Rafe McGregor「詩の厚み」(2014)レジュメ

Rafe McGregor, Poetic Thickness, The British Journal of Aesthetics, Volume 54, Issue 1, January 2014, Pages 49–64, https://doi.org/10.1093/aesthj/ayt048

詩が詩である根拠は、その形式と内容が分離不可能であるような慣習に基づいているという主張、それに対する反論への再反論が述べられています。

本文

アブストラクト(訳)

「この論文の目的は、詩の詩としての経験が、詩の厚みの経験であるということを示すことである。そのような経験とは、そこにおいて詩の形式と内容が分離不可能であるようなものである。第1節で私はA. C. Bradleyの「詩のための詩(Poetry for Poetry’s Sake)」講義を批判的に分析し、彼の「共鳴する意味(reasonant meaning)」概念の長所と短所の両方を示す。第2節ではそれに続くI. A. Richards とPeter Lamarqueの著作を利用し、問題となっている関係、つまりそこにおいて発見される性質というよりは、詩について為される要求として理解される詩の厚みの私の説明を推し進める。第3-6節では、私はPeter Kivyによる形式-内容の統一性に対する四つの反対意見を議論する。つまりそれはまったくの循環(perfect circularity)、遍在する統一性(ubiquitous unity)、糖衣錠剤の伝統(the sugar-coated pill tradtion)、伝統からの擁護(the defence from tradition)である。私はそれらの反対意見がすべて詩の厚みに対して失敗することを示す。私は詩の詩としての経験は、厚みの経験であり、そして詩の厚みは詩の必要条件であると結論付ける」

1.共鳴する意味 Resonant Meaning

  • Bradley’s inaugural address at Oxford… (p. 49)
    ブラッドリーは講義において、詩それ自体の内在的価値を「内容と形式の統一性(unity)」に帰属した。

    • ブラッドリーはオックスフォード大の就任講義で詩の自律性(autonomy)、つまり詩が(道具的instrumentalではない)自己目的的な価値を持つと聴き手に納得させようとした

      • その後に以下の三つの主張を却下した
        • ⅰ自律性は唯美主義へのコミットである
        • ⅱ自律性は詩と人生を切り離し、かつ
        • ⅲ自律性は形式主義へのコミットである
      • ブラッドリーの講義全体の主旨は自律性と形式主義を区別する(つまりⅲの否定)ことだった:後者においては形式のみが詩の価値であり、内容は関係が無いが、それは正しくない
        • どうやって議論?:二つの異説(heresies)、つまり詩の価値が〈形式のみある〉&〈内容のみにある〉を論駁することで、内容と形式の統一性に詩的価値を帰属する
          • 以下でこの議論を紹介する
  • Bradley is unclear about the… (p.50)
    しかし講義におけるブラッドリーの内容と形式に関する議論は十分でなく、後に内容と形式の「同一性(identity)」という強すぎる主張と解釈されたり、またその曖昧さを批判されている。

    • ブラッドリーが詩における内容と形式の関係を、具体的にはどのようなものと考えていたのかは明らかではない
      • 詩の体験において両者を「一体one」であるとするも、分析や批評においてはそうでないと述べる

      • 後の論者はこれを批判。Kivyはこれを「同一性identity」と見なして論難し、Rechardsは「神秘さと曖昧さにつながる」と批判した

  • Lamarque reads Bradley more charitably… (p.50)
    ラマルクはブラッドリーの主張を解釈し、内容と形式の相互依存性と再定式化した。筆者はこれを「分離不可能性(inseparability)」として受け入れる。ここにおいて内容とは詩の意味であり、形式とはその提示の様態で、両者はどちらかを変化させること無しに切り離すことができない。そのようなものとして筆者はブラッドリーの主張を擁護する。

    • ラマルクはより寛容に、ブラッドリーの主張を「一方無しでは(もう一方を)規定することも特定することもできない」という「相互依存的mutually dependent」関係と解釈し、それをさらに筆者は「分離不可能性inseparability」として読み替える。
      • つまり形式(あるいは内容)が分離されてしまったら、もはやその作品の形式(あるいは内容)ではないという主張。
    • この同一性(identity)でも区別不可能性(indistinguishability)でもない関係は、Katherine Thomson-Jonesの主張と整合的である
      • 彼女は内容と形式の統一性を三つに分類:容器的(container)・機能的(functional)・意味的(semantic)
        • 容器的:作品における「組織化するorganizing」要素と「組織化されるorganized」要素の関係

