

→これらのロマン主義的想像力が、美学において高く評価されてきた

 

・想像力の理性的規範:想像力は悟性の概念的把握・推論から距離を置きつつも、まったく非合理的な空想・幻想とは異なる

アリストテレス:悲劇の筋立ては事実の再現(歴史)ではなく、「ありそうだ」「あらねばならない」などの蓋然性・必然性によって組み立てられる

―スクルートン:アリストテレスを受けて、想像力の作品は「現実に対して適合appropriate」することが求められるとした。

―「想像力の仕事は諸々の可能性の構築を含んでおり、その目的は、おそらく、現実世界をこれらの可能性の文脈に置くことにある」

→想像力の作品は現実を逆照射することを究極の目的とし、そのような目的に適う虚構こそが「適切」である

―想像力はそのように、虚構の「適切性」を判断するという面において理性的なものである

→「想像力は[…]かれらにその理性を行使するように、すなわち一句ごと、一つひとつの作品ごと、一文ごとになぜと問うように、そして身近な現実性の世界に対するその適切性を判定するように仕向けるのである」

>「想像力」概念と「可能性」「蓋然性」を橋渡しする可能性?→様相概念

 

 

サルトル:想像力の「像」について

―1.像は意識の中にあるというよりも、意識そのものである

―2.想像は知覚と思惟の中間である(知覚のように対象を見つめるが思惟のように自分の知ることを支えとする活動である)

―3.想像の対象は現実の存在ではなく、非存在、不在として措定される

―4.想像の対象は無であるから、想像とは自発的で創造的である

→以上より想像力とは「意識の偉大な〈非現実化〉機能」;精神の現実から脱出する働きである

 

・しかしこのような想像力は芸術家の創造的想像力というより、友人の顔を思い浮かべるような表象作用(再生的想像力みたいな?)である

→創造的想像力は(コールリッジ的に言えば)多を一体化するもの。言い換えれば「多」は既知であるが、想像力による一体化が生む構想によって初めて、対象が実在する(⇔サルトルの像概念は既知のもので閉じていて、対象は無)

→そのような創造的想像力は言い換えれば、「多」という所与を前提する、「受動的」なものである(感覚の多様を把捉するカント的構想力の残響?)。

→ただし日常的な想像力でさえ、想像力は外部からの刺激を受けて働く受動的なものである

→「想像力とはむしろ、刺激を受けて活性化され、視野を広げ柔軟性を増した精神のことである。そこで初めて「霊感」も湧く」

 

サルトルにおける芸術作品と想像力:作品とはイメージであり、その観賞のためには作品の物質層=アナロゴン(メディウムみたいな?)を「無化néantiser」しなければならない

―「実在的なものは決して美しくない。美は想像的なものにしか帰することのできない価値であり、世界をその本質的構造において無化することを伴っている」

→しかしこのような芸術観は、一種質料的と言える自然美や、作品の質料的面などを見過ごしている(筆者によればこれは「精神と構想(アイディア)そして形を偏重する西洋思想の正統的伝統が受け継がれている」)

 

バシュラールの「物質的想像力」

―私たちは対象を見るときその「形」に着目するが、その見るという行為に先立って「物質的夢想」があり、それが見る対象を選ぶ

―「物質的夢想」:物との直接的な交わりに触発され、無意識的で、自然の産出力(能産的自然)に根差す。

→見たり、形式的想像力を導く⇔物質的想像力を導く

―後者の手は直接物質をこねる手でなくてはならないが、それは既に出来た形をなぞるものではない。それは単なる目の代用としての手である

「よくできた輪郭線をたどり、すでにできている仕事を検査する、気まかせな愛撫する手は[…]職人が働いているのを見つめる哲学者の哲学へと導いていく。[…]すでにできている仕事のこの視覚化は、おのずから形式的(形相的)想像力の優位を生み出す。」

