Roger Puivet 「様相美学」(2011)論文紹介

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Ⅰはじめに

 

 今回紹介する論文はRoger Puivetロジェ・プイヴェ(1958~)によるもので、筆者は現在フランスのロレーヌ大学の哲学教授。フランス語での美学・哲学関係の著作が多いが、内容は分析哲学から大陸哲学まで多岐にわたる。

 この論文は芸術作品から何かを学ぶことはできるのか、そしてそうだとしたら芸術から得られる知識はどのようなものなのか、という問題系である芸術の「認知主義cognitivism」に関する論文。特に文学作品について、フィクションに過ぎないものが現実世界にどのような力を持ち得るのか、という問題を考えるのに役に立つかもしれない。ただ芸術の認知主義に関する論文の中では多く引用されているとは言い難いし、また結論もそれ以上の議論の発展が難しそうなものではある。それでも「様相modality」概念を芸術の認知的価値に結び付けるのは面白い。

 論文の概要は以下の通りである。まず初めに筆者は、芸術は私たちに何かを教えてくれる、という美的認知主義の一部を擁護すると言明する。筆者は芸術が教えてくれるのは「何か真の命題」ではなく「新しいものの見方」や「正しさ」であるとするグッドマンに部分的に同意しつつも、それと関連した存在論的な主張には反対する。そしてシュトルニッツの「何か真であることを知るのに芸術は必要ない」という美的認知主義に反対する主張にすら筆者はある意味で同意するのだ。しかしそれでも筆者は美的認知主義を擁護する。それは芸術(主に小説や映画などのフィクション物語)が、私たちに様相的知識(何が可能であったり、不可能であったり、必然であったりするかに関する知識)を与えてくれるからだとする。それは作品によって私たちがごっこ遊びで想像する際に、私たちの様相的直観と相互作用することで為される。作品と鑑賞者の様相的心性のずれによって想像のしづらさが生れたり、観賞者の心性が修正されたりするのだ。筆者はそのような作品と鑑賞者の様相的な相互関係の研究を、様相美学と名づける。

 

 

Ⅱ内容紹介

 

イントロダクション 

筆者は最初に、芸術の認知的価値に関する議論における、美的認知主義aesthetic cognitivismを紹介する。それはBerys Gaut(ゴート)の「芸術と認知Art and Cognition」(2002)で以下のように定式化されるという:

 

「認知的主張[…]芸術は私たちにトリヴィアルでない仕方で物事を教えてくれる。」

「美的主張[…]そのような芸術が私たちに物事を教える能力は、部分的に芸術の美的価値を決定する」

 

このうち筆者は、前者に関してのみ考察する。そしてそのことによって、「どのように、そして何を」芸術は私たちに教えてくれるのかについて述べるとする。

 

1.

筆者はまず「芸術が何かを教えてくれる」という主張への反論として、純粋にインストゥルメンタルな音楽や、非形象芸術が挙げられることに触れる。しかしその反論は正しくなく、それらも何がしかを、私たちに教えてくれるとする。つまり「何かを学ぶこと」を「命題的真propositional truthを得ること」とは同一視しない立場を筆者は取るのだ。そして筆者はNelson Goodman(グッドマン)の『世界制作の方法Ways of Worldmaking』(1978)における同様の主張を引用する。つまり認知は理解の向上であり、つまり真理を発見することというよりは、新しいものの見方の獲得である。それは何かそれまで認識することのできなかった性質を、認識できるようになることなのだ。それはグッドマンが『心やべつの物事について Of Mind and Other Matters』(1984)で、「ある重要な画家の展覧会から出るとき、私たちが踏み出す世界は、私たちが展覧会に入るときに踏みでた世界ではない。私たちはすべてを、それらの作品の観点から見るのだ」と述べる通りであり、そこで筆者はグッドマンの美的認知主義が存在論的複数主義ontological pluralismにつながっているとする。

