グレゴリー・カリー『物語と語り手たち』におけるフレーム理論

Gregory Currie, Narratives and Narrators - A Philosophy of Stories, Oxford: Oxford University Press, 2010.

www.oupjapan.co.jp

主に第5章「表現と模倣 Expression and Imitation」より。

 

 

0.はじめに-分析美学における物語論

 分析美学では「フィクション」が長らく重要なトピックとして研究されてきたが、一方でしばしばフィクションと強いつながりを持つ「物語」概念の研究はどうなのだろうか。物語一般の理論研究(=物語論)というとやはり、バルト、ブレモン、グレマス、そしてジュネット(あとエーコとか)のフランスの構造主義物語論を思い浮かべる人が多いと思うが、英米圏の現代美学でもやはり物語について論じている人が居る。今回紹介するカリー以外にもピーター・ラマルクが単著*1を出していたり、ノエル・キャロルが論文集を2冊*2*3を編集していたりする。ただフィクション論の文献の中に紛れ込んでしまっている場合もあったりして(マリー=ロール・ライアンが言うように物語概念はフィクション概念とは区別されるものであるのだけど)、あまり日の目を見ていない(気がする)。

 今回紹介するカリーのフレーム理論は、語りの視点の「フレーム効果」が読者のストーリーへの反応を促すというもので、物語におけるテクストと読者の感性的関係の枠組みを考えるのに有用かもしれない。

 

1.カリーの「フレーム」理論

 「フレームframe, framework」とは、カリーが(物語)コミュニケーションに関する概念として提示するものである。「フレームframeworkとは、ストーリーに対する望ましい認知的、価値的、感情的な反応の集合である[1]」とカリーは述べ、またそれが物語を表象する過程で表現されるもので、表象される物語内容そのものとは区別されるとする[2]。また作品のフレームは一度受け手に伝えられると、受け手の物語や登場人物、出来事に対する反応に影響を与えるとされる[3]。つまりフレームとは物語(の主に作者)が、物語の内容に対する受け手の様々な面における反応を制御する方法であると言うことが出来る。そしてあとで検討する事柄だが、このような物語のフレーミングに私たちは常に従うのではなく、提示されるフレームに対して抵抗することもあるのだ[4]

 

2.心理実験におけるフレーミング

以下ではカリーのフレーム理論を詳しく検討するが、カリーは初めからフレーム理論をフィクション物語に直接適用することをしない。初めに引用されるのは、以下のような心理実験[5]である。

 

病気に対抗する二つの選択肢が提示される。結果は以下の通り:

 

もし計画Aが採用されれば、200人が助かる。計画Bが採用されれば、三分の一の確率で600人が助かり、三分の二の確率で誰も助からない

二つのどちらかを選ぶように言われた人々のうち、72%の人々がAを選んだ。

 

もし計画Cが採用されれば、400人が死ぬ。計画Dが採用されれば、三分の一の確率で誰も死なず、三分の二の確率で600人が死ぬ。

 この場合、22%の人々がCを選んだ。

 

Kahneman and Tversky (1981)ではここで人々の反応に作用しているものを、フレーム効果(framing effect)と呼んだ。つまり前者(AとB)では問題を「得るもの」の点からフレーミングし、「200人を必ず救うことが出来る」ことが「600人を三分の一の確率で救う」ことより魅力的であるようにしている。一方で後者は反対に、「失うもの」の点からフレーミングしているのだ。計算すればわかるように、ABCDはすべて同じ事態を記述しているのであり、本来ならば前者と後者で違いは生まれないはずである。それにもかかわらず人々の反応が変化した原因を、ここではフレームと呼んでいるのだ。

 そしてカリーは、以上のシナリオを物語の形にした場合、前者と後者は「視点point of view」において異なると主張する。

 

二つの視点の違いは、潜在的に失われる命に対して、潜在的に守られる命に注目する傾向と関係している。二つの記述の何も、それらが事実に関する異なる意見の産物であるとは、示唆しない。

The differences between these points of view are to do with a tendency to focus on lives potentially saved as opposed to lives potentially lost; nothing in the two accounts suggests they are the product of distinct opinions on matters of fact. (88)

 

