Richard Moran 「想像における感情(feeling)の表現」(1994) レジュメ
Moran, Richard. “The Expression of Feeling in Imagination.” The Philosophical Review 103, no. 1 (1994): 75–106. https://doi.org/10.2307/2185873. https://www.jstor.org/stable/2185873
1.
- しかしその区別は本当に有効だろうか
- 現実の情動においても、「起きたかもしれないが起きなかったこと」「状況が違えばやったかもしれないこと」などに対する情動は、現実の対象に対する情動なのだろうか
- 映画において感じる恐怖と、何年も昔の出来事に対して感じる恐怖は、恐怖の対象が現前しているわけではないという意味で同じ
- 実際のところ、情動はほとんど今・ここに関わるものではないのだ
- 情動の現実性actualityと虚構性fictionalityは、違いを生まない
- むしろ情動そのものが、様々な差異を持つと考えた方が良い
- またウォルトンの例では、映画のモンスターが観者の方に向かってくる
- では映画のモンスターが登場人物の方に向かって行く場合はどうだろうか。むしろそちらの方が一般的ではないか
- この場合、比較されるべきは、現実においてモンスターが他人を襲う場合である。
- その場合に感じる情動は、フィクションの場合と同じではないか
2.
- そもそも情動も、より{判断に結びついている/対象を必要とする/社会的に構築されている/恣意的に涵養されている/受動的に伝染する}など多様であるので、それが自然種であり「虚構における情動」という一般問題があるのかすら疑わしい
- また多様であるだけでなく、情動同士の境界の曖昧さという事実も、問題の一般性を疑わせる
- 例えば問題の外側に置かれる「驚き」と、典型的なパラドックスの例である「あわれみ」「おそれ」などは連続している
- 作品の利用する情動は、読者における源泉や方向付けの種類、情動を喚起するものとの結びつきにおいても異なる
- フィクションにまつわるパラドックスは、情動の源泉や側面を、模倣的mimetic特徴に関係するそれから切り離すことで作られる
- しかし、実際にはそのような虚構世界のリアルな提示から注意を逸らすそのような特徴(人工性)こそが、情動的参与を妨げず強化するように思われる
- 試しに、同じ虚構世界(虚構的真理)を異なる仕方で提示することを考えてみる。
- 例えば、それらが全て恐ろしいことの表象だとして、それでも実際に恐怖を引き起こすのはそれらの内の一部でしかないだろう(単なる要約や医学的・軍事的記述は情動を引き起こさない)
- 同じ虚構世界を提示しているが、情動を引き起こす表象と、引き起こさない表象の違いを生み出すのは何だろうか?
- 今まではそれを、受け手の「自分が見ているものが現実にそこにある」と感じるリアリズム的感覚の問題としてきた(特に映画において)
- 作品への情動的参与に関係するのは、ほのめかし、リズム、繰り返し、調和、不協和allusion, rhythm, repetition, assonance, and dissonanceなどの、「私たちが読んだり聞いたりするものを、私たちが現実であるとごっこ遊びし得る何か、あるいは何であれ真の記録から、遠ざけるmake … less likeすべての要素」である
- それらのレトリックは、それ自体が虚構世界において真であるという信念も、ごっこ遊びも必要としない
- そのような作品の表現的性質は、虚構的真理の生成に貢献せず、むしろ虚構世界の一部として想像することが不可能な要素を導入する
- 結局、フィクションにおける情動を、虚構的真理によって理解しようとするのは誤り
- 言い換えれば、情動的に参与させる表象と、そうでない表象の違いは、虚構的真理の観点からは説明できない
- 作品の表現的性質の人工性は、虚構的真理を想像することの側から穴埋めされるcompensated for必要はない
3.