 しかしその上で筆者はグッドマンの主張は行き過ぎであるとする。確かに芸術によって「世界が変わる」ことはあるが、それは単に「感銘を受けた」と言っているだけで、純粋に存在論的な言明ではない。確かに芸術鑑賞は理性的な認識活動の一種で純粋に感覚的なものではないが、しかし芸術作品を鑑賞することで、作家の作った別世界の認知が為されるわけではない。つまりグッドマンは美的認知主義が存在論相対主義ontological relativismを必要とするとするのだがが、それは「あまりにも形而上学的・認識論的なコストが大きすぎるだろう」(p.16)と筆者は考える。この後論文では主にフィクションを含めた物語に焦点を当てるため、グッドマンの主張には深入りしない。物語は、世界に対する新しいパースペクティブや、あるいはグッドマンが言うような探索すべき新しい世界を必ずしも必要とすることなく、私たちに何かを教えてくれる命題的な主張propositional claimを提示すると筆者は考える。

 美的認知主義(芸術はトリヴィアルでない何かを教えてくれる)に対する反論として、多くのフィクション(主に小説や映画など)が「幻影的で、野卑、反倫理的、そして結局は退屈」 'illusory, vulgar, immoral, and, finally, boring' (p.17)であることを筆者は挙げる。それに対して考えうる応答は、文学史において名作とされる作品について考えるべきだ、というものである。例えば「人間性に関する教訓lessons for humanity」を与えてくれるとされる、ドストエフスキーの『罪と罰』などを筆者は例に挙げる。しかしその場合でも以下のような問題が生じるとする。つまり読者はその小説から何を学ぶのか?そしてもしドストエフスキーが擁護するテーゼを特定出来たとしても、それを真面目に受け取り、教えられたものとする論拠は何なのか?というものである。これは文芸批評の仕事に思われるが、筆者はこのような疑問に文芸批評家たちは取り合わず、ただ作品の「包括的重要性global significance」のみを気にかけるのだとする。つまり批評家らは、ニュートンの『プリンピキア』を読む時とは違い、小説の場合はそれが何を教えてくれるのかを、作中の3つか4つの文によっては示そうとはしないというのだ。しかも、もし『罪と罰』のような作品が「包括的重要性」を持っているとして、その「包括的重要性」に対する注目は、私たちに何かを教えることになるだろうか、と筆者は疑問を呈する。そして私たちが何を学んだのかを示すことが出来ないのならば、私たちは芸術から何かを学んだと主張し得えないのではないかと述べるのだ。

 さらに筆者はJerome Stolnitz(シュトルニッツ)の「芸術の認知的取るに足らなさについてOn the Cognitive Triviality of Art」(1992)における『オイディプス王』の例を挙げる。この作品は私たちに「人生では予想し得ないことが起こる」「誰も未来に何が起こるのかはわからない」などのことを教えてくれ、それは『オイディプス王』の「包括的重要性」かもしれない。しかしそれらのことは『オイディプス王』について語ることすら無しに知ることが出来るものだと筆者は指摘する。例えばパン屋の店員と「世界には不幸なことがたくさんありますね」「ええ、まったくです。私はその人が死ぬまで、誰かを『幸福だ』なんて言いませんよ」という会話をしたとして、そこから『オイディプス王』から学ぶことと同じことを学ぶことが出来るのだ(実は二つ目の言葉は『オイディプス王』の台詞の一つと全く同じだ)。つまり日常のありふれた事柄からそれらの「深遠な真実」や「知恵wisdom」を学ぶことが出来ると言うなら、芸術作品は必要ないのではないか、と筆者は述べる。

 以上のように美的認知主義に対する批判はある程度的を射ていると筆者は述べる。グッドマンの、真理に対する「正しさrightness」概念は、支持する人の少ないだろう相対主義的でポストモダン的な「世界ヴァージョンworld version」概念と結びついてしまっている。シュトルニッツの(科学などと比べ)「芸術的真理は娯楽sportであり、発育不全stuntedで、ほとんど及ばないhardly to be compared」という考えに筆者も同意するのだ。