つまり二つの記述に対する反応の違いは、事実に対する「信念belief」の違いとは異なるものであり、それは二つの記述の「視点」の違いによるものだとカリーは言うのだ。以上のようにカリーは、フレームを語りの視点と結びつけ、その視点がどのように物語でフレームの役割を果たすかを詳述する[6]

 

3.視点と主体

視点とフレームの関係について述べる前に、カリーは視点がそれを持つ主体とどのような関係にあるのかを明らかにする。

「視点」と(それを持つ)「主体」の関係についてカリーは以下のように述べる。

 

私たちは、主体の心理的状態の全体性を、その視点への貢献として考えることが出来る。一方でそのような心理的状態の自己中心的な部分が、そもそもそのような視点を持つことを可能にしているのだが。

[W]e can think of the totality of an agent’s psychological states as contributing to their point of view, while a proper subclass of those states – the egocentric ones- make possible the having of a point of view in the first place. (89)

 

つまりある主体の全体性や自己中心性とその視点が、本質的に関係していると言うのだ。また同様に彼は視点が「自己中心的」である主体の、世界における時間的・空間的(そして精神的)な限界に必然的に付随するものであるとする前提に立つ。自己中心的でないような時空間的・心的状態は行為において存在し得ないということだ。

 そして以上のような一つの主体と結びついた視点は、物語において常に不完全な状態で与えられると言う。つまり語りの視点は主体の世界における限界に付随するものであるから、すべてを包含するような視点はあり得ないのだ[7]。そしてそれは同時に、視点がそれを持つ主体と他の主体の登場人物を区別するということを意味する。言い換えればある主体を他の主体から区別するものこそ、視点であると言うことが出来る。

そして視点が主体を弁別するものである以上、二人の人物の間で少なくとも一つは、一方が認知し、一方が認知しないものが存在する。しかしそれは「ある視点を十分に理解するとは、その視点が可能にする知ること、感じること、語ること、そしてすることのリソースを理解することだ[8]」と言うように、単に知識に限られない。それはその主体が知り、感じ、語り、すること全てが関係するとカリーは言うのだ。よってある同じことを知っていてそれを言うことに関しても、AとBという二つの主体の視点においては、知識と行為以上の違いが生じる。例えばAがそれをするのは驚くべきことで、Bはそうではないというような感情的な違いが、主体と視点の違いによって生じうるのだ。

また語り手の視点は、通常は物語そのものの中で説明されることはない。それは物語の内容ではなく、その外側から明らかになるものなのだ。カリーは語りの視点と物語の関係について以下のように述べる。

 

それ[語りの視点]は、関心やムード、感情、評価や他のものを表現するような、語り手によって行われることたちによって、明らかになるのだ。[…]語りの視点を表現するような物語は、自然にその視点の産物のような種のものになるだろう。怒った仕草が怒りの心的状態を表現するように。

'it is made evident by things the narrator does which are expressive of interests, moods, emotions, evaluations, and the rest. [...]A narrative expressive of a point of view is the sort of things which would naturally be the product of that point of view, as an angry gesture is one expressive of an angry state of mind.' (90-91)

 

語りの視点は物語において、語る主体の関心やムード、感情、評価などによって明らかになるものなのだ。このように、カリーは語りの視点が、語るという行為そのものから見出されるものだという立場を採っている。

 そしてそのような語りの視点を表現する行為は、以下のように多様であるとカリーは述べる。

 

多くの振舞いが人の視点を表現し得る。つまり何かを表現するように意図された[…]あからさまな振舞いと同様に、言語的あるいは非言語的行為、そして鬱の人の態度などの非随意的振舞いもそうなのだ。

'Many kinds of behavior may be expressive of a person’s point of view: verbal and nonverbal action, involuntary behaviour, such as the depressed person’s posture, as well as behaviour which is intended as expressive and which may [...]overt: in such a case I make it clear that my behaviour is intended as expressive.' (91)

 

例えば真剣な主張は、ある人の信念の意図されたあからさまな表現である。しかしその一方で意図せずに主体の関心・感情・ムード・評価などが、振舞いを通じて表現されることもあるのだ。そして後者の振舞いは、しばしば主体の視点を(非意図的であるために)示しているとされることが多いとカリーは述べる。一方で主体の視点を直接表現するように意図されていると思われる振舞いは、私たちを主体がそう望むような視点に誘導しているとされるのだ。

