John Holliday「文学における親密さ」(2018)論文紹介

 

書誌情報:John Holliday, Emotional Intimacy in Literature BSA Prize Essay, 2016, The British Journal of Aesthetics, Volume 58, Issue 1, January 2018, Pages 1–16.

 

 

 Ⅰはじめに

 筆者は現在Stanford大学のポスドク研究員