Nick Zangwill (2001) 「形式的な自然美」レジュメ
Zangwill, Nick (2001). Formal natural beauty. Proceedings of the Aristotelian Society 101 (2):209–224.
アブストラクト(訳)
私は自然の美学に関する穏健な形式主義を擁護する。私は反形式主義者たちが多くの自然美における不調和(incongruousness)を説明できないと論じる。このことは種に依存しない自然美が存在することを示す。それから私はいくつかの反形式主義的議論に対処する。それらはRonald HepburnやAllen CarlsonそしてMalcolm Buddなどの著作に見られるものである。
Ⅰ 様々な反形式主義と「としてテーゼQua Thesis」
- カント以来の依存美と自由・形式美の対立
- ある対象が何らかの機能を持っていて、その対象の美がその機能を表出したり分節したりするとき、それは依存美である
- 対象の美が機能を表出せず、その対象がそれ自体で考慮される仕方に依拠しているとき、それは自由美・形式美である
- 極端な形式主義は全ての美は形式美と言う
- カールソンは極端な反形式主義
- 自然の美的性質を鑑賞するためには、対象を常に正しい歴史的機能的カテゴリに位置づけなければならない
- 強い主張:自然の正しい美的鑑賞は対象の科学的理解に依拠する
- 弱い主張:自然の正しい美的鑑賞は、対象をそれの属する種の一員として鑑賞しなければならない
- 筆者は両者を否定する
- ここでの問題は、自然物は、それが属する自然種として qua the natural kinds they are members of美的性質を持つのか?ということ:「としてテーゼ Qua Thesis」
- 強い「としてテーゼ」:私たちは正しい特定の科学的・常識的な自然カテゴリに対象を位置づけなければならない
- 弱い「としてテーゼ」:自然物 natural thingを自然物として鑑賞すれば良い
- 芸術の美的鑑賞は芸術を芸術として鑑賞することであるように、自然を自然として鑑賞することが自然の美的鑑賞(Budd)
- 筆者は両者を否定するが、修正は微々たるものである
- 多くの場合、私たちは対象をそれが属している特定の自然種に属するものとして鑑賞しなければならない
- カールソンの議論はウォルトンの「芸術のカテゴリー」に依っている
- ウォルトンは美的判断はカテゴリーの下で下されるべきと考えた
- しかし彼は芸術に関して適用するのが正しい・正しくないカテゴリが存在するが、自然に関してそうではないことがあるとした。
- 芸術と自然に関する美的判断は両者ともカテゴリー依存 category dependentだが、自然に関する美的判断だけがカテゴリー相対的 category relativeとした。
- つまり自然物はC1に相対的に美しく、C2に相対的に美しくないことがある。このときC1とC2は同等の有効性validityを持っている。
- しかし彼は芸術に関して適用するのが正しい・正しくないカテゴリが存在するが、自然に関してそうではないことがあるとした。
- カールソンはカテゴリ依存テーゼは受け入れるが、カテゴリー相対テーゼを拒絶する
- つまり自然もその下で鑑賞するべき「正しい」カテゴリが存在する
- 筆者はカテゴリ依存テーゼを芸術に関しても自然に関しても拒絶する。
- ウォルトンは美的判断はカテゴリーの下で下されるべきと考えた
- 形式主義者たちは「もし美的判断がカテゴリ依存的でなかったならば、美的判断の客観性や正しさを主張し得なくなるだろう」と考えてウォルトンの主張を受け入れたが、それは誤り。
- 非カテゴリ依存的な美的判断も客観性を主張し得る
- 筆者の穏健な形式主義はカテゴリ独立的な美的判断があるとする
Ⅱ 方法論的反省
- 反形式主義者たちを説得するための思考実験
- ⑴とても緻密で香りづけまでされた造花がある。これは美的に生きた花と異ならない。確かに花から得られる快は対象が生きものであるということから生じるが、それは美的快ではない。
- ⑵あるフィヨルドは人工的に作られたものである。それを見ていた人は最初自然物だと思っていたが、あるとき人工物と知らされる。これによってフィヨルドの経験は少し変わって阻害されるだろうが、しばらく経てば元通りになるのではないか?