 

4.物語における視点のフレーム効果

続いてカリーは、物語における視点に関する前提をいくつか提示する。まず一つは登場人物の視点を、登場人物の性格characterの一部としてみることが出来るというものだ。ここでカリーはシェイクスピアの『オセロ』を例に出す。この作品ではイアーゴがオセロに、彼の妻デズデモーナとキャシオーが不倫していると信じ込ませる。ここではイアーゴがオセロの認知的視点を操って、オセロが確かに何かを見たり聞いたりしているようにするが、それはイアーゴが、オセロが何にどのように反応するかの性格を把握しているからだ。そのようなオセロの性格は、彼の視点であると言うことが出来るだろう。そのような性格としての視点を、カリーは以下のように考える。

 

私たちの多くは、ある特定の仕方で推論し、ある種の要素に重きを置き、特定の事実や可能性に他よりも注意を向ける。私たちは修正に抵抗を感じるような、一般的信念や優先事項を持ち、それは私たちの実践的および理論的推論に影響を及ぼす。また私たちはある選択肢を目立たせ、他をぼやかすような。感情的な感性を持っている。

Most of us reason in a certain way, give special weight to certain kinds of factors, attend to certain facts or possibilities more than to others; we have general beliefs and preferences which are resistant to revision and which affect our practical and theoretical reasoning; we have emotional sensitivities which highlight some options and obscure others. (91-92)

 

カリーの言う性格とは、私たちが何かを考えるときの傾向や、一般的な信念、そして感情の全般的な傾向のことを言っているのであり、視点はそのような性格の一部であると言えるだろう。そしてこの語りの表現する性格のため、あるいは語りが様々な出来事に対する反応を内包しているために、視点の表現としての語りnarrationは一つの人格全体を表現することが出来るのだ。

 そして物語作品における視点は、作中の人物と同様に作品の語り手も持っている。カリーは両者をそれぞれ外的語り手[9](主に作者)、内的語り手(登場人物など)として区別し、前者に物語コミュニケーション上の重点を置く。そして外的語り手の視点と内的語り手の視点が矛盾するとき、私たちは通常前者を正しいとし、後者を「倫理的あるいは感情的に信頼できないmorally or emotionally unreliable」とみなすという。そしてカリーは以下のように述べる。

 

私のここでの関心は、主に最も高次のもの、物語によって表明される最も権威のある視点である。この視点こそ、一つの全体として見られたストーリーの、フレーム効果が依存するものである。作品が完成された意味を為すためには、他の下位の視点も理解する必要があるのだが。

My interest here is primarily with the highest level, most authoritative point of view manifested by the narrative; this is the point of view on which the framing effect of the story, considered as a whole, depends, though other, subaltern perspectives need to be understood if we are to get a rounded sense of the work. (92)

 

ここでカリーが言う「最も権威のある視点」とは、以上の文脈を踏まえれば外的語り手の視点であり、その視点にこそ、物語のフレーム効果が存するという。確かに一つ物語作品において、私たちの反応を規定するのは語り手の視点におけるフレーミングであり、登場人物のそれではないのだ。

 そして最後にカリーはストーリーとフレーミングの関係について以下のように述べる。

 

ストーリーとフレームはそれぞれ別のものであり、両者はそれぞれ二つの別々の問いに対する答えに対応する。それは「ストーリーによれば何が起こるのか?」と「私たちはどのように、それらの出来事に反応するよう誘導されているのか?」というものである。しかし私たちは一般的に、一方を特定せずにもう一方を特定することは出来ない。フレームの知識の、ストーリーの知識への依存は明白だ。またより明白でないが、反対方向の依存もある[…]。つまりフレームそれ自体が部分的に、私たちがストーリーの出来事に関して言われることを、どのように受け取るかを決定するのだ。語り手に対する望ましい反応は、懐疑的なものなのだろうか?その答えを知ることは、ムードや作品のトーンの感覚による。もし語り手が信頼出来ないとするならば、そのストーリーで何が起こるかの仮定を、根本的に考え直すことになるだろう。

