John Searle 「虚構的言説の論理的ステータス」 (1979) レジュメ

学内読書会で書いたので公開します。

 

はじめに

 

・初出:John Searle, “The Logical Status of Fictional Discourse,” in Expression and Meaning (Cambridge: Cambridge University Press, 1979), pp. 58-75

 

・いわゆる分析系フィクション論における「フィクションとは何か」という問いに対して、オースティンの言語行為論を援用しつつ語用論的に分析

-それまでの統語論的(ケーテ・ハンブルガー)・意味論的(フレーゲラッセル、クワイン、マイノング主義)アプローチとは一線を画す

 

 

 

①言葉や文章の意味と、それらを発話することによって遂行する発語内行為illocutionary act[1]との間には関係がある

-②しかしフィクションにおいては、言葉が通常通りの意味を持ちつつも、言葉に意味を与える規則が有効でない…これはどういうことか?というのが論文の主題

 

③以上の問題に取り組む前に、いくつかの概念上の区別をする必要がある

-フィクションと文学は異なる概念である

              -フィクションだが文学でない:漫画本comic book、ジョーク

              -文学だがフィクションでない:カポーティ『冷血』、メイラー『夜の軍隊』

 

④以下で筆者が試みるのはフィクション概念の分析であって、文学概念ではないし、後者は前者と同じようには分析することは出来ないだろう。理由は以下の三つ。

-⑤すべての文学作品に共通する、文学の必要十分条件となるような特徴traitがない。文学は結局のところ家族的類似性によって結び付けられているに過ぎない

-⑥「文学」とは、一連の言説に対して私たちが取る態度の集合であって、言説の内的性質のことではない。それを文学であるかを決めるのは読者であり、それをフィクションであるかを決めるのは作者である

-⑦文学とそうでないものは、連続的であり境界と呼べるものは存在しない。歴史叙述も文学になりうるし、シャーロックホームズシリーズが文学であるかの判断は分かれる

 

⑧次に、虚構的言語fictional speechと比喩的言語figurative speechの区別

-意味論的規則が変更されたり、宙づりになるという点では、両者は同じ

-しかし比喩的言語はノンフィクションでも用いられる[2]

-両者の区別は、虚構的=「真面目でないnonserious」、比喩的=「文字通りでないnonliteral」と言い表せる

 

⑨この論文では、虚構的発話と真面目な発話の違いを分析する。比喩的発話と文字通りの発話の違いは独立した問題であって、ここでは追求しない。

 

⑩「全ての主観的事柄は、私たちが問題に対する解決策を得る前に、私たちに考えるのを止めさせてくれるようなキャッチフレーズを持つ[3]

-虚構的言説に対して、「不信の宙づり」だとか「模倣」などのフレーズは、解くべき問題を示すがその解決策を示さない

-私たちの問題は、どのようにしてあるいは何故、そのような現象が起こるのかである

 

 

 

①フィクションとノンフィクションの例

              -ノンフィクション…ニューヨークタイムズの記事より

「ワシントン、12月14日。連邦、州、地方政府のグループは今日、ニクソン大統領の提案を却下した。それは連邦政府が地方政府の所得税を減税するための経済援助を行うというものだった。」

              -フィクション…アイリス・マードック『赤と緑』より

「馬無しにあと10日間も!アンドリュー・チェイス=ホワイト少尉は思った。彼は最近、名高いエドワード王の騎兵連隊員に任命され、満足そうにのんびりしていた。ダブリンのはずれの庭園にて、1916年4月のある晴れた日曜日のことだった。」

-両方とも、ほとんど文字通りにliterally(つまり比喩的でなく)書いているという点では同じ…では違いはなんだろうか?

-手始めに、ニューヨークタイムズの筆者は、「主張assertion」という発語内行為を行っている。「主張」という発語内行為の意味論的・語用論的ルールは以下の通り

-1.本質規則:主張をした者は、表現された命題が真であることtruthにコミットする(確約する、態度を表明する、あるいは肩入れする)commit oneself to

-2.予備規則:話し手は表現された命題が真であることの根拠や理由を与える立場に居なければならない

-3.表現された命題は、発話の文脈において話し手と聴き手の双方に明白に真obviously trueであってはならない

-4.誠実規則:語り手は表現された命題が真であるという信念にコミットする

 

②新聞の筆者は以上のような規則を守る責任があると考えられているのであり、仮に筆者がルールを守っていないならば、私たちは筆者の発話を、偽・誤り・間違い(1の違反)、根拠不十分(2の違反)、無意味(3の違反)、嘘(4の違反)だと見なす

 