- ⑶有神論者にとって自然もまた神による芸術である。しかし有神論者による自然の鑑賞は、無神論者のそれと異ならないだろう。もしその人が信仰を失ったり、あるいは取り戻したりしても、自然の鑑賞経験は変わらないだろう。
- 以上の思考実験は、形式主義にコミットしている人たちの直観を明晰にするが、異なる直観を持つ反形式主義者たちを説得しないだろう。
- よってもっと良い例を探そう。
Ⅲ 「として」抜きの生物美biological beauty
- 生物はその生物が属する種として美しいのか?
- クジラの例
- クジラの美しさは、クジラとしての美しさ、つまりそれが哺乳類であることが重要?
- 例えば巨大サメの美しさとクジラの美しさは、それぞれが魚類と哺乳類であることから別の美しさか?
- 筆者はそれを否定し、カールソンはそれを肯定する:直観の衝突
- 泳ぐシロクマの例
- このシロクマが美しいのは、それが美しい生きている物だからでも、美しい自然物だからでもなく、単に美しい物であり、並外れた現象だから。
- 仮に人間がクマのスーツで踊っていたとしても、それはスペクタクルであり、自由で形式的な美を持っている。
- 同様にタコの動きの美しさも、タコが魚や哺乳類、あるいは人工物にカテゴライズされようと変わることは無い。
- よって筆者は「としてテーゼ」の弱いヴァージョンすら拒否する。
- カールソンは自然において「多くの」美的性質が、その自然物を正しく理解することによってアクセスできると言った点で正しい
- しかし実際には自然はカテゴリに依存する依存美だけでなく、独立した形式美も持っている。
- シロクマの例
- 泳ぐシロクマの美しさに関しては、それが驚きであることが重要である
- つまり私たちはシロクマにその美しさを期待していないのであり、よってその美しさはシロクマ性の理解に依存していない
- つまりシロクマは私たちがシロクマに期待していなかったような形式美を持つ
- 筆者によればシロクマはシロクマとしての美=依存美を持たない(極端な形式主義)。一方でもし持っていたとしても、それは上で述べたような形式美のような驚きや衝撃をもたらさないだろう。
- よってそれらの驚きを伴う、期待を裏切るincongruous美は、対象のカテゴリ・種に依存しない形式美であり、カテゴリと全く関係がない。
Ⅳ 非有機的自然美
- 筆者にとって非有機的自然の美が形式美であることは明らかであるように思える。
- 対象の(カテゴリではなく直接知覚可能な)狭い非美的な性質によって対象の美が決定されているように見える
- しかし強大な論敵としてRonald Hepburnが挙げられる。
- 彼は砂と泥の広がりを歩いて経験することを想定する。実はその広がりが潮泊渠tidal basinであり、潮が退いた状況であるとする。
- 潮の退いた状態であるという知識を持たないとき、その状況の美的性質は「荒々しく満足した空虚wild, glad emptiness」だが、その知識を持つときやがて海に覆われる地帯を歩くときの美的性質は「不気味なほど奇妙disturbingly weird」になる。
- ここではウォルトンにおけるゲルニカズのように、非知覚的な文脈が美的性質に影響を与えている。
- つまり自然物の美的性質がその歴史や文脈に依存しているのであり、それを知らなければ美的判断はできない。これは対象の置かれた文脈に美が依存しているという意味で反形式主義を重み付けるように見える。
- 筆者からの反論:鑑賞の対象それ自体と、時間的全体の一部としての対象を区別すべき
- 経験するそのときの砂と泥の広がりをA、より広い時間的な広がりに位置づけられた同じ砂と泥の広がりをBとする。
- 私たちはAのみの美的性質を考慮することもあれば、Bのみを考慮するときもあり、さらにはA+Bの美的性質を考慮することもある。
- Aの美的性質が「荒々しく満足した空虚」であり、A+Bは「不気味なほど奇妙」である。
- 筆者によれAとA+Bの美的性質が異なるのは当たり前。それはそれ自体は「陽気な」音楽が葬式で流されると「奇妙な」という美的性質を持ってしまうのと同じ。