Story and framework are distinct things, and they correspond to the answers we give to two distinct questions: "what happens according to the story?" and "in what ways are we invited to respond to those happenings". But we generally cannot identify the one without identifying the other. The dependence of our knowledge of framework on our knowledge of story is obvious [...]. And less obviously, dependence runs the other way: the framework itself partly determines how we are to take things that are said about the story’s events. Is the preferred response to the narrator a sceptical one? Knowing the answer may depend on a sense of the mood or tone of the piece. If we take the narrator to be unreliable, we will have radically to rethink our assumptions about what happens in the story.' (93)

 

ここで言われているのは物語内容としてのストーリーと、それがどのように語られるかに関するフレーミングの関係である。ストーリーが明らかでなければフレームがどのように為されていることを知ることは出来ないが、信頼できない語り手などの場合、ストーリーがフレームに依存することもある。カリーは以上でフレームに関する前提を提示し終えたとし、フレーミングの実例とその背後にあるメカニズムについての記述に移る。

 

5.コミュニケーションにおけるフレーミングの例

 カリーはフレーム効果を、文学などの物語芸術によく見られるものの、より広い領野で見られるものだとする。まずカリーはコミュニケーションにおいて情報内容informational contentとシグナリングsignallingを区別する。これは上記の物語内容とフレームの区別と対応しており、これによってカリーはフレーム理論をコミュニケーション全般に適用しようと試みている。 シグナリングとは対話の相手にあるムードを生じさせたりすることであり、それは「その行動が自分に利益を与えたり、あるいは害になったりするような誰かの内に、正しいムードを作り上げることは、重要になり得る」 ‘Creating the right mood in someone whose actions may benefit or harm you can be important’(94)というように主体の利益のために重要な行為である。カリーはこれに人々の情動的状態を「チューニング」するために発達したものだと進化論的説明を与え、これを言語以前の音楽から派生したものだとする。

 カリーによって与えられるフレーミングの一つ目の例は以下のようなものである[10]

 

休日にコモ湖にやってきたジャネットとジョン。ジャネットはバルコニーのドアを開けて、ジョンに見える仕方で、また明らかに見えることを意図して、味わうように空気を吸い込んだ。

Arriving for a holiday at Lake Como, Jante throws open the balcony doors and, in a way that is visible to John, and is clearly intended to be visible, sniffs appreciatively at the air. (94)

 

ここでカリーが注目するのはジャネットの行為である。これによってジャネットは空気が新鮮だという情報をジョンに伝えようとしたのではない。ジョンはすでにそれを知っているからだ。ジャネットはそうすることによって、二人にとって相互に明示的な仕方で、空気の新鮮さに二人が注意を向けるようにしたのだとカリーは述べる。また加えてジャネットはジョンに、彼女が現在そうしているような仕方で世界を見るように仕向けてもいる。ジャネットのそのような意図は以下のように言い換えられる。

 

ジャネットはジョンに、彼女が世界のある一部に注意を向けている仕方で、注意を向けることを望んでいる。つまり、喜んで、始まったばかりの休日の可能性に興奮して、という仕方だ。ジャネットはジョンに、特定の物事に気づくことを望んでいる。またその物事が提示する特定の可能性に想像的に参与することを、そしてそれらの物事と可能性を一定の方法で価値があると見なすことを望んでいる。

Janet wants John to attend to that portion of it [world] in the way that she is attending to it: appreciatively, gratefully, with excitement at the possibilities for the holiday that has just begun. She wants John to notice certain things; to engage imaginatively with certain possibilities which these things present; to see these things and possibilities as valuable in certain ways. (94)

 

つまりジャネットの行為の意図とはジョンに、新鮮な空気に、ジャネットと同じ仕方で注意を向けてもらうことであるとカリーは言うのだ。そしてそれは「彼女はジョンに一定の仕方で可視世界をフレームすることを望んでいる[11]」と言い換えられ、そのようなジャネットの行為は(ジョンに対する)「フレーミング」であるとされる。

 上の例のようなフレーミングは、状況を考慮すればその意図に従うことは難しくないように思える。しかし従うのが難しいフレーミングが為される場合は存在し、そのような場合、「フレームを受け入れることは[…]概念的および感情的に自身を引き伸ばし[…]努力と心的柔軟性を要求する仕方で反応することを求める[12]」ことになるのだ。そしてこの例であれば、ジョンが単にジャネットを送っただけで休日を共に過ごすわけではなかったり、あるいは新鮮な空気が嫌いだった場合には、ジョンはジャネットのフレームを受け入れるのを難しく感じるだろう、とカリーは述べる。