③しかし上で引用したようなフィクションに対しては、そのような規則は全く適用されない

マードックの発話は、「1916年4月のある晴れた日曜の午後アンドリュー某が…」という命題が真であることや、その根拠を与える立場へのコミットではない

-彼女がその命題の真偽を知っている/知らないことや、その根拠を与えられる/与えられないこと、また命題の真偽に対する信念を持つことは、彼女の言語行為に関連しないirrelevant

 

④ここで私たちはこの論文の最も重要な点に行き当たる:マードックが遂行しているのは、一体どのような種類の発語内行為なのか

-文章の意味が、文章の要素に付与される言語学的規則によって決定され、その規則が、文章の文字通りの発話が〈主張〉であると決めるのであれば、それは主張でなければならない

-しかし一方で、それは主張を構成する規則に従っていないので、主張ではあり得ない

 

⑤以上の問題のよくある誤った解法:フィクションの作者は〈主張〉を行っているのではなく、〈ストーリーテリングtelling a story〉や〈小説の執筆writing a novel〉という発語内行為を遂行しているのだ

-そもそも発語内行為は文の意味の関数functionであり、文の意味が異なれば発語内行為も異なったものになり、逆もまた同様

-たとえば「ジョンは1マイル走ることが出来る」の発話と「ジョンは1マイル走ることが出来るか?」の発話は、二つの文が異なる意味を持つので、異なる発語内行為の遂行であると言える

-しかし、それらの文がフィクションの中で、文字通りの意味によって決定される元の言語行為とは全く異なる言語行為[4]を遂行するために用いられるならば、それらの文は元とは異なる意味を持つことになる

-つまりフィクションはノンフィクションとは異なる発語内行為を行うとする立場は、フィクションにおいて言葉が普通の意味を持たないという主張にコミットすることになる

-しかしこの主張は疑わしい:その場合、フィクション作品を理解するためには、それに含まれるすべての言葉や要素の意味を学び直す必要があることになる。またフィクションにはあらゆる文が存在し得るため、言語はフィクションとノンフィクションの二つの意味を持つことになる

 

⑥ではフィクションの作者はフィクションにおいて何をしているのか

-〈主張〉の「ようにふるまうacting as if」や「ふりpretending」、「やってみることgoing through」、「まねimitating」である…どれでも良いがここでは「ふり」と呼ぶ

-「ふり」には二つの意味:何かの、あるいは何かをする「ふり」とは

-1.だますことdeceptionである…「護衛をだましてホワイトハウスに入るためにニクソンの『ふり』をする」

-2.だます意図無しに、何かであるかのようなas if、あるいは何かをするかのような行為の遂行performanceである…「ジェスチャーゲームでニクソンの『ふり』をする」

-フィクションにおける言葉の使用が「ふり」であるというのは、二つ目の意味においてである

 

⑦「ふりをするpretend」は意図的動詞である:発話者が「ふりをする」意図を持っていなければ、それは「ふり」と見なされない

-よってフィクションは発語内行為の「ふり」である(第一の結論)ことから、テクストがフィクションであるかは、作者の発語内的意図に依存する(第二の結論)ことが帰結する

-テクストのどんな統語論的、意味論性質も、それをフィクションと同定しない[5]

 

⑧かつて一部の文芸批評の流派では、フィクション作品を論じる際に作者の意図を考慮すべきではないと考えた

-確かに作者の隠された動機ulterior motiveなどは考慮すべきではないかもしれない

-しかしテクストを小説、詩、あるいはテクストであると同定することすら、作者の意図に関するなんらかの主張であるのだから、作者の意図を完全に無視しようとするのは馬鹿げている

 

⑨ではどのような発語内行為の「ふり」は、いかにして可能になるのだろうか

 

⑩ノンフィクションにおける発語内行為(=主張)においては、それの守るべき規則があったが、それらは「語(や文章)を世界に関連付ける規則[6]」と見なせる

              -これを、言語と現実を結びつける「垂直規則vertical rule」とする

-そしてフィクションを可能にするのは、そのような垂直規則による言葉と現実のつながりを壊すような、一連の外‐言語的extralinguistic、非‐意味論的nonsemantic慣習である

-そのようなフィクション言説の慣習を、垂直規則による結びつきを破壊する水平的horizontal」慣習と見なす

-そのような慣習は、意味に関する規則ではなく、言説における語やその他の要素の意味を変えるわけではない

-むしろ慣習は、話し手が文字通りの意味を持った語を、通常その語の意味によって要求されるコミットメントを引き受けることなく、用いることを可能にする

-以上から導かれる第三の結論:フィクションを構成する、ふりをされた発語内行為the pretended illocutionsは、発語内行為と世界とを結ぶ規則の通常の運用operationを宙づりsuspendにするような、一連の慣習の存在によって可能になる