- 虚構的情動において、「想像力imagination」が関与しているのは間違いない。その点で筆者はウォルトンや他の論者に同意する
- 問題はその「想像力」が、様々な事例において統一的で説明的な意味を持っているのかということ
- 今まで挙げてきた虚構的情動に関する例における想像力は、何かがそうであると単に想像することや、何かをしたり感じたりすることを想像することにあまり関係がない
- むしろ私たちが普通考えるところの「想像性imaginativeness」と関わる
- 様々なもの同士を関係づける能力や、作品のムードや情動的トーンを作り上げる連想のネットワークに気づいたり反応する能力
- 例えば『マクベス』における無垢と死の連関や、頻出する家事のイメージに気づいたり、修辞的比較における対象や非類似性を鑑賞する能力のこと
- 問題はその「想像力」が、様々な事例において統一的で説明的な意味を持っているのかということ
- ウォルトンは、想像されることの一部は、想像者自身に向けられる(自己言及的)内容を持つと主張した
- つまりマクベスの恐怖を想像するのに加え、自分自身が何らかの対応した情動的状態にあると想像している
- しかしそのような想像者の反応は、上で述べたように、単なる虚構的に真である命題の想像以上のものを必要としていることは明らか
- そこで(ウォルトン以前の?)哲学者たちは、しばしば「鮮やかさvividness」という概念を、単に何かを虚構的真として受け入れることと、物語に夢中になることの違いを説明するために用いる
- しかし「鮮やかさ」が虚構的情動とは異なる概念で、それを説明出来るものなのかは明らかでない(循環しているのではないかという疑念?)
- さらに「鮮やかさ」概念自体がどのようなものかも明らかでない:「鮮やかな記憶」というのは、その人の情動が付与された記憶というよりは、その人の視覚的記憶を指すように思われる
- しかも視覚的記憶の場合でも、その「鮮やかさ」はイメージの輪郭の明瞭さや色彩の明るさを指すものではない…つまりイメージの現象学的な特徴とは関係が無い
- ウォルトンは情動的参与を、イメージの現象学的内容(vividness)ではなく、命題的内容によって説明しようとした
- たとえば「私は今恐怖を体験している」という命題が虚構的に真であることによって、情動的参与を説明する
- これは「鮮やかさ」を「自己言及的命題」によって置換する試みと言えるが、筆者はそれを、「鮮やかさ」以上には想像における情動的参与を説明出来ないとする
- そもそも「鮮やかさ」概念は、情動的参与を伴う想像とそうでない想像の、因果的な違いを説明するためのものだった
- 表象が「鮮やか」であるとは、心に、関連付けや対照、考えの呼び込みなどの様々な活動を引き起こさせるということであり、想像者に追加の虚構的真を想像させることではない
- つまり「鮮やかさ」や情動的参与は、想像される「内容content」の一部というよりかは、想像の「仕方manner」の側面である
- もし情動的参与を虚構的真理(想像される内容)によって説明しようとすると、「『私は恐怖を抱いている』と非‐情動的にdispassionately想像する」と「私はそれをフィクションに『夢中になるswept up』ことの一部として想像する」ことの違いを説明できない(?)
- 何かが真であると想像しながらも、自分がそれを信じていないように想像することは可能
- 逆に、何かが虚構世界において偽であると理解しながらも、それが真であると想像することは可能
- このように、物事の状態と、それに対する信念とは、区別される独立した想像の中身・内容
- そもそも情動的想像力においては、何が作品世界において真であるかと、想像者が想像的に参加する心的状態の違いを認識することが、本質的に必要とされる
- 例えば悲劇のアイロニー:主人公の真実を知らない心的状態への参加と、主人公の認識と真実のずれ(という虚構的真)を鑑賞することへの参加の両方を必要とする
- ここで「虚構的真理」の概念と、「特定の想像の様態modeへの参与」の概念を区別する必要がある
- たとえば視覚的想像の場合、「視覚的visual」というのは想像の特定の方法であって、想像者の純粋な(つまり現実世界における)心理的事実である。これは想像されることや虚構的真理には入ることがない
- 同様に、想像の情動的側面は、想像の「方法manner」にまつわるものであり、想像されること(内容)ではない。
- 言い換えれば、何らかの感情と共に想像することは、その感情を感じているhaving that feelingのを想像することとは異なる
- そしてそのような想像の「様態」に関する事実は、想像される世界ではなく、現実の世界に存する
- また以上より、フィクションに対する様々な反応は、私たちが実際に持つ純粋な態度の表現とみなされ、それに従って称賛されたり拒絶されたりするべきである。それらは虚構世界を構成するものではないのだから。
4.
- 「想像者が想像するもの」と「想像者の現実の態度」の関係を、フィクションに対する抵抗現象によって分析する
- 『マクベス』の別バージョン:「ダンカンがマクベスによって殺されたのではない」と、「マクベスがダンカンを殺したのは、マクベスの眠りを妨げたという理由のみによって不幸である」
- 前者は、戯曲がそう言うなら受け入れられるが、後者は受け入れがたい
- つまり後者は「純粋なgenuine(つまり現実の)情動的態度」と摩擦を起こす
- 何故自分とは異なる信念を信じるように要請されているわけでもないのに、間違った意見を拒絶するかように、何かを想像することそれ自体を拒絶しなければならないと感じるのか?