        • 機能的:形式を機能の面から規定

        • 意味的:内容を作品の「意味meaning」「何についてのものかwhat it is about」、形式を「提示・表現の様態mode of presentation or expression」とする

          • ブラッドリーの主張は三つ目の意味的統一性である

           

  • One of Bradley’s most important premises is… (p.51)
    ブラッドリーの議論に戻る。彼によれば、一般的に詩の内容とされる「主題(subject)」(『失楽園』であれば「人間の堕落」)に詩の価値は存しない。なぜなら主題とは詩に内在的ではなく、その外部に存在し、他の様々な仕方(絵画、彫刻、物語など)で表現可能なものだからである。

    • ブラッドリーの議論の大前提:詩とは、「読者による詩の経験」である
    • ブラッドリーの議論はまず「主題subject」概念を明確化することから始まる
      • 主題とは「それ(詩)がそれについてのものであるようなものwhat it is about」

        • 例えばミルトンの『失楽園』の主題は「人間の堕落the fall of man」である
      • そして「主題」の対概念は(形式formではなく)「詩そのものthe poem itself」である

        • なぜなら同じ主題を絵画や彫刻、物語が扱うからである

      • そして主題は詩の外部にあるのだから、詩の価値は主題ではなく、反対の詩それ自体に存するというのがブラッドリーの議論

  • The second antithesis is form versus content… (p.51)
    ブラッドリーの議論において詩の内在的な価値は形式と内容、つまり韻律と言葉の意味のどちらかに帰属させることはできず、その分離不可能な結合としての「共鳴する意味」に帰属させられる。

    • ブラッドリーの議論におけるもう一つの対照(antithesis)は「内容content」と「形式form」である

      • こちらは(主題と違い)両方とも詩に内在的な概念である

        • というのもラマルクによれば内容とは「詩の中で実現された通りの主題the-subject-as-realised-in-the-poem」であり、形式とは「詩の中の主題の実現の様態the-mode-of-realisation-of-the-subject-in-the-poem」であるため
        • ここでの内容を登場人物や出来事とすると、内容は他の作品と類似しても同一ではない(『失楽園』の悪魔とモルモン書の悪魔は同一ではない)

         

    • 主題と内容を混同した上で、この形式-主題の対照を採用した場合問題が生じる

      • つまり形式=「詩において実現された主題の実現の様態the-mode-of-realization-of-the-subject-as-realized-in-the-poem」、内容=「詩の中の主題the-subject-in-the-poem」であるため、両者は詩の外部に依存する

      • そのような対照を前提すると、先に述べた二つの異説(詩の価値が形式のみにあるか、内容のみにあるとする立場)は成立しえない。

    • ブラッドリーにおける形式と内容の分離不可能性は、音soundと意味meaningの分離不可能性に読み替えられる

      • 詩の経験において、言葉の音と意味を分離して鑑賞することはできない
        • これは人の笑顔を構成する顔の線lineを、それが表現する感じfeelingと切り離せないのと同じ
        • 後から心の中において批評的に分離することはできるが、それは詩(の経験)それ自体の中にある区別ではない
      • 以上からブラッドリーは、詩の価値を論じるのに、詩の(経験)の外部のものに頼ることは誤りであり、ゆえに内容-形式の対照とそれらに価値を帰属することは誤りであるとする
      • 詩の経験の価値は、(分離不可能な)意味と音の経験であり、「共鳴する意味(reasonant meaning)」の経験である
        • そしてその中にこそ詩の価値が存する。

2.詩の厚み Poetic Thickness

  • Resonant meaning lies at the core of… (p.52)
    ブラッドリーにおける「共鳴する意味」を、リチャーズは単に詩における語の音としての「固有の韻律」と対比して、言葉の意味と結びついた「帰属された韻律」として再定式化する。

    • 「共鳴する意味」についてブラッドリー自身は詳しく解説しなかった
      • Rechardsによる分析:詩の形式的特徴、つまり韻律は、詩の内容の感覚senseや表現expressionから切り離すことはできない