 しかしその上で筆者は自身を美的認知主義者であるとする。その理由を二つ筆者は挙げる。まず一つに筆者は冒頭のゴートの主張「1.芸術はトリヴィアルでない形で私たちに何かを教えてくれる2.芸術のその能力は、芸術の美的価値を部分的に決定する」を支持するからである。またもう一つは、美的認知主義はゴートの二つの主張に収まらないものであるからだ。そして筆者によれば、後者はまた「私たちの芸術鑑賞は、心の認識的操作を必要とする認識経験の一形態である」という考えを含んでいる。筆者は同様に、関連した「芸術作品の理解と正しい観賞は、その美的性質を把握する能力を措定しており、またその理解と鑑賞は主に認識プロセスである」という考えも支持し、それゆえに筆者は「美的徳aesthetic virtue」の重要性を主張するのだとする。美的徳は、私たちが芸術を含む身の周りの世界の現実のreal特徴をとらえるために必要とされる、獲得された心性dispositionである。

 この章で筆者は美的認知主義に対して慎重である理由を述べたとする。しかしそれでも芸術は私たちに何かを教え得る、そして美的経験は認識的であるという直観は正しいのではないかと筆者は考える。そしてそのように美的認知主義を擁護する理由に、美的認知主義における、想像力の果たす役割の重視を挙げる。

 

2.

 筆者はまずゴートの想像力に関する議論を確認する。つまりゴートは

 

人は想像力から学ぶことが出来る。そしてそのことは、芸術が私たちが想像するのを導くことで、何かを教え得るという意味で特に重要である(p.19)

 

というように芸術・想像力・認識の関連を示す。しかしゴートはそのような考えに自己批判を加える。それは彼が「確認問題confirmation problem」と呼ぶもので、つまりもしフィクションが私たちの想像を導くことで何かを教えてくれるのなら、私たちはそれによって誤って導かれてmisleadいないかを確認できなければならない、というものだ。ゴートはこの反論に「私たちは物事の想像された状態に、情動的に反応することができる」(p.19)ので、その想像が正しいものであるかはある程度確認できるとする。筆者はそのような再反論が十分ではないのではないかと考え、そしてそこに「様相美学modal aesthetics」の必要性があるとする。それは「フィクションを通して可能になる様相的知識の種類の記述 an account of the kind of modal knowledge that is made possible through fictions」であり、Peter Van Inwagen(インワーゲン)が「様相認識論modal epistemology」と呼ぶものの分枝である。

 私たちが事実的factualであるとするものに縛られずに、フィクションのシナリオの鑑賞が引き起こすごっこ遊びの一種に私たちは参与することが出来る、ということがままあると筆者は述べる。そしてそのとき私たちは、私たちが可能であるとすることにすら、縛られないと考えられている。この意味で小説家や映画製作者たちは、人々が本当に信じていることに反するような想像上のシナリオを当の人々に信じさせている、と言えるのではないかと筆者は述べる。

 フィクションによって反事実的なことすら想像可能である一方で、筆者は「倫理的想像の抵抗moral imaginative resistance」と呼ばれるものに言及する。これはつまり倫理的に逸脱している世界を想像することの難しさである。筆者は殺人や強姦が善である世界を例に挙げる。「もし小説におけるキャラクターが殺人者でレイピストであるなら、どうやって私たちはそのことを考慮しそこなった彼のイメージを想像しform a picture得るだろうか」(p.20)と疑問を呈し、そして 私たちは彼が立派に振る舞っていると提示するシナリオを受け入れるのには抵抗するだろう、と筆者は述べる。

 しかし筆者は「倫理的想像の抵抗」に関しては深入りを避ける。あくまでこの論文の主旨は、ごっこ遊びは一般的に、可能性によっても「縛りがないunconstrained」という考えに関する議論だという。これは「倫理的想像の抵抗」論者にも受け入れられるだろうし、「任意の信念が可能であるわけではない」 ‘we cannot believe at will’(p.20)と考える哲学者たちも、「何かが可能であるのを想像すると決めることは可能だ」(pp.20-21)と考えるだろう、と筆者は述べる。しかしその上で筆者はそれは本当にそうだろうか、と疑問を呈する。