ウィトゲンシュタイン風に言えば、ストーリーテリングは、独特の言語ゲームであり、独自の(意味的でない)慣習・規則を持つ。そしてその言語ゲームは発語内的言語ゲームと一致するon all fours withのではなく、それに寄生するものである

 

⑪以上のことは、lyingとフィクションを対比させることでより明らかになる

-嘘の本質は言語行為の遂行における統制規則regulative ruleの一つに違反することにある

-しかし「違反violation」そのものが統制規則によって規定されているために、嘘をつくためには、規則を遵守することを学んでから規則を破る独自の実践practiceを習得する必要はない[7]

-一方でフィクションは嘘より洗練されている:フィクションには嘘にはない、「作者が騙す意図を持っていないのに、作者が真ではないと知っている言明を行うふりgo through the motionsをすることを可能にする、独自の一連の慣習」がある

 

⑫ここまでで、言葉を文字通りの意味で用いながら、その言葉の文字通りの意味に付随する規則を守らないことを可能にするものは何か、という疑問を考えてきた

-次に考えるべきは、作者が水平的慣習を発動させるのに用いるメカニズムは何か、あるいは作者はそのためにどのような手続きを行うのか、というもの

-作者はふりによって水平的慣習を用いるのだから、この問題は「どのようにふりは遂行されるのか」という問題になる

-ふりの一般的特徴:「高次のあるいは複雑な行動を、その部分を構成する低次のあるいはより複雑でない行動を実際に行うことによって、遂行する[8]

-殴るときに腕や手の動きを実際に行うことによって、殴るふりをする。この場合「殴る」ことはふりだが、腕や手の動きが現実realである

-子供が車を運転するふりをするとき、子どもは実際に運転席に座り、ハンドルを動かし、ギアシフトレバーを操作する

-そしてフィクションの作者の場合は、実際に文を発話(あるいは書く)ことによって、発語内行為の遂行のふりをする

-オースティンの用語で言えば、発語内行為はふりだが、発語utteranceは現実に為される

-フィクションにおける発語行為は、真面目な言説における発語行為と見分けがつかない。よって言説をフィクションと同定するテクスト的特徴は無い

-水平的慣習を発動させる意図をもって遂行される発話の行為こそが、発語内行為の遂行のふりである

 

⑬第四の結論:「フィクション作品の執筆を構成する発語内行為の遂行のふりの本質は、発話の通常の発語内的コミットメントを宙づりにする水平的慣習を発動する意図をもって発語行為を実際に遂行することに存する[9]

 

⑭以上の点は、一人称の物語や演劇というフィクションの事例を考えると明らか

-「それは1895年のことだった。私が立ち入る必要はなかった一連の出来事が、シャーロック・ホームズ氏と私が偉大な学園都市の一つで何週間かを過ごさせたのは。そしてその間にこそ、私が今に物語ろうとしている、小さなしかし教訓的な冒険が私たちに降りかかったのだ。」

-ここで作者(コナン・ドイル)は単に〈主張〉のふりをしているのではなく、(語り手の)ワトソン博士であるふりをしているのだ。

-このように一人称の物語では、作者は〈主張〉を行う誰か他の人であるようなふりを行う

 

⑮演劇においては、ふりを行っているのは作者というより、実際のパフォーマンスにおける登場人物である

-つまり、演劇のテクストは擬似-主張pseudo assertion

-脚本家:テクストにおいて行っているのは、ふりそのものへの参与というより、ふりの処方箋を書くこと

-虚構のストーリーは物事の事態のふりをした(偽装された)表象pretended representationだが、演じられた演劇そのものは、偽装された物事の事態そのものであり、役者が登場人物であるふりをするのだ

-つまり演劇においては、作者は主張をするふりをしているのではなく、役者が従う「ふり」をどうやって上演するenactかの指図directionを行っている

ゴールズワージーの戯曲『銀の箱』の例

-「第1幕第1場。バースウィックの大きく、近代的で、豊かに備え付けられたダイニングルームの幕が上がる。電気灯がともっている。大きく丸いダイニングテーブルの上には、ウィスキー、サイフォン、そして銀のたばこケースの載ったお盆が出されている。時刻は真夜中過ぎ。ドアの外から物音がする。ドアが急に開く。ジャック・バースウィックがまるで倒れ込むように部屋に入ってくる…

 