- フィクションにおけるある種の事柄について、「私たちが感じるように命じられるenjoined to feelこと」と「私たちが感じたいこと」に距離がある(感傷的sentimentalとか仰々しいpretentiousとかの批評における表現は、その抵抗を示しているのではないか)
- これはヒュームの「趣味の基準について」における、「純粋な態度」と「何をどうやって想像するか」との関係の問題
- 「推論上の誤りspeculative errors」と「私たちとは異なる道徳や良識ideas of morality and decency different from ours」;ただし二つは常に異なる反応を導くわけではないし、人によっても異なる。それでもこの非対称性が起こった場合の、その抵抗の意味を検討することは出来る
- 前者は単にそれを虚構的真として受け入れられるが、後者はそうではない
- 言い換えれば、後者においては私たちの「純粋な態度」が作品から距離を取れず、干渉してしまう
- たとえば「幽霊が存在する」と「殺人は善」
- 私たちは後者を(作品世界の)虚構的真理として受け入れるよりは、むしろ作者(や聴き手)(のバイアスみたいなもの?)に帰してしまう
- これはヒュームの「趣味の基準について」における、「純粋な態度」と「何をどうやって想像するか」との関係の問題
- これは道徳的に異なる登場人物を想像するというよりは、道徳的現実が異なる世界に想像的に参与することの難しさ
- この抵抗は道徳的コンテクストに限定されるものではなく、実のところ作品の情動的教唆emotional solicitation(笑いや憐れみ、恐れであれ)と、私たちが実際に与える反応の違いによるもの
- また「感受性の要求の交渉の問題the problem of negotiating the demands of receptivity」と「作品の主張を真面目に受け取ることに参与することthe engagement involved in taking the claim of the work seriously」の両側面が抵抗現象には存在する
- ヒュームは生半可な説明:鑑賞者が自分の道徳的判断に自信があるから、道徳的な命題に抵抗を覚えるのだろう
- しかし、むしろ自信があるのなら、それを想像することに抵抗を覚えないのではないかとか、何故自身がある事柄に抵抗を覚えるなら、何故信念と異なる事実的命題(幽霊が存在するとか)に抵抗を覚えないのか、などの批判に答えられない
- 私たちは虚構的真理を決定する際に、何が批難や称賛に値するかに関する自分たちの感覚の果たす役割を認めている
- そして感傷的だとか道徳的である作品における、そのような感覚による拒絶こそが、抵抗を引き起こす
- そしてそのような場合私たちは、〈虚構世界の要素として構成的であるとして想像するべきもの〉だけでなく、それらの要素から帰結するもの、つまり〈どんな「純粋な態度」を採用するadoptべきか〉も同様に、伝えられているbeing toldかのように感じるのだ
- 読者はフィクションにおいて、何が称賛すべきで何が馬鹿馬鹿しいかを決める権利を持つ
- それは現実世界においてそうであるのと同様であり、読者はそれがフィクションを含むすべての可能世界においてそうであるとする
- このヒュームの問題には「必然性」の概念が関与しているのではないか
- 形而上学的必然性ではなく、概念的conceptual
- 付随性supervenienceの問題:ヒュームは非道徳的事実から、道徳規則を推論することは出来ないと考えた(道徳はreasonではなくsentimentから出てくる。理解するのではなく感じることが出来るだけ)
- つまり、私たちが非道徳的事実を虚構的真として受け入れたとしたなら、それらが(必然的に)虚構世界について何が道徳的に正しいのかを(非命題的に)教えてくれるということ(その虚構世界に、何らかの道徳的命題が付け加えられる必要がないということ)
- 言い換えればヒュームは、非道徳的事実と道徳的事実の間には、付随性としての(概念的)必然性があると考えた。前者が与えられれば、後者も一意に決まると考えた
- しかしその立場には問題があり、少なくとも私たちは自分とは異なる道徳的判断を、認識することは出来る
- この主張はヒュームのものと矛盾するように見えるが、実は両立可能
- つまりヒュームの論においては、二種類の想像力が混同されている
- 日常的な道徳的不一致において、私たちが自分とは異なる道徳的観点の認識可能性intelligibilityを理解出来る・しているとすれば、それはヒュームの見解に反するのではないか?