- これは形式主義への反論にならない。単に形式的な美的性質を持つ対象自体が異なるだけ。
Ⅴ フレーム問題
- 形式主義が説明できないとされてきた問題に対処していく。
- フレーム問題とは美的鑑賞の対象の境界に関する問題である
- 芸術作品は大抵どこからどこまでが作品なのかの境界を持ち、それは作者の意図に従っている。
- しかし自然はどこからどこまでが鑑賞の対象なのかが明らかではない
- 雑木林を鑑賞するとき、各々の木を別々に鑑賞しても良いし、林全体を見ても良い。しかしなぜ雑木林を一つの単位とするのか、また近くの湖を含めるのかなど、評価の単位が恣意的になっている。
- そのため(恣意的であるということはカテゴリによって鑑賞対象を識別するわけだから)心的要素から独立な美的性質という形式主義は怪しくなってくる。
- 自然美は変動的だとする主張がある
- つまりフレームを修正すると、そのフレーミングされた全体の美が変動するということ
- これは起こり得るが、経験を記述できていないと筆者は述べる。
- 確かに雑木林に加えて駐車場をフレームすれば美は低下するが、それは駐車場が独立して醜いからであって、フレームを変えるだけで美が変動しているとは考えづらい。
- 結局私たちは自然美の美的に複雑complexであることを認めることでsubstantiveな美的性質を説明できる
- 結局自然美はフレームを無限に持っているのであり、それぞれのフレームの持つ美的性質を全て持っている。
- ただしフレーム依存であることは心依存mind-dependentであることを意味しない。
- フレームは私たちの結合の認識とは独立に存在するのであり、それぞれのフレームによって決定される美的性質も存在する。
Ⅵ 倍率問題
- 美的判断は感覚的知覚に依存しており、よって私たちの趣味は人間にとってのみ普遍妥当する。色・音・時空間的見た目が関係する。
- 全ての合理的なratinal存在に適用可能な道徳とはこの点で異なる。
- しかしそれは美が人間的スケールに限定されるという訳ではない
- 巨大あるいは微小なものも、それが別の時空間的性質を持てば美しくなる
- しかしここで問題が生じる:自然は私たちから独立に美的性質を持つのか?
- 全体的なtotal美的本性という概念を導入する。これは対象が持つ美的性質の総和のこと。
- 私たちは様々なレベル(倍率)で物を見ることができるが、それぞれの倍率において美的性質があり、それらの総和を対象の持つ全体的な美的性質とする。
- 反論:レベルNでは美しく、N+1では醜く、N+2では美しく…という場合、対象は美しいのか?醜いのか?
- フレーム問題でそうしたように、私たちは自然美の複雑性を認めるべき。異なるレベルにおいて異なる美的性質があり、それは自然美が私たちと独立であるという主張を譲らずともそう言える。
- 絵画のある箇所がエレガントで別の箇所がエレガントでない場合があるように、自然物はあるレベルでは特定の美的性質を持ち、別のレベルでは別の美的性質を持つことがある。
- よって美的性質が私たちに相対的であるというのは言い過ぎ。
- 単に見方を変えれば別の美的性質がアクセス可能になるというだけ。
- それらは矛盾するかもしれないが、両立可能であり、美的実在論への反論にはならない。
Ⅶ 積極的鑑賞
- またカールソンは形式主義への反論として、自然の鑑賞は純粋に観照的contemplativeではなくて、積極的activeに没入することが必要だと述べた。
- 筆者はこれに同意するが、カールソンはこの議論で自らの指摘した間違い、つまり風景の鑑賞を、風景画の鑑賞と考えてしまう間違いを犯している
- 三次元的な風景の鑑賞は、二次元的な風景画の鑑賞と異なる。その中で動き回り、三次元の形式的性質を積極的に没入して味わうことが風景の鑑賞である。
- つまりカールソンは形式的性質を二次元的性質に限定してしまっているのが誤り。
- 形式的性質には三次元的なものがあり、それは対象同士の空間的関係によって生み出される。それらは積極的に鑑賞される必要がある。
- 自然の形式的性質はそのようなものである