 私たちは小説や映画において、ストーリーの明らかなあり得なさimpossibilityに遭遇することがある、と筆者は述べる。このありえなさは現実世界に類似していないことや、現実世界で真でないこととは関係が無い。筆者は『ブレードランナー』を例に挙げ、そこで現実世界ではあり得ないほど人間によく似たロボットが登場するからといって、それがあり得ないとは言わないだろうと述べる。しかし一方で筆者が注目したいのは、逆にフィクションで提示される仕方では、物事が起こると想像できないことがあるということだ。それはフィクションのジャンルが何であるかとは関係が無い。つまりこの場合は(「道徳的想像の抵抗」に対して)「非道徳的想像の抵抗non-moral imaginative resistance」が存在するということになる。ただ注意したいのはそれがタイムトラベルやホビット、非凡な冒険をするセクシーな学者が存在することに向けてのものではないということだ。私たちはそれらを信じるbelieveことは出来ないが、簡単に「ごっこ遊びmake believe」することはできる。筆者はそのようなフィクションのキャラクターの振舞い方に向けた概念として、「様相的想像の抵抗modal imaginative resistance」を提示する。つまり私たちはある特定のキャラクターが振る舞うように、誰かが振る舞うのを想像できないということだ。筆者はゴートの言葉を再び引用する。

 

そのシーンを想像し、それが表現する命題を受け入れることもできる。しかし同時に私たちは人間の行為を含めた複雑な想像的投影という意味で、それを想像することが出来ないのだ。(p.21)

 

 私たちには、私たちが現実にそうであるのとは異なっているのを想像する力があり、そしてフィクションはそのような人間の可能性、つまり私たちがどのようにあり得るかを実験するものである、と筆者は述べる。しかしそれは常に成功するわけではなく、フィクションの提示する可能性に、私たちはしばしば抵抗するのだ。そのような「見込みのないnon-starters」フィクションは存在する。この意味で「私たちはごっこ遊びすると決める」と考える哲学者たちは、人間のそうする能力を過大に評価している。しばしば私たちは、フィクションで提示されるように物事が進行すると想像することが出来ず、ただごっこ遊びをすることが出来ないのだ。

 フィクションが私たちに何かを教えてくれるというのは、何が可能かそうでないか、何が真面目に考えるべき「別の可能性alternative」かそうでないか、を決める私たちの「心性disposition」を向上させることによってである、と筆者は述べる。だから何かを想像することが出来ない、というのは少なくともごっこ遊びの成功と同じくらい重要なのだ。それによって私たちは真剣に考慮すべき可能性と、認識論的に「馬鹿馬鹿しいstupid」もの、倫理的に「不快であるdisgusting」ものを区別する能力を身につけることが出来る。よって何かが何かしら特定の仕方では進行しないと考える、あるいは何かがそのようには進行してはいけないと考えるという、様相的想像の抵抗は、認識論的(前者)あるいは道徳的(後者)な重要性を持つのだ。後者においては、「作者が何かが特定の仕方で起こると提示するということは、道徳的に許容されるべきでないが起こり得る事柄を、作者が私たちに真剣に考えることを望んでいることを意味する」(p.22)という事実が、私たちに感銘を与え得るのだ。

 

 

3.

 

 この節で筆者は、何故フィクションが一種の「様相的想像の抵抗」の取得と発達において重要な役割を果たすのかを説明する。そのような抵抗によって私たちは、フィクションが可能性として提供するものを想像したり、あるいは拒絶したりするのだ。

 現実世界においては、私たちは確実な可能性の感覚を、自身を危険にさらすことによって獲得すると筆者は述べる。私たちは私たちが実際に選ぶこと以外が可能であると想像し、それが幻想であったとわかったり、あるいはそれが可能であったと後から気づいたりする。そして実際の選択を後悔したりするのだ。フィクションは私たちに、実際の人生で直面するような感情的な困難や倫理的苦痛、実存の危険無しに、可能性を想像させてくれる。私たちが現実で両立し得ない可能性に直面したり、選ばないといけないがどれがベストなのかがわからない、あるいはベストな選択肢があるのかすらわからないようなとき、フィクションは私たちの様相的心性modal dispositionを発達させる手助けをする試験管になってくれるというのだ。しかし一方でフィクションの様相内容も、同様の心性に支配されていると筆者は述べる。つまり現実と虚構の様相的心性は、一種の反省的均衡reflective equilibriumにあるのだ。現実に考えたことのなかった、あるいは考慮に値しないと考えていたことが可能であるとフィクションが私たちを説得するとき、私たちは可能性の感覚を修正する。一方でフィクションが私たちの最良の様相的直観に反するとき、私たちはそのフィクションに想像的に抵抗するのだ。ここで筆者は自身の例を挙げる。彼は子供のころラシーヌコルネイユを読むことで情熱的な恋愛が開かれた可能性(それはひどいものだが、無視は出来ない)であることを理解していた。また筆者はサドの小説の提示する可能性に抵抗し、それが実は本当の可能性ではなく、偽の可能性でしかない、真剣に考えるに値しない様相的な裏切りtreacheryであるとすら考えたのだ。