        • なぜなら詩に帰属される韻律は、詩の中の言葉の理解apprehensionの関数functionであるため
        • 言葉の音、つまり言葉に「固有の韻律inherent rhythm」は、感覚senseと感じfeelingと合わさって、詩の経験である「帰属された韻律ascribed rhythm」の経験を生み出す。
  • Richards demonstrates this by… (p.53)
    リチャーズは、ミルトンの『失楽園』と、それと形式的な韻律は同じだが意味が異なる韻文を比較することで、前者における帰属された韻律を例示する。

    • Rechardsは以上のことを、音は同じだが意味が異なる二つの韻文を比較して論じる

    • これらにおいて音は同じだが、言葉の意味が異なることによって韻律が異なる

      • J. Drootan-Sussting Benn Mill-down Leduren N. Telamba-taras oderwainto wearing Awersey zet bidreen Ownd istellester sween Lithabian tweet ablissood owdswown stiering Apleven aswetsen sestinal Yintomen I adaits afurf I galas Ball
      • Yea Truth, and Justice then Will down return to men, Th’ enameld Arras of the Rainbow wearing, And Mercy set between, Thron’d in Celestiall sheen, With radiant feet the tissued clouds down stearing, And Heav’n as at som festivall, Will open wide the Gates of her high Palace Hall
    • 以上の例で明らかなように、固有の韻律(形式)は、言葉の意味(内容)と合わさって、帰属された韻律(形式と内容の分離不可能性)を生み出す。

      • もし形式が分離可能であるなら上の両者は同じ詩的価値を持つ(がそうではない)し、内容が分離可能なら詩の言い換えがオリジナルと同じ価値を持ってしまう
  • Further evidence for Richards’… (p.53)
    またリチャーズはハイデガーによる「私たちは音と意味を切り離して聞くことはほとんど無い」という議論によって、帰属された韻律の傍証とする。

    • Rechardsはさらにハイデガーの以下のような議論を、帰属された韻律の主張のために引用する
      • 「私たちが「最初に」聞くのは、ノイズや音の複合体ではなくて、ギシギシいう馬車や、バイクなのだ。私たちは行進の隊列、北風、キツツキのつつき、炎が弾けるのを聞く。「純粋なノイズ」を「聞く」には、非常に人工的で複雑な心の枠組みが必要となるのだ」(ibid)
    • つまり私たちが普通聴くのは「何かの音sound-of」であって、「ノイズnoise」ではない
      • まれに音の出元がわからずに音だけを聞き、後で出元を特定することもある(騒音を聞き、後からジェット機の音(sound-of-jet)だとわかるように)
      • 実際の音が変わっていなくても、ノイズを何かの音だと特定することは、音の経験を変えるのであり、それは詩においても同じである
        • 固有の音とある意味を持った言葉が結びつくことで、帰属された韻律という詩の経験になる
  • Richards holds that the relation… (p.54)
    リチャーズは意味(内容)と韻律(形式)の相互依存関係の例として、イェーツの詩を挙げる。そこでは意味内容(脚というテーマ)と韻律(五歩脚)が重なっている。また韻律が意味の理解に資するという現代の神経科学における研究が引かれる。

    • Rechardsは韻律と意味の関係が相互的reciprocalと考え、筆者はAngela Leightonのイェーツの詩の分析を韻律が意味に影響を与える例として引用する。
      • イェーツが長いときは3時間にわたって音の連なりをもごもご言って(murmur)いたという研究を紹介。つまりイェーツは韻律から始め、それに合う言葉を探していた。
        • ここにおいて五歩脚iambic feet(一行に5回現れるシラブルの強弱)が彼にとって重要であった
      • またLeightonはイェーツにおいて人間や動物の脚feetが頻繁に描かれることを指摘し、韻律(五歩脚)がそれらと結びつき、韻律が一種の内容として与えられていると述べる
    • 以上のLeightonを引用したRechardsの(構造詩学的)研究は批判されているが、現代の神経科学などは韻律が詩における言葉の連想的associative意味を強化し、人間を含む動物の活動における韻律(リズム)の重要性を指摘している
      • Anna Christina Ribeiroの哲学的研究によれば、形式的な道具deviceは、同じような響きを持つ言葉を一定のパターンで並べることによって、それらの言葉の対照や比較を導き、理解を向上させる。
      • 筆者はどのように韻律と意味が相互作用するのかを明らかにすることはしないが、それでもそのような相互作用が存在することは明らかであると述べる。
  • Bradley maintains that the… (p.55)
    ブラッドリーによれば良い詩において、意味内容と韻律形式が相互に影響を与え、言い換え不可能である。