 ただカリーによれば、ジョンがフレームを受け入れるのに困難を感じている場合、何らかの命題(例えば「新鮮な空気は爽快だ」)を想像しても役に立つことはない。ジャネットが求めるのは命題の共有ではなく、命題に対する一つの視点の共有だからだ。結局ジャネットのものの見方をジョンが受け入れるのは、ジャネットの例の仕草による。ジャネットのフレームをジョンが受け入れるということは、以下のようにまとめられる。

 

彼[ジョン]がしなければならないのは、それらの物事を評価することを含んだフレームに、想像的に入り込むことである。彼自身が本当にそれを評価していない、あるいはジャネットがそうするほどは、あるいは彼女がそうしている方法では評価していないとしても。

What he needs to do is to enter imaginatively into a framework that includes valuing these things, even though he may not really value them himself – or not so much as, or in the same way that Janet does.’ (95)

 

ジャネットが提示するフレームとは、ジョンに一定の仕方での反応を求めるものである。それに対してジョンは、ジャネットと性格や好み、そして知識をある程度共有している場合には、フレームを容易に受け入れることが出来るだろう。その場合ジョンはジャネットが注意を向けている可能性を想像することが出来るからだ。このような注意の共有をカリーは心理学や脳科学における「共同注意joint attention」の一種とする。次の例では物語の生成における、フレームとその背後にある共同注意の働きを、カリーは解説する。

 

6.物語における共同注意とフレーミング

以下はカリーの引用する、共同注意とフレーミングの例である。

 

母:指どうしたの?(What happened to your finger?)

子:挟んじゃった (I pinched it.)

母:挟んじゃったんだ。あぁ、それはとっても悲しいね (You pinched it. Oh, boy, I bet that made you feel really sad.)

子:うん…。いたい… (Yeah... it hurts.)

母:そうだね、痛かったね。指を挟むって楽しくなんてないよね。でも誰が来てよくしてくれたの? (Yeah, it did hurt. A pinched finger is no fun… But, who came and made you feel better?)

子:お父さん! (Daddy!)

 

この会話に対して、カリーは以下のようにコメントする。

 

母親は出来事を正しい時系列の順序に並べるように気を配り、表象された出来事の構成と順序を導く。また同時にその中で物語に参与するようなフレームを与えてもいる。つまり痛みを思い出させるが、その後のポジティヴな展開を強調することによって、ネガティヴな感情の強い再帰を避けるのだ。

The mother guides the construction and ordering of represented events, taking care to place events in their correct chronological order, while at the same time providing a framework within which to engage with the narrative: recalling the hurt but discouraging a strong resurgence of negative emotion by emphasizing the positive turn of events after that.  (96)

 

つまりこの例では出来事を直接経験した子が物語るのだが、その語りの生成に際して母親が介入している。そのとき母親は子の語る出来事を単に時系列立てるだけでなく、その語りの形式をコントロールすることによって、その出来事に対して子がどのように反応するべきかを規定しているのである。この例に関してさらにカリーはHorel and McCormack (2005)を引用し「そのような導かれた物語構成は母親と子供が『共有された過去の個人的・感情的評価』に至るのを可能にする[13]」と述べる。そしてカリーは以上のような会話におけるフレーミングと共同注意を、以下のように物語全般に適用する。

 

この意味での共有された個人的・感情的な評価は、私たちの最も成熟した物語への参与においても存続し、広く見られることを示す。そのような参与において、共有は受け手と、物語そのものの中に現れる作者人格の間に為されるのだ。

I suggest that this sense of a shared personal and emotional evaluation survives and indeed flourishes in our most mature engagements with narratives, where the sharing has come to be between audience and the authorial personality manifested in the narrative itself. (97)

 

ここでカリーが「成熟した物語への参与」と述べる際に念頭にあるのは、小説の読書体験だろう。以上で述べたような会話における共同注意や、出来事に対する個人的・感情的評価の共有によるフレーミングは、物語一般に見られるというわけだ。しかし私たちはすぐにその問題点に気づく。会話と違い小説などの読書経験は、両者の時空間的な共在を欠いているという点である。この点についてカリーは以下のように「誘導注意guided attention」の概念を用いて詳しく述べる。