 そして筆者はフィクションにおける知識について以下のように述べる。

 

以上のことは、デイヴィッド・ルイスが言ったかもしれないようにフィクションが可能世界における実際の状況について教えてはくれる、ということはないことを暗示している。フィクションは私たちに可能性に関して、どの物事が可能か否かを決定するという意味では、教えてすらくれないのだ。しかしフィクションは私たちの様相的直観を向上させ、それらの直観に自信を持てるようにしてくれる。フィクションは私たちが様相的心性を身につけ、鍛えるのを手助けしてくれるのだ。(p.23)

 

つまりフィクションが何かを教えてくれるとは、様相的心性を向上させることによってだと筆者は主張するのだ。そしてこれは単に虚構的状況を鑑賞者が信じるだけでなく、「様相的想像の抵抗」によってそれを想像できないことによっても起こるのだ。以上を筆者は、フィクションは私たちの可能性(これは世界の様相的性質である)の理解に重要な役割を果たし得る、と述べてまとめる。

 以上の考えを、筆者は様相美学として位置づける。またグレゴリー・カリーの多くの論文は、実は様相美学に属するものだと筆者は述べる。

 次に筆者はインワーゲンによる「私たちの様相的判断の多くは、目による距離の判断と似ている」という考えを引用する。目測が日常生活ではある程度正確だが、他の場合にはあまり当てにならないように、前者も日常生活に限って有効なのだ。そしてインワーゲンは目測による距離判断が「非推論的non inferential」であるように、私たちの様相的判断もそうであるとする。そのような判断である様相的判断は、身の回りの世界において、何が可能か、不可能か、あるいは必然なのかについて判断を下すことが出来、また日常生活でそのような知識は不可欠であるとする。

 しかしもちろんそのような様相的判断は、間違うことがある。そして同様に、人によって異なることもある、と筆者は述べる。例えばある人は机を2フィート右にずらすと良くなる可能性があるとするが、もう一人はむしろ左にずらした方が良い可能性があると言うもしれない。そうすると前者は後者に、それは「ありえないimpossible」と言うだろう。このとき二人は、異なる様相的直観を持っていると言える。以上の例は「私が存在し、物質的なものは何も存在しない可能性がある」というような哲学的な言明とは大きく異なる、と筆者は述べる。この場合、筆者はそのような命題に一致するような様相的直観を持っていないと告白する。このような可能性は「論理的可能性」であって、学生は上の命題を、哲学の授業のコンテクストに載せて真面目に取るのかもしれない。しかし筆者はインワーゲンの「~が可能である(不可能である、偶然である、必然である)」という命題の真偽をどのように知ればいいのか?という疑問に同意する。私たちは日常生活における様相命題を知っており(「壁と隣の車の間の空間に車を停めるのか可能か?」)、また科学における仮説的推論、哲学においても思考実験という形での仮説的推論を使用(場合によっては濫用)している。しかし私たちは日常生活を超越した場合において自分たちの様相知識modal knowledgeを過信しており、さらに言えばより経験的な思考(特に生活の情緒的側面)においては、様相的直観の誤りやすさは明らかである。それらの事柄に関しては、私たちは何が未来に起こるかを想像する能力に関して懐疑的にならなければならない、と作者は言うのだ。また私たちが自分の人生に関して、別の可能性を想像する場合を筆者は挙げる。しかしそれが可能であるかを確かめるのは難しいし、またそれが意味を為すのかも定かではない、と筆者は言う。これは仮説を実験で確かめられる経験科学とは異なるだろう。そして哲学においても、様相的直観は確認したり、コントロールするのは難しいようだ。私たちはしばしば、真剣に考慮すべき可能性と馬鹿げた可能性の区別に自信過剰であり、全ての哲学的説明が曖昧な可能性の上に存在し得る、と筆者は言うのだ。そしてこのことを隠すため、哲学者たちはしばしば「何かが論理的に不可能事でないなら、それは論理的に可能だ」と言うと筆者は述べるが、それにはまたインワーゲンの「特定の事柄が特定の方法で不可能であると証明できないからといって、それは、どんな『可能性』(のようなもの)の意味においても、可能であるとは、ほとんど言えない」(p.25)という言葉で反論する。以上を筆者は、日常生活を離れた領域において、科学的な証明の手段を用いることが出来ないならば、私たちの様相的直観はますます当てにならないのだ、と総括する。