    • ブラッドリーは形式と内容の分離不可能性が、詩の批評(特に価値づけという意味での)において重要であると述べる。

      • つまり形式と内容が分離不可能であるような詩は、「素晴らしいgreat」作品であり、そうでなければ「単に良いgoodか、平凡かmediocre、悪いbad」。
        • シェイクスピアの作品の中にすら、「良いgood」に過ぎない、形式と内容が分離した作品が存在するという
    • またブラッドリーは「素晴らしい」詩の特徴として「言い換え不可能性」を挙げる

      • 詩の「純粋さpurity」は、その言い換え不可能性に比例する
    • ブラッドリーは分離不可能性を「良い」詩だけに限定し、平凡であったり悪い詩には認めない

      • 詩の価値の判断には「言葉の感覚や感じ」と「その中においてその感覚と感じの全体が生まれるちょうどその順序」の両方が必要である

      • 「良い」詩における言葉から言葉への展開の構造は、歩格metreと考え得る限り最も緊密な関係を持ちながら、テンポを与えるだけでなく、時にはそれをゆがめすらする

        • このように良い詩においては、「帰属された韻律」が存在し、それは結果として形式と内容の分離不可能性を生む
  • Lamarque offers insight into… (p.56)
    ラマルクはブラッドリーの議論を発展させ、内容と形式の分離不可能性を、テクストの客観的性質ではなく、慣習によって作品に課される要求とする。以上の議論から筆者は「詩の厚さ」を定式化する。 「詩の厚み:詩作品の経験における詩の形式と詩の内容の分離不可能性であり、そこにおいて形式も内容も作品の同一性を損なうこと無しに分けることができない。詩の厚みはテクストの性質ではなく作品によって充足される要求であり、[詩の厚みは]もし作品が詩作品であれば、その作品が詩の厚みの要求に報いるようになるような詩の特徴である」

    • Lamarqueは以上のような分離不可能性を、詩が詩であるための基準、それも作品に見出されるものではなく、「詩を読む慣習the practice of reading poetry」が作品に「負わせる impose」ものであるとする
      • つまりLamarqueによれば、分離不可能性は作品の客観的な性質ではなく、作品に向けられる特定の種類の注意によって浮かび上がる「帰属させられた特徴 imputed feature」である
    • Lamarqueはノースロップ・フライによるW.ブレイク(難解さで有名)の研究を参照し、(内容と形式の)「統一性unity」とは、作品に関する事実ではなく、たとえ混沌としているような作品に対しても、読者が詩を読解する際に最初に持つべき仮説(hypothesis)であるとする
    • 以上のように分離不可能性を作品において発見される事実ではなく、読者によって課される要求(demand)としたとしても、すべての作品がその要求を満たすということではない
      • それらの要求に報いる作品は「典型的quintessencial」「純粋pure」「良いgood」、あるいは単に「詩poetry」である
        • ただしこの場合「詩」は記述的descriptiveではなく、評価的evaluativeに使われている
        • 筆者は「詩」という言葉を評価的に用い、分離不可能性をそのような詩の必要条件であると見なす
          • もし記述的な意味で詩という言葉を使うなら、分離不可能性は範例的な詩の下位分類の必要条件になるだろう
    • 以上の議論で重要な点は二つである
      • 1.ブラッドリーが「共鳴する意味」を詩の必要条件と見なしたこと
      • 2.ラマルクがそのような分離不可能性という詩の基準を、作品における発見ではなく、作品に課す要求としたこと
    • 以上を踏まえて以下のように筆者は主張を定式化する。
      • 「詩の厚み:詩作品の経験における詩の形式と詩の内容の分離不可能性であり、そこにおいて形式も内容も作品の同一性を損なうこと無しに分けることができない。詩の厚みはテクストの性質ではなく作品によって充足される要求であり、[詩の厚みは]もし作品が詩作品であれば、その作品が詩の厚みの要求に報いるようになるような詩の特徴である」 (p. 56)