→「これとは逆に、勤勉で命令的な手は、深い愛情を示しつつ抗う肉体のように、抵抗するとともに言うこともきく物質をこねあげることによって、実在的(レエル)なものの本質的特徴である機能亢進dynamogénieを学ぶのである」

―以上のような物質的想像力は、現実の像を形成する働きというより、「現実を超え、現実を歌うイメージを形成する能力」

―またこのようなバシュラールの思想は、精神と身体の媒介としての想像力の働きが、西洋思想において身体の精神化において理解されていたのに対して、精神(思想)の身体的位相を捉えている点で例外的

Shen-yi Liao 「想像的抵抗・物語参与・ジャンル」レジュメ

Shen-yi Liao "Imaginative Resistance, Narrative Engagement, Genre" (2016) https://philpapers.org/rec/LIAIRN

 

 

0.イントロ

 

・想像的抵抗は現実世界と物語上の命題との不一致?

→いや、ジャンルによってそのような不一致は乗り越えられる

 

・想像力には制限がないという直観→しかし実は規範的な制限があるのでは?

→想像的抵抗の問題系:現実世界と一致しない規範的な命題を想像することの困難についての考察の蓄積

→しかし今までの想像的抵抗の議論では二つの特徴が考慮されていないのではないか

  • 想像的抵抗が物語参与(フィクションなどから美的な快楽を得るために想像力を用いること)という特定のプロジェクトを行うときに起こること
  • 規範の不一致の際でさえ、想像力の制限はジャンルによって緩和されること

 

 

1.想像的抵抗

 

1.1抵抗現象の輪郭

 

・最初期の定義:事実的命題に対して倫理的命題において想像的抵抗が起こる(Gendler 2000)

→議論は洗練され、今ではより広く「記述的命題に対する規範的命題」「非反応依存的命題に対する反応依存的命題」において想像的抵抗が起こるとされる

→この論文では名称はともあれ後者のカテゴリーに属する命題を「問題となる命題puzzling proposition」とする

 

・最も重要な洗練は、抵抗の諸相を明らかにしたもの(Weatherson 2004; Walton 2006)

→この論文ではそれらを規範的なものと心理的なものに分類する

→また以上の理論的洗練は、想像的抵抗が必ずしも想像に関連しないとする。よって想像的抵抗と言うより、抵抗現象と呼ぶべきだろう

 

・規範的側面=「虚構的真の問題fictionality puzzle」:何故特定の命題は虚構的に真たらしめることが難しいのか

→そのような命題は「作者の自由authorial freedom」そして「読者の想像力[1]」に規範的な制限をかける

→つまり虚構的命題に対する規範的制限は、(命題が規範的であるのに加えて)読者が想像「しなければいけない」という点で二重である

 

心理的側面=「想像の問題imaginative puzzle」(読者は何故特定の命題を想像するのに比較的な困難を感じるのか)と「現象学的問題」(読者は何故特定の命題に対して不快な混乱jarring confusionを感じるのか)

→二つは関連して起こることが多い:またそれは何故なのかという問いもある

 

1.2抵抗現象の枠組みを考える

 

・以上のような抵抗に関する問題を列挙するだけでは十分でない。それらの問題を適切に位置付ける必要がある

→重要なのは問題を起こす文章が、物語の一部として抵抗を引き起こすということ:抵抗現象は物語参与という心的プロジェクトmental activityの過程で起こる

→心的プロジェクト:特別な規範的・認知的重要性を持つ(精神の)活動。Neil Van Leeuwen(2009)の「実践的設定practical setting」と類似したもの。

―「実践的設定」は主体の認知装置のその場限りの再構成を可能にする

ごっこ遊びの実践的設定の場合、それは想像力がguiding actionの中でより直接的な役割を担うことを可能にする(?)。また実践的設定は私たちの期待を一時的に再形成するため、ごっこ遊びの場合にはその「ふり」に関連する一連の規範を主体は受け容れることになる

 