ジャック:やあ!ただいま帰った―(挑戦的にDefiantly)」

マードックの小説の場合、作者は主張のふりをしていたが、ゴールズワージーは戯曲に関する主張のふりをしているわけではない

-彼は戯曲が上演されるときに、ステージの上で実際に物事がどのように起るかに関する指図をしている

-このとき戯曲のテクストの持つ発語内的な力forceは、ケーキのレシピと同じようなもの=何かをするように指図する

-「ふり」の要素はむしろ、上演の際に現れる:役者はバースウィック家の一員であるふりをし、何々をするふりをし、そして何々という感情を持つふりをする

 

 

 

①以上のような分析は、以下のような伝統的なフィクション作品の存在論にかんする問題の一部を解決する

-「シャーロック・ホームズ夫人は存在しない、何故ならホームズは結婚しなかったからだ。しかしワトソン夫人は存在する。それはワトソンが結婚したからだ、ただしワトソン夫人は結婚から間もなく亡くなったのだが。」という言明は真なのか、偽なのか、それとも真理値を欠いているのか?

-以上の問題を解決するためには、真面目な言説とフィクションの言説を区別するだけでなく、それらの二つと「フィクションに関する真面目な言説」を区別する必要がある

-上の発言を真面目な言説として受け取るなら、それは偽である(ワトソン、ホームズ、ワトソン夫人は存在しないため)

-しかし同じ言説をフィクションに関する言説として受け取るならば、上記の言明は真である(ホームズとワトソンというフィクショナルキャラクターの婚姻歴を正確に報告しているため)

-筆者はドイルではないので、上の言明それ自体はフィクションではない

 

②上記の発言は、フィクションに関する言明として取ることで、言明形成の構成規則を遵守する

 

 

 

 

③では作者は、どうやってフィクショナルキャラクターを「創り出すcreate」のか?

-第1節の「アンドリュー・チェイス=ホワイト大尉はそう考えた」という文では、作者のマードックは固有名、パラダイム指示表現paradigm referring expression(?)を用いている。

-文全体が〈主張〉のふりであるように、この部分でマードック〈指示〉のふりを行っている

-〈指示〉が満たすべき条件は、指示すべき対象が存在することであり、マードックはそのように指示される対象がある「ふり」をしている

-また私たちも「ふり」を共有する限りで、アンドリュー・チェイス=ホワイト大尉が存在するかのように振る舞う

-つまり、フィクショナルキャラクターを創り出すのは以上のような〈指示〉のふりpretended referenceであり、そのような「ふり」の共有こそが私たちにキャラクターについて話すことを可能にするのだ

-ただしあくまでフィクションの作者は本当に〈指示〉を行っているのではなく(指示対象が存在しないため)、〈指示〉の「ふり」をすることでフィクショナルキャラクターを創り出しているのだ

-そして一度創り出されれば、ストーリーの外側に居る私たちもそれらを〈指示〉することが出来るようになる。この場合は〈指示〉の「ふり」ではなく、真正の〈指示〉が行われている(対象が存在するため)

 

④しかし一方で、虚構的指示fictional referenceはすべてが〈指示〉の「ふり」ではない

マードックの小説におけるダブリンの指示や、ホームズシリーズにおけるオックスフォードあるいはケンブリッジの指示は本当のreal〈指示〉であり、『戦争と平和』の「ピエール」と「ナターシャ」はフィクションだが、「ロシア」は現実のロシア、「ナポレオン戦争」現実のナポレオンに対する戦争である

-では何が虚構的で何がそうでないかはどうやって決めるのか:「作者が何にコミットしているのかは、何が間違いとされるかでわかる[10]」(?)

-つまり、もし第1節のノンフィクションの例において、「ニクソン」という人物が存在しないのならば、作者は間違っている

-しかしアンドリュー・チェイス=ホワイトが存在しない場合、マードックは間違ったことにならない

-そして『シャーロック・ホームズ』においては、ホームズとワトソンがベイカー街からパディントン駅に地理的にあり得ないルートで向かった場合はドイルが間違ったことになるが、ワトソンの記述に当てはまるアフガン帰還兵[11]が存在しなかったとしても、それは間違いにはならない

-ある種のフィクションのジャンルは部分的には、作者の作品における非虚構的コミットメントによって定義される

自然主義小説とお伽噺やSF、シュルレアリスム小説との違いは、現実の場所における特定の事実であれ、人にとって何が可能で世界がどのようになっているかという一般的事実であれ、作者がどの程度実際の事実actual factにコミットしているかによって部分的に決まる

 