3.まったくの循環 Perfect Circularity

  • Kivy has mounted the most… (p.57)
    キヴィは形式と内容の分離不可能性、特にブラッドリーの主張に対して、詩概念と分離不可能性概念の循環を指摘した。
    • キヴィはブラッドリーを批判する
      • 形式と内容の分離不可能性の主張は、詩だけではなくすべての芸術に適用されることを意図している。しかし文学と視覚芸術においては両者は分離可能であり、また音楽(特に絶対音楽)に関しては「内容」を持たないため間違っている。
      • 筆者が取り上げる詩の分離不可能性に対する批判:ブラッドリーは単に詩を分離不可能性によって定義(define)しているだけであって分離不可能性の証拠を示してはいないのであり、それによって詩の分離不可能性を論じるのは循環である
  • Kivy observes, with accuracy, that… (p.57)
    筆者のキヴィへの反論:キヴィの批判は正当であるものの、詩の定義に触れなければ問題は無い。むしろブラッドリーの主張の問題は主張を具体化していないことであり、筆者は2節でその欠点を十分に補った。
    • キヴィによるブラッドリーの議論の整理
      • ブラッドリーは、適切な詩の経験を、詩の内容と形式が融合した(fused)ものとして経験することだと言う。しかしなぜそれが詩を経験する唯一の適切な仕方だと言えるのか?ブラッドリーはその理由を内容と形式の同一性のテーゼ(=内容と形式の分離不可能性の経験が詩の適切な経験である)が正しいからと答える。しかしこの主張は循環している。
      • キヴィはブラッドリーの主張を以下のように分析する
        • (P1)詩とは詩の経験である
        • (P2)詩の適切な経験とは、内容と形式の分離不可能性の経験である
        • (C1)よって詩において内容と形式は分離不可能である
      • 以上の主張は詩の定義に変形できてしまう
        • (P1’)詩とは詩の経験である
        • (P2’)形式と内容は詩の適切な経験において分離不可能である
        • (C1’)よって詩とは内容と形式の分離不可能性の経験である
    • しかし以上の詩の必要十分条件としての分離不可能性を無視すれば、以下のような主張をブラッドリーの講義から引き出せる
      • (P1)詩の経験とは内容と形式の分離不可能性、つまり共鳴する意味の経験である
      • (P2)詩の内容あるいは形式の分離(isolation)は、その詩の共鳴する意味を変えてしまう
      • (C1)よって内容と形式は詩において分離不可能である
      • 以上の主張の問題点は、循環しているというよりそれが十分に具体化されていないこと。
        • P1は笑顔の喩えで説明されたが、P2に関しては具体的に説明されていない
        • そしてそれは筆者が第2節でリチャーズの「帰属された韻律」や詩の分析、ハイデガーの「何かの音」と「ノイズ」の関係などでやったことであり、そのような筆者の主張はキヴィの反論