 

7.物語作品における誘導注意

上で述べたように、カリーは会話におけるフレーミングで見られるような共同注意を、そのまま物語作品の鑑賞体験に適用することはない。カリーによれば、共同注意はコミュニケーションにおいて双方の「相互の開示mutual openness」を必要とする。しかし物語的コミュニケーションの場合多くは、作者はもう一方(読者)について何もわからないし、それ以前にそのような相手がいるのかすら、知ることがないのだ[14]。よってカリーは物語について以下のように考える

 

物語に組み込まれたある人の典型的な状況は、私たちを、それ自体厳密な意味での共同注意の状況を構成することなく、共同注意の探し手となるような傾向に置くそれらの能力に心理的に基礎づけられている、と私は考えたい。

I prefer to think of the typical situation of one engaged by a narrative as psychologically grounded in those capacities which make us apt to be seekers of joint attention, without itself constituting a case of joint attention in the strict sense. (97)

 

ここでカリーが言っているのは、物語への参与は共同注意をする能力に基づくが、それが成功しているのではなく、共同注意を探し求めているだけだということである。

そこでカリーは共同注意がその「洗練された形式refined form」であるような、より一般的な現象として「誘導注意guided attention」を提示する。それは「人は、もう一人の何らかの対象への注意の、その人自身のその対象への注意への影響を経験する[15]

誘導注意全般に関してカリーは「それ[誘導注意]は、場面や対象に向けられた共有された感情の価値的経験を、含む、あるいは含むようにデザインされている[16]」と述べ、感情の共有を強調する。物語作品のフレームと感情の関わりを、カリーは以下のように述べる。

 

私がここで感情の役割を強調するのは、物語のフレームを採用するのは物語内容に対して「調律される」ことを意味するからだ。それは物語の登場人物と出来事への参与の全体に及ぶ安定性を示すような、選択的で集中的な仕方で反応する傾向を持つようになる、ということなのだ。

I emphasize the role of emotion here because adopting a framework for a narrative means being tuned to the narrative’s content; being apt to respond to it in selective and focused ways that show some stability over the length of one’s engagement with its characters and events. (98)

 

つまり物語の提示するフレームを受け入れるということは、物語内容に対して自由に反応するのではなく、物語自体が指定する方法で反応するように要請されるということなのだ。それは単に物語の世界において、語り手が取り出して語るものに受け手が注目するというだけではない。その際に物語のフレームは、受け手の物語内容に対する感情を指定するのだ。

カリーは感情とは別に、「ムードmood」も誘導注意によるフレームにおいて果たす役割が大きいとする。それは「特定の出来事に対する一定の感情的・価値的反応を、他より起こりやすくする[17]」もので、物語における「誘導注意」の重要な一成分であるのだ。

特にムードに関して、カリーはディケンズの『リトル・ドリット』という小説を例に出す。彼によれば私たちは登場人物の運命や行為について知る前に、ディケンズの言葉の選び方によってムードを提示されるのだ。

 

彼[ディケンズ]は白い壁や道を「見つめる」ことや「土地の広がりや荒れた道」そして「こげ茶色の」塵のことを語る。厳しい暑さ、港の水、水膨れのある麦が表象されるのだが、その表象の様式は、容易に記述し得ない、ある種の陰鬱な抑圧を表現するのだ。

[H]e speaks of 'staring' white walls and streets, 'tracts of arid road,' and dust 'scorched brown'. The intense heat, the water within the harbour, the blistered oats are what is represented, but their mode of representation expresses a certain, not easily described, mood of sombre oppression (99)

 

このようにディケンズは物語における表象の「様式mode」によって、何かしらのムードを表現する。そして受け手はそれに対して「私たちは語り手のムードを実感する。[…]そして私たちはそのムードを自分たちのものとするのだ。ムードを作るのに、何らかの特定の、感情を惹起するストーリー内の出来事は必要ない[18]」というように、物語のムードを自分たちのものとするのだ。