物語参与はそのような心的プロジェクトの一種であり、そこで私たちはフィクション物語などの想像的プロンプトから美的な快楽を得るために想像力を用いる

→これに対して想像力は様々な心的プロジェクトの中で用いられる命題的態度[2]のことである。想像力は物語参与以外にも、ごっこ遊びや反事実的推論の際に用いられる[3]

→また想像力を用いる物語とのインタラクションすべてが物語参与になるわけでもない:試験勉強のためだけに小説を読む学生や、映画の過激表現をチェックするためだけに見る映倫の人とかは、物語に想像的に参与しているとは言えない

 

・物語参与が、他の物語とのインタラクションと区別されるのは、それが作品それ自体から美的快楽aesthetic pleasureを得るために遂行されるという点。

→これは創造的想像力から美的快楽を得るのとは異なるということ

→また物語参与はそのような美的快楽のために、読者は想像力(や関連する心理的反応)を物語の規定の制御の下に置かなければならないという規範的要求を持つ

→「物語参与の際、人は自分の想像力を虚構的真fictionalityに向ける」

 

・物語参与において抵抗現象が起こる際、他の想像力を用いる心的プロジェクトが発生することはない

→例えば抵抗現象と、倫理的熟考などの反事実的推論は同時に起こらない。つまり「女性の嬰児殺しは善」という命題を反事実的推論として想像するとき、そこに抵抗は生じない

 

・以上から、抵抗現象は孤立した命題に関してではなく、物語参与という心的プロジェクトにおける規範性物語の心理というコンテクストに位置付けて考えるべき。

―規範性の問題は、物語において命題が虚構的真となる基盤についてのもの

心理的問題は、物語への反応を因果的に形成する要素についてのもの

 

1.3複雑な抵抗現象

・最近の想像的抵抗の議論はジャンルを考慮することが多い

→Nanay (2010):同じ命題でもジャンルによって抵抗現象が生じたり消えたりする

→Weinberg and Meskin (2006):カートゥーンでは倫理的に逸脱した命題への抵抗現象が消えることがある

→経験科学におけるテスト:

―最後に「嬰児殺しは善」という命題をつけたストーリーを、警察の調書のスタイルとアステカ神話のスタイルで提示し、どちらが抵抗を生じさせるか実験した。

→同じ命題(嬰児殺しは善)でも、コンテクストのジャンル(警察の調書とアステカ神話)によってそれを虚構的真とするかどうか分かれる、あるいはそれが倫理的に良いと感じるか悪いと感じるかが分かれる

 

 

2.ジャンルと物語参与

トドロフは『言説の諸ジャンル』(1990)で、「ジャンル」の「読者の期待の地平」であり「作者の執筆のモデル」であるという二重の機能について語った

→つまりジャンルは作り手の物語の構築受け手のその経験に影響する。言い換えれば何が虚構的に真であるか何が想像されるのかに影響する。

→ジャンルは物語参与における規範性と心理において重要である

 

2.1ジャンル

・ジャンル=最も基本的には関連する共同体において特別であると認識される物語のグループのこと

 

ウォルトンは「芸術のカテゴリー」(1970)において、作品があるジャンルに属しているかどうかは様々な要素に依存するとした:

―そのジャンルの他の作品との類似、作家の意図、批評的判断、そしてそのジャンルの美的快楽のための傾向propensity for aesthetic pleasureなど

 

・通常一つの作品は複数のジャンルに属し、そのためジャンル同士は重なる

→それらの対立の解決は関心・文脈依存的に為される

 

・ただジャンルが重要なのは、単にそれがクラス分けである以上に、それが「物語参与の規範性と心理への示唆」を持つため

→作品のジャンルの不一致についての議論は、作品における虚構的真と参与の方法に関わる

―「キャラクターが涙の潮流によって世界に洗い出された」というのが(単に隠喩的な意味でなく)物語における真がどうかに、作品がマジックリアリズムであるかリアリズム作品であるかは関連する(虚構的真)