4.遍在する統一性 Ubiquitous Unity

  • Following from the perfect circularity criticism… (p.58)
    キヴィはブラッドリーの分離不可能性の主張は正しくなく、自分の穏健な主張が正しいと主張する。しかしキヴィの穏健な主張は結局のところ詩だけでなく非詩的な言語表現にも当てはまるのであり、遍在してしまうことになると言う。
    • キヴィはブラッドリーによる内容と形式の統一性の主張が、詩の経験を捉え損なっていると考え、自分のより穏健な主張を推す
      • キヴィの主張:詩の鑑賞において、内容と形式という二つの注意の対象があるのではなく、「メディアとメッセージmedium-and-message」という一つの対象があるだけであることがある しかし一方で、私たちの注意は、二つの間をせわしなく行ったり来たりしたり、一方に集中したりすることがある
    • しかしそのようなキヴィの主張は詩以外の言語表現(新聞や教科書)にも当てはまってしまうのであり、キヴィもそれを進んで認める
      • キヴィはむしろ、メディアとメッセージが両方とも注意を要求する詩ではなく、メディアが透明になる(注意を要求しなくなる)非文学的・非詩的な事例においての方が、内容と形式の融合の「より良い主張better argument」が可能であると考える
      • つまりキヴィによれば、内容と形式の分離不可能性は言語的な表現に遍在するubiquitousものであり、よって詩における内容と形式の分離不可能性の主張は無価値noughtである
    • しかしブラッドリーはキヴィの穏健な主張をそもそも認めないため、ブラッドリーへの本質的な異論は、彼の強い主張すら言語表現全般に遍在することをキヴィの「内容と形式の完全な融合」の観点から示す必要がある
      • ブラッドリーは講義において以下のⅰをⅱに言い換えている
        • (i) ‘To be or not to be, that is the question’.
        • (ii) ‘What is just now occupying my attention is the comparative disadvantages of continuing to live or putting an end to myself’.
      • ⅰにおいて私たちは内容だけではなく形式に注意を向け、ハムレットの言ったこととそれをどのように述べたかの組み合わせcombinationによって快を得る
      • ⅱではハムレットが自殺について考えているという内容のみに注意が向く
      • キヴィの述べる形式の透明性はⅱに当てはまり、そこでは確かに(内容と形式の)「完全な融合perfect fusion」が現れている
  • I have two objections to Kivy’s… (p.59)
    筆者はキヴィによる絶対音楽の例(内容を持たないために分離不可能性の反例となる)と新聞や教科書(形式を持たないために分離不可能性の範例となる)の使い方が矛盾していると指摘する。
    • 筆者のキヴィに対する批判
      • キヴィは先ほど述べたように、絶対音楽は内容を持たないために内容と形式の統一性を持てないと述べる。一方でキヴィは新聞や教科書は形式が透明であり注意を要求しない[形式を持たない]ことで、内容と形式の融合の範例になっていると述べる。
      • 絶対音楽が内容を持たないことで内容と形式の統一性の反例となるならば、新聞や教科書もまた形式を持たないことで反例となるのではないか?キヴィの二つの例の使い方は矛盾している
        • 整合的な議論のためには、両者を内容と形式の融合の範例とするか反例とするかのどちらかでなければならない。
  • The claim that a newspaper or… (p.60)
    キヴィにおける非文学的言語表現における内容と形式の融合は、実のところそれらが「薄いメディア」であること、つまり内容と結合すべきそれに対する注目に報いるような形式を持たないことを意味する。そこでは内容と形式の統一は成り立っていないので、キヴィによる統一性が遍在するという主張は誤り。
    • キヴィの、新聞や教科書において内容と形式の融合が達成されているという主張はかなり問題含みである
      • 「融合」「統一性」が何を意味するかというと、それに対する注意に報いないような形式を持つということ
      • つまりキヴィにおいては「薄いthin」メディア(形式)は「非文学的」で「透明」であり、「厚いthick」メディアは「文学的」で「不透明opaque」である
    • キヴィの言う「薄いメディア」とは形式が注意を向けられず、内容と結合すべき形式が無いこと。一方で(詩などにおける)「厚いメディア」においては、注意を向けられる形式と注意を向けられる内容の結合である
      • よってキヴィの内容と形式の統一性が、どの言語表現においても当てはまってしまうという主張は不当である