 以上のような感情やムードの共有の原理を、カリーは人間の模倣しようとする傾向にあるとする。フレーミングのメカニズムにも人間の進化が関わっていると論じるのだが、ここでは省略する。カリーの模倣観は「心的調和としての模倣imitation as mental harmonization 」というものであり、それは意識的でも無意識的でもあるとする。

 

8.物語鑑賞における「標準参与モデル」

以上の議論を踏まえ、カリーは自らの「私たちの物語への反応が、作品の中で明らかになる語る人格の関心、評価、反応によって、形成される仕方[19]」という関心に対する答えを、最終的に「物語への標準参与モデルthe standard mode of engagement with narrative」としてまとめる。それは以下のようなものである。

 

物語は、それがその語り手の視点を表現するものとしての機能を果たすので、私たちの心にその視点を持つ人格のイメージを作り出す。そのことによって私たちにその人格の顕著な側面、つまりその価値的な態度や感情的反応、を真似するように促すのだ。そのような反応を受け取る中で、私たちは全体的であれ部分的であれ、その作品の標準的なフレームを受け入れるようになるのだ。

Narratives, because they serve as expressive of the points of view of their narrators, create in our minds the image of a persona with that point of view, thereby prompting us to imitate salient aspects of it – notably, evaluative attitudes and emotional responses. In taking on those responses, we thereby come to adopt, wholly or in part, the framework canonical for that work. (106)

 

[1] [A] frame work is a preferred set of cognitive, evaluative, and emotional responses to the story. (86)

[2] I will argue that framework is communicated to us, not as something represented, but as something expressed in the process of representing the story'. (86)また内容と形式としてのフレームの区別については、同書の6章4節 Confusing Framework and Contentで詳しく述べられている

[3] '[F]ramework, once communicated, will influence the response of the audience to story, its characters, and events.' (86)

[4] 'But we do not always welcome, or approve, these attempts to frame our experience of the work; we sometimes experience resistance to framing.' (88)本書では後に「想像的抵抗imaginative resistance」がフレーム理論との関わりにおいて論じられる。

[5] Kahneman and Tversky (1981) ‘The Framing of Decisions and the Psychology of Choice’, Science, 30: 453-8から引用したもの

[6] 「視点point of view」は一般に「物語られる状況・事象が提示される際の知覚・認識上の位置」(『ジェラルド・プリンス『改訂 物語論辞典』遠藤健一訳, 松柏社, 2015年)などと説明されるものである。しかしカリーにおける「視点」は明らかにそのような「知覚・認識上の位置」以上の、一つの人格の価値づけも含めたパースペクティヴなようなものだと言える。

[7] A narrator or character’s point of view is never given in full; what is focused on is always some relevant aspect of that point of view, usually some aspect which distinguishes that agent from other significant characters. (89-90)

[8] 'To understand a narrator’s point of view fully is to understand what resources for knowing, sensing, telling and doing that point of view makes available.' (90)

[9] 外的な語り手は以下のように端的に定義される:「フィクションの外的語り手とは、その人にとってストーリー上の出来事が虚構であるような人物のことである」 'The external narrator of a fiction is someone for whom the events of the story are fictional' (92)

[10] Sperber and Wilson [1995] から引用したもの。

[11]  ‘She wants John to frame the visible world in a certain way’ (94)

[12] Adopting a framework […] requires us to respond in ways that call for effort and mental flexibility, stretching ourselves conceptually and emotionally […]. (95)

[13]  'such guided narrative constructions enable mother and child to arrive at a "shared personal and emotional evaluation of the past".' (ibid)

[14] ただここでカリーは読者にとっての作者人格の不在には触れていない。作者人格にとって読者が開かれていないように、読者にとっても作者人格は開かれていないだろう。

[15] one experience the influence of another’s attention to some object on one’s own attention to it (98)

[16] They involve, and may be designed to involve, valued experiences of shared emotion, directed at a scene or object. (98)

[17] 'making certain emotional and evaluative responses to specific events more likely than others'

[18]  'We have a sense of the narrator’s mood, as expressed through his act of representation, and we quickly catch that mood ourselves; we need no specific, emotion-generating event in the story to create the mood.' (ibid)

[19] ways in which our responses to a narrative are shaped by the interests, values, and responses of the narrating personality we see revealed in the work. (105)