―グロい斬首シーンを笑えるかどうかは、その映画がホラーなのかブラックコメディなのかによる(参与の方法)

 

・ジャンルは物語における命題が虚構的真であるかと、受け手が物語に参与する(べき)方法に影響を与えるのだ

 

2.2慣習

・規範的側面:ジャンルは作者が何を虚構的真にし得るかを制限する

 

生成原理Principle of generation:直接作品に示されていない命題のうち何が虚構的真であるかを決める

 

・ジャンルの慣習

―記述的側面:SFとされるものは実際現実の物理法則を侵犯していることが多い

―規範的側面:SFに分類されることによって作品は物理法則の侵犯を正当化される

→これはジャンル慣習が生成原理によって作品の虚構世界を制限していると言える

 

2.3期待

心理的側面:ジャンルは読者の想像と心理的反応を規定する

 

ウォルトンごっこ遊び理論:虚構的真とは物語が読者に想像するように指定しているもの

→ジャンルは物語の想像指定の一部であり、それは読者が何を想像すべきかを指定している(SFにおいて読者は現実物理法則の違反を受入れなければならない)

→このようにジャンルは読者に義務を指定する=ジャンル的期待を持つ

 

・心理アーキテクチャとの関係:ジャンル的期待はストーリー図式story schemaである(物語におけるschema概念についてはMandler (1984)など)

→理想的な物語参与においては、読者は適切なジャンル的期待という図式を利用し、それによって「ストーリーについていくgo along with the story」

→一方で読者が適切なジャンル的期待にアクセスできないとき、その物語参与には恣意的・意識的な努力が必要となり、その型に一致する容易さtypical easeが失われる

 

ジャンル的期待/物語参与の流暢さ/美的快楽の三者には相互作用がある

―読者が適切なジャンル的期待によって流暢な物語参与を行うとき、美的快楽は増大する

→逆にジャンル的期待が適切でないとき、作品の美的に価値のある特徴を見逃しがちである

―一方で読者は主に作品の美的特徴を埋め合わせcompensate、関連する類似した作品に触れることでジャンル的期待を獲得する

→読者はそれによって美的快楽を得、流暢な物語参与を獲得する

 

・例えばストラヴィンスキーの『春の祭典』は1913年パリの初演では大不評だったが、現在では名作とされている

→その革新性によって、当時の受容者はジャンル的期待を形成できなかった

 

 

3.ジャンルと想像的抵抗

・ジャンル的慣習は作品の虚構的真を基礎づけ、ジャンル的期待は読者の想像に影響する。

 

3.1虚構的真の問題

・先の例であれば、警察の調書の形式で書かれた「嬰児殺しは善」という倫理的命題は、そのジャンルにおいて慣習不協和であるため、虚構的真の問題を惹き起こす。

→警察の調書というジャンルは倫理的命題の現実世界からの逸脱を許さない

 

・一方で同じ命題がアステカ神話の形式で書かれた場合、「嬰児殺しは善」という命題はそのジャンルにおいて慣習協和であるため、虚構的真の問題を惹き起こさない。

アステカ神話というジャンルは倫理的命題の現実世界からの逸脱を許す

 

・また慣習不協和はどのような命題が虚構的真になり得るかにも影響する

→虚構的真は基本的に作者が決定するものだが、作者が書いたものが全て自動的に虚構的真になるわけではない:例えば作品の諸特徴がそのジャンルはリアリズム小説であることを示していたならば、作者が単に「光より速い宇宙船が存在する」と書いても虚構的真になるのは難しい

―またさらに、作品がどのジャンルに属するかも、全て作者が決められるわけではない

→例えば批評家が作品のジャンルを何と判断するかも影響

 

・以上より倫理的逸脱による抵抗現象という枠組み自体を再考する必要がある

→何人かの論者は倫理的逸脱が抵抗現象の必要条件ではない(抵抗現象の原因は必ずしも倫理的逸脱ではない)と論じたが、筆者はさらに倫理的逸脱は抵抗現象の十分条件でもない(倫理的逸脱があるからと言って必ず抵抗現象が起こるわけではない)と論じるのだ

→結局倫理的に逸脱した命題が抵抗を引き起こすのは、それがジャンル慣習に不協和である場合である

 

ウォルトン(1994)が言うように、SFがあるようにMF(Moral Fiction、現実とは異なる倫理法則が働くフィクション)は存在し得るし、存在するだろう

 

3.2想像的問題

・3.1ではジャンル慣習の不協和によって、倫理的に逸脱した命題が虚構的真を形成できない例(虚構的真問題の例)が示された

→一方でジャンルは読者にジャンル的期待を生じさせ、その期待と作品の不一致が想像の問題を引き起こすのだろう

 

・同じ例を挙げれば、警察の調書のジャンルは、型通りに、自動的に、そして無意識的に現実世界と同じ倫理規範を期待させる

→そして「嬰児殺しは善」という命題はそのようなジャンル的期待に対して不協和であるために、抵抗を引き起こす

―そして一方でアステカ神話のジャンルはそのような期待を形成しないために、抵抗を引き起こさない[4]

 

トドロフが言うように、ジャンル的慣習が作者が何を容易に虚構的真とするかを制限するように、ジャンル的期待は読者が何を容易に想像出来るかを制限する[5]

 

・読者が命題を与えられたとき、その命題が意味を成すための図式や、新しい図式を形成したり所与のものを適用するための傾向を持たなければ、その命題は困惑させるpuzzlingものになる

→例えばジャンルがリアリズム小説であった場合に、それから逸脱する命題に対して、読者は意識的な心的努力によってそのジャンル的期待を乗り越えることは可能。しかしその場合にも、想像が比較的困難であることは明らか

 

・もちろん読者のジャンル的期待は(そこに十分な動機があれば)しばしば再形成を余儀なくされる

→特に優れたフィクション作品の場合、ジャンル的期待を裏切ることは多く、また優れた作者は一見困惑させる命題を提示し、それを美的快楽によって想像可能にすることがある〈しかしどうやって?〉。

→よって読者はそのような期待の再設定の労力を補償してくれる美的快楽を見出せない場合にのみ、リアリズム的期待の初期設定に戻されるdefault to realist expectations。

→よって読者は現実世界的特徴を期待する初期設定を持ち、作品が他のジャンルの目印を示した場合に期待が再構成される(読者は前知識無しの場合作品をいきなりSFとして読み始めないということ)

 

・以上から、上の警察調書が何故抵抗現象を示すのかをまとめる

―まずそれはリアリズム以外のジャンル的期待を提示しない

―さらにそれはそのような想像の困難を埋め合わせるような美的に価値のある特徴を持たない(なんたってそれは哲学者が書いたストーリーであってリデイア・デイヴィスのショートショートじゃない)

→よって読者のジャンル的期待は再形成されず、そのジャンル図式に当てはまらない「嬰児殺しは善」という命題は抵抗現象を引き起こす

 

3.3現象学的問題

・上でも述べた通り、適切なジャンル的期待や図式が無ければ、物語参与は流暢、つまり素早く、自動的で、無意識ではなくなってしまう

→そのようなときに現象学的問題が生じると言える

 

・想像的問題のときと同様、現象学的問題も一時的なものと恒常的なものがある

→一部の作品はわざと不快な困惑を起こし、それより前の部分を再解釈するように読者に仕向けたりする

→よって抵抗の現象学the phenomenology of resistanceは、それ自体は哲学的な問題ではない(?)

→その抵抗の現象学が恒常的な場合にのみ、そこに哲学的な問題があると言える[6]

 

・想像的問題も現象学的問題も、適切なジャンル的期待の欠如とそれによるそれによる物語参与の流暢さの欠如という、同じ心理的基礎を持つ。よって二つは概念的には区別されるが、よく同時に起こる[7]

 

3.4 「the Grand Scheme of things」の中のジャンル的説明

・ここまでで抵抗現象をジャンルによって説明した:

―困惑させる命題は、ジャンル的慣習に不協和であるために虚構的真にするのが比較的難しくジャンル的期待に不協和であるために想像するのが比較的難しく、そして流暢な物語参与に必要なジャンル的期待を読者が欠くために、不快な混乱の感覚を生じさせるのだ

→もちろん以上のジャンル的説明がすべてではないが、ジャンルは抵抗現象に際して重要な役割を担っている

 

・ジャンル的説明の優位性

―これまでは想像的抵抗の現象が、異なる説明による異なるメカニズムによって説明されてしまっていた

  • Gendler (2000, 2006)やYablo (2002)は問題となる命題によって生じる観念conceptに注目した。

→作品で要請される倫理的観念が現実のものと異なる場合、想像的抵抗を生じさせるとした

  • Walton (1994, 2006)やWeatherson (2004)は高位の主張と低位の基礎との併発関係supervenience relationに注目した。

→作者は虚構的に真である低位の主張を変えることが出来るが、その低位の基礎に(倫理的主張などの)高位の基礎を結びつける併発関係は変えることが出来ない。よって現実でも適用されるような倫理的併発関係を侵犯することは、抵抗現象を引き起こす

 

・以上の説明はどれも、ある命題がある物語では抵抗を引き起こし、また他の物語では引き起こさないという現象を説明できない

→①の倫理的観念や②の併発関係は、問題となる命題が属するのがどのストーリーであるかとは関係が無いので、警察調書とアステカ神話に関して同じ結論(両方とも抵抗を起こすか、起こさないか)しか導けない。

→それらに対してジャンル的説明は、異なるジャンル的慣習によって異なる観念の適用条件や異なる併発関係を持つことを可能にする

 

・しかし抵抗現象に関しては、作品のジャンルと同様に現実世界の規範や判断などの複数の要素を勘案することが必要

→それは文学理論家が、ある物語において何が虚構的に真であるかを決めるのに、複数の(形式的・歴史的・制度的)要素を考慮するのと同様。

―ある悲痛な独白が、ロマンチストには嗚咽を、皮肉屋には笑いを生じさせる。

→抵抗現象は物語参与という適切なコンテクストに置かれることによって、その複雑性を明らかにするのだ

 

[1] ここで筆者はウォルトンの虚構的真論を採る:つまり虚構的に真であるものでは、想像されるものであるということ

[2] この定義はSEPのimaginationの項(Gendler 2006)によるもので、曖昧な所のある想像力の定義に関して標準的と言えるもの。Liao & Doggett (2014)に命題的態度としての想像力に関する概観、Liao & Gendler (2011)に種々の心的プロジェクトにおけるそのような想像力の使用について書かれる

[3] 「物語参与」と「想像力」の関係は、信念的熟考doxastic deliberationと信念beliefの関係に類似する。信念が信念的熟考で用いられるとき、真理の規範に支配される。しかし深淵はまた同様に他の心的プロジェクトで用いられるとき、他の規範にも支配されうる

[4] でもこれはジャンル慣習不協和による虚構的真の問題と何が違う?同じことを二つの側面から述べているだけ?

[5] しかしウォルトンの言うように〈虚構的真=想像されるもの〉であるなら、両者は同じことを意味する?〈作者が虚構的真を指定する〉と〈読者がそれを想像する〉ことは同じになるのではないか?

[6]現象学的問題は他の二つとは違うレベルにあるということか。ジャンル的説明をする際、抵抗現象は虚構的真の問題と想像的問題に還元されてしまう(私にはその二つも一つの問題の二つの側面に見えるが)ので、現象学的問題を独立して扱う必要はないということ?〉

[7] 〈逆にどちらかしか起こらないことがあるのだろうか?〉