5.糖衣錠剤の伝統 The Sugar-Coated Pill Tradtion

  • One of Kivy’s objections to the ineffability… (p.60)
    キヴィはルクレティウスの詩が、彼の哲学的・科学的主張を伝えるものであり、その内容はその詩的形式から切り離し得るものであったことを指摘し、ブラッドリーの主張への反例とする。
    • ブラッドリーの分離不可能性への批判のために、キヴィはルクレティウスの『事物の本性についてDe rerum natura』とパルメニデスの『Way of Truth』における反例を引く。
      • まずルクレティウスにおいて詩は、「内容」(=彼の哲学的・科学的主張)を伝達するためのものだった。またルクレティウスは部分的にその内容を非詩的な形で表現しすらしていた。
        • ここで詩の内容はその形式と切り離すことができ、それによって内容の同一性は失われない
        • これをルクレティウスはニガヨモギをはちみつで甘くして子どもに与えることにたとえ、キヴィはそれを「糖衣錠剤理論sugar-coated pill theory」と呼んだ。
    • ルクレティウスの例はⅰ詩でありかつⅱ内容がその同一性を失うことなく形式から切り離し得る、という点でブラッドリーの分離不可能性の主張の反例となっている。
  • Lamarque’s response to Kivy’s counterexamples… (p.61)
    ラマルクはルクレティウスのテクストにおいて内容が切り離されるならば、それはテクストを詩として読んでいないことになると指摘し、キヴィの主張を退ける。
    • ラマルクはルクレティウスの例が反例にならないと指摘する。
      • 『事物の本性について』が内容と形式の統一性の範例とならない理由は、単純に私たちのその詩への関心が特徴的に、詩としての関心ではないからだ。韻律は、ルクレティウス自身が認めるように、その作品への関心には無関係なのだ。もし私たちがその作品を詩として読むのであれば、結局私たちは内容と形式の分離不可能性を想定し、ブラッドリーが呼ぶところの「詩的経験」を探し求めるだろう。そのとき、もちろん言い換えたり書き直したりされる主題——快楽主義――が私たちに関係するのではない。〈ルクレティウスに考えられたものとしての主題the subject-as-conceived-by-Lucretius〉すらそうではなく、関係するのは〈詩において実現されたものとしての主題 the-subject-as-realised-in-the-poem〉であり、それは固有の「実現の様態」に存するものなのだ。(p.61)*
      • もしテクストが韻文で書かれていても、Nigel Fabbが述べるようにそれはテクストを詩として読むことの誘いinvitationにはならない。
        • Fabbは韻文は単にテクストの行の区分devision of text into linesでしかなく、それが詩であることに必然的な関係は無いとする。
      • またルクレティウスの意図に照らせば、もし『事物』を詩として読んだならば、それを哲学書として読むよりも、実りが無いless rewardingものになるだろう。

6.伝統からの擁護 The Defence from Tradition

  • Kivy has a second point which is… (p.62)
    キヴィによればラマルクは、詩の内容と形式の分離不可能性の主張を擁護するのに際して、伝統を持ち出している。その伝統による擁護とは「そこに連続した伝統unbroken traditionが存在することに完全に依拠した」ものである。

    • キヴィによればラマルクはブラッドリーを擁護するのに際して、伝統に頼っている

      • ラマルク:私は内容と形式の分離不可能性によって詩を定義し、それに当てはまらないものを恣意的に詩から除外しているのだろうか?いや、詩が思索thoughtと言葉遣いdictionの内的な関係(つまり分離不可能性)で成り立つというのは、古の伝統なのだ。
    • キヴィによれば伝統からの擁護には三つの種類がある

      • ⅰセダー(ユダヤ教の儀式)で苦い薬草を供する伝統
      • ⅱイギリスで道路の左側を運転する伝統
      • ⅲ神の魂を鎮めるために特定の期日に海に蓮の花を撒くポリネシアの伝統
    • ラマルクの主張はⅰには当てはまらない:ⅰは伝統が説明(苦い薬草はユダヤ人のエジプトにおける受難を思い出させる)を含んでいるのに対して、ラマルクの主張では伝統を説明として用いている。

      • ⅱにも当てはまらない:ⅱの伝統は恣意的なものである

      • よってラマルクの主張はⅲと同種のものでなければならない:「そこに連続したunbroken伝統が存在することに完全に依拠した」擁護。

  • Kivy believes that the historical… (p. 62)
    キヴィはそのような「連続した伝統」は存在しないと主張し、例えばプラトンの議論において、詩の内容と形式が分離したものと扱われていることを指摘する。

    • キヴィはそのような「連続した伝統」に対する反例を様々な詩や主張に見出すが、筆者はその中でもプラトンのものを取り上げる
      • プラトンによれば(悲劇の)詩は①道徳的②認識論的に誤っている
        • ①詩の魅力的な形式は、その非道徳的な内容を隠蔽する
        • ②詩の説得的な形式は、その内容がまるでその道のエキスパートによって語られているかのように勘違いさせる
      • このプラトンの主張は、詩における内容と形式の分離を前提にしており、「連続した伝統」の反例である。
      • このプラトンの主張は「糖衣錠剤の伝統」と整合的である。ただしプラトンの場合「中の薬(=意味内容)」は治療薬ではなく毒なのだが。
  • Kivy claims that the type of tradition… (p.63)
    キヴィはポリネシア人の伝統と同様に、ラマルクの詩の伝統は連続性を必要とする(しかしそのような連続的な伝統は存在しないので、ラマルクの分離不可能性の主張は誤り)と主張する。しかし筆者は連続性があっても無くても、伝統が実践を説明するのであれば問題ないと反論する。