 筆者は「私たちは概して自分たちの様相的知識を過大に見積もる」と繰り返す。例えば反事実条件法において、私たちは以下のように考えがちである。「もし私が僧院の僧であったならば、とんでもない量の本を書き、祈りと瞑想の生活を送る時間があったろうに」「もし私がギャングだったら、金持ちですべての女性が私を愛しただろうに」。もちろんこれらは幻想である。「論理学的に可能な事柄a logical possibility」になるためには、まず初めに、そして単純に「可能な事柄a possibility」でなければならない、と筆者は述べる。そこから離れない限り私たちは様相的に誤ることはない。しかしそれこそが、多くの場合哲学において「様相懐疑論者modal sceptic」であるのが妥当に見える理由なのだ。筆者はデカルトを引き合いに出し、もしデカルトが真剣に懐疑的であったならば、彼は肉体としての存在を疑うのではなく、「私が存在し、物質的なものは何も存在しないことが可能だ」というような命題を理解する彼の能力の方を疑っていただろうと述べる。

 以上のように私たちは日常生活においては比較的控えめな、経験科学では検証可能な、哲学においては思い上がって危険な、様相的直観を持つ、と筆者は考える。しかし筆者は私たちが様相的直観を身につけ、磨き、そして享受する場所としてフィクションが存在するのだと言う。小説を読んだり映画を観ることで、私たちは自らの様相的心性を磨くのだ。それによって私たちの様相的直観が無謬になるわけではない。しかしそれにより私たちはある物事が可能であるか否かを判断する能力を持て、そしてその判断は何らかのフィクションに接する前とは異なるものになるのだ、と筆者は述べる。同様に私たちは、特定の小説や映画が偽の可能性を提示したときに、それはそのようにはならないだろうという観点から、それを取り下げる能力を得ることが出来る。これらのことは所謂「リアリズム」とは関係が無いと筆者は考える。完全に非現実的な物語も、私たちに真の可能性を提示し得るし、現実的な物語が空虚な可能性を提示することもあるのだ。

 筆者は様相美学の展望を以下のように記す。

 

様相美学は、フィクションが私たちにいくつかの可能なことを教えてくれるだけでなく、私たちの様相的心性を鍛え、推定的に可能であると提示されるものに騙されにくくしてくれる仕方の研究になるだろう。(p.26)

 

最後に筆者は聖書を引用し、悪魔がキリストに「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これ(世界)をみんな与えよう」と言い、それに対してキリストが「退け、サタン」と言う部分を取り出す。ある意味でこれは、キリストが悪魔によって示された可能性に、真剣に受け取らないことによって抵抗していると言える。「退け、サタン」を筆者は「私は様相的・想像的に抵抗するI modally imaginatively resist」と読み替えるのだ。小説家や映画製作者はある意味悪魔の役割を果たし、その場合の正しい作品の使い方とは、それの提示する可能性に、様相的想像的に抵抗することである。その場合であっても、作品はそれを受け入れたり拒絶したりする私たちの様相的心性を鍛えるという意味で有用であり得るのだ。