⑤今までのまとめ

-人を指示するふりをしたり、出来事を説明するふりをすることで、作者はフィクショナルキャラクターや虚構的出来事を創り出す

-リアリズム小説や自然主義小説においては、作者は(虚構的指示に混じって)現実の場所や出来事を指示し、虚構的ストーリーを私たちの既存の知識の拡張として扱うことを可能にする

-作者は読者とともに、フィクションの水平的慣習がどこまで真面目な言葉の垂直的なつながりを壊すのかについて、一連の了解understandingを定める

存在論の「可能性possibility」に関する限りでは、何でも可能である:つまり、作者はどんなキャラクターも出来事も創り出すことが出来る

-一方で存在論の「許容可能性acceptability」に関する限りでは、一貫性coherenceこそが重要な考慮すべき事柄である

-しかし一貫性に関しては普遍的基準が存在しない:SFで一貫性と見なされるものが、自然主義ではそうではないこともある

-何が一貫性となるかは部分的には、水平的慣習に関する作者と読者の協定contractの関数である

 

⑥フィクションに非虚構的な発話が挿入されることがある

-『アンナ・カレーニナ』の冒頭:「幸福な家庭はみな同じ仕方で幸福であるが、不幸な家庭はそれぞれに異なる、違った仕方で不幸である」…これは虚構的でない、真正の〈主張〉である

-「幸福な家庭は多かれ少なかれ異なっているが、すべての不幸な仮定は多かれ少なかれ似通っている」とナボコフが『アーダ』の冒頭で意図的に誤った引用をしたとき、ナボコフトルストイに間接的に反駁して(そしてからかって)いる

-以上の例から、論文最後の区別が明らかになる:フィクション作品work of fiction虚構的言説fictional discourse

-フィクション作品はすべてが虚構的言説によって構成されないといけないわけではない、一般的にそうではない

 

 

 

・一つ答えていない重要な疑問がある:何故私たちは、おおよそ言語行為の「ふり」によって構成されたテクストに、これほどの重要性を置き努力を払うのか?

-簡単には答えられない…答えの一部は、人間の生における想像力の果たす重要な役割、そして人間の社会的生において共有された想像力の所産の果たす重要な役割に関係しているだろう

-そのような役割の一面は、一部の真面目な(つまり非虚構的な)言語行為が、それ自体はテクストに表象されないにもかかわらず、虚構的テクストによって伝達され得るという事実からも理解できる

-それは作品の「メッセージmessage」と呼ばれるもので、テクストの中でin the textではなく、テクストによってby the text伝達される

-テクストで直接言ってしまうのは子供向けのお話か、うんざりするほど説教臭いトルストイみたいな作家くらい

-作者が言語行為のふりの遂行によって、どのようにそのような真面目な言語行為を伝達するのかに関する一般的理論はまだ存在しない

 

[1] J.L.オースティンによる言語行為論の基礎概念:言語行為論は、発語行為locutionary act、発語内行為illocutionary act、発語媒介行為perlocutionary actという分類を基本とする

-発語行為:何かを発話する行為(「そんなことをしてはいけない」)

-発語内行為とはその発語行為によって為される行為(彼は私の行いに抗議した)

-発語媒介行為はそれによって結果的に生み出される効果のこと(彼は私を引き止め、考え直させた)

[2]ヘーゲルは哲学市場では死んだ馬dead horse(役に立たないものの意)だ」は虚構的でないが、比喩的である。「昔々はるか遠くの王国に賢い王がおり美しい娘が...」は虚構的だが、比喩的ではない

[3] “Every subject matter has its chatchphrases to enable us to stop thinking before we have got a solution to our problems.”

[4] つまり〈ストーリーテリング〉や〈小説の執筆〉など

[5] つまり語用論的性質(=作者の執筆・構成時の発語内的意図)によって決まる

[6] “[R]ules correlating words (or sentences) to the world” (p.326)

[7] 嘘をつくには〈主張〉という発語内行為の統制規則を知っていれば良い(知っている必要すらない?)が、フィクションではそれに加えて、それに寄生する規則を余計に知っていなければならない

[8] “It is a general feature of the concept of pretending that one can pretend to perform a higher order or complex action by actually performing lower order or less complex actions which are constitutive parts of the higher order or complex action” (p.327)

[9] “[T]he pretended performances of illocutionary acts which constitute the writing of a work of fiction consists in actually performing utterance acts with the intention of invoking the horizontal conventions that suspend the normal illocutionary commitments of the utterances” (p.327)

[10] “The test for what the author is committed to is what counts as a mistake”

[11] “A veteran of the Afghan campaign answering to the description of John Watson, MD”