    • キヴィは、ラマルクの詩の分離不可能性の主張が依拠する伝統は、ポリネシアの伝統のように連続性continuityを必要とすると主張する。
      • キヴィのポリネシア人の伝統と詩の伝統の類比は以下のように整理できる。
        • (ⅰ) (Q1)なぜポリネシア人は海に蓮の花を撒くのか? (A1)その実践practiceが伝統だから。 (Q2)なぜ彼らは代わりにリンゴの花を使えないのか? (A2)なぜならそれは異なる実践であり、新しい伝統を始めてしまうから。
        • (ⅱ) (Q1’)なぜ私たちは詩における内容と形式の統一を要求するのか? (A1’)その実践が伝統だから。 (Q2’)なぜ私たちは詩を糖衣錠剤として読むことができないのか? (A2’)なぜならそれは異なる実践であり、新しい伝統を始めてしまうから。
    • しかし筆者は上の類比の両方において「連続した伝統」の必要を認めない。
      • もしパゴパゴにおけるポリネシア人たちが蓮の花を使い続ける一方で、オークランドポリネシア人たちがリンゴの花を使い始めたとき、それは〈オークランドで伝統が発展evolveした〉とも言えるし、〈伝統が新しい伝統に取って代わられたrepalced〉とも言える。
        • このどちらの言い方を選ぶかは重要ではない。
      • そしてもしオークランドポリネシア人たちが再び蓮の花を使い始めたとき、それは〈再び伝統が発展した〉とも言えるし〈かつての伝統に戻った〉とも言える。
        • ⅰの対話はパゴパゴでもオークランドでも通用する;いずれの場合でも、伝統は中断したり新しくなっているかもしれないが、伝統が実践を説明しているから
  • The tradition defence is invoked by Lamarque… (p.63)
    結局のところ重要なのはなぜ「統一性を求めるべきなのか」ということであり、それは「その実践に価値があるから」と答えることができる。しかしそのような価値は伝統に直接依拠するのではなく、その伝統が価値の「しるし」となるだけであるから、その長さや連続性に訴える必要はないのだ。

    • しかしラマルクの伝統への依拠は結局のところ、詩の定義の恣意性の批判を逃れるためなのだから、以下の疑問の方がより重要である。

      • (i)なぜポリネシア人たちは海に蓮の花を撒くべきなのか? Why should Polynesians scatter lotus blossoms in the ocean? (ii) なぜ私たちは詩に内容と形式の統一性を求めるべきなのか? Why should we demand form-content unity of poetry?
    • ラマルクのⅱへの解答は二つの部分を持つ

      • 明示的解答:その実践は、アリストテレスにまで遡る古からの血脈を持つから
      • 暗示的解答:その実践には価値がある――価値があったし、価値があり続けるから
    • 価値が関連してくるとポリネシアの例は弱いものになってしまう

      • もし(Q1)の解答として(A1)が返ってきたら、筆者は「ポリネシア人たちは、もはやみな無神論者かクリスチャンなのだから、なぜ土着のpagan伝統を続けるのか?」と問うだろうと言う
      • 答えは以下のようなものになるだろう:この実践はそもそもは神を鎮めるために行われたが、今続けられているのは他の仕方で価値があると見なされているからだ。
    • そもそもポリネシアの伝統は実践が価値を持つ例として引かれた(価値の無い伝統はイギリスの左側通行のような恣意的な伝統に組み入れられてしまう)。

      • ラマルクは分離不可能性の価値を主張するために、詩の伝統の歴史に訴えた
      • しかし実践の価値は伝統の長さや連続性に依拠していない。それらは単に価値のしるしindicationとしてのみ関連的なのだ。
      • キヴィの主張が説得的であるためには、ラマルクの唱える分離不可能性の伝統それ自体の問題を指摘しなければならない。
        • しかしキヴィの第3節で見せたような多元的アプローチはそれをすることはできない。
  • My conclusion is that while Bradley’s… (p.64)
    今までの議論のまとめ。

      • 詩の厚み=内容と形式の分離不可能性は、詩の(経験の)必要条件である