- いや、そもそもヒュームの「感情に入り込むentering into sentiments」と「意見に入り込むenter into all the opinions which then prevailed」のenter into は違うのではないか
- つまり “I cannot, nor is it proper I should, enter into such sentiments”と言うときには、それは劇的試演dramatic rehearsalや共感的な同化のことを言っているのではないか。しかしそのような行為は、信念に関わる仮定的推論においては全く出番がない
- むしろ劇的試演dramatic rehearsalや共感的同化は、私たちがそれを実行するのを簡単に感じたり難しく感じたりする想像力の成果なのであり、それはそれらが命題を心に抱くentertain能力以上のことあるいはそれより別のことを要求するためである
- 想像そのものではなく、想像力の成果
- またヒュームの議論はそもそも、対称性が成り立っていない
- 「推論上の誤りspeculative errors」の場合は、仮説的想定をするために私たちが「少し考えを変えるa certain turn of thought」必要があるとしている
- しかし一方で自分とは異なる「感情に入り込むentering into sentiments」場合は、仮説的想定ではなく、「実際に」自分の判断を変えることについて言っている
- つまり、異なる意見に仮説的に入り込むことと、良識の判断を実際に変えることを対比してしまっている
- もし対称性を成り立たせるなら、「異なる意見に入り込むことentering into different ipinions」を、単なる仮説的想定ではなく、実際に自分の意見を変えることとして取らなければならないだろう
- しかしそうする際に必要なことは「少し考えを変える」どころではないだろうし、結局それは自分と異なる感情に入り込むことと同じくらい難しくなってしまうだろう
- むしろ、仮言的hypothetical想像力と、劇的dramatic想像力という二つの異なる想像的活動を想定した方が良い
-
- →そしてそれに応じて異なる抵抗が生じると考える
- 両方とも現実に自分の判断を変えるものではないが、後者では仮定と結論、虚構と実際の行動の違いを見失うことがある
- 結局ヒュームの考える抵抗が必要とするのは、単に命題が真であることを想像する(仮言的想像力)ことでも、実際に自分の判断を変える(劇的想像力)ことでもない。ヒュームの記述は二つを行ったり来たりしてしまっている
- もし仮にヒュームの例における抵抗が命題的であったら、抵抗されるものは命題の真を完全に信じること(「自分の判断を変える」)か、命題の真理を仮定して考えてみること(仮説的想像力)のどちらかでしかない
- …それはおかしい
- しかし実際には、そのような抵抗が起きるのは、「部分的にしか命題的でないような態度」の表現expression of attitudeである
- 私たちが抵抗するのは、命題に対する信念というよりは、表現される視点point of viewに入り込むことである
-
- 視点の想像的な導入adoptation⇔反事実的推論における想像
- 後者においては信念のふりfeigningや、信念という事実からの帰結を決定することを含まない。特定の命題の真を含む
- →想像において、信念の主体や心理学的主体としての自己への参照をする必要がない
- 前者(情動的態度に関する想像)においては、dramatic rehearsal, the right mood, the right experience, a sympathetic natureなどが必要となる。視点、状況への全体的なパースペクティブを含む
- まとめれば、後者よりも前者において、主体が問題となる
- 後者においては信念のふりfeigningや、信念という事実からの帰結を決定することを含まない。特定の命題の真を含む
- 劇的想像力はgenuine rehearsalを含み、視点を「試してみるtrying on」ことや、それがどんな感じなのかを判断することを含む
- そしてそれは、「気が乗らないmy heart is not in it」と、することが出来ない類のものである(反事実的推論は反対にトピックやムードから独立している)
- ただし以上の二つの区別を認めた上で、抵抗現象それ自体は両者を含むものである
- 以上抵抗現象を巡る議論は、想像力を命題の集合によって定義された虚構世界の観点から分析することの限界を示すものである
- また私たちは、想像から知識を得ることが出来るという考えにコミットしているように見えるが、それは想像される虚構世界への参与が、現実世界において問題となることから完全に切り離されてはいないと私たちが考えていることを示しているだろう
- 想像とは、虚構世界を垣間見ることというよりは、(虚構世界を)この世界に関連付ける方法である imagination is not so much a peering into some other world, as a way of relating to this one
- 現実の感情が、フィクションにおいては「compartment」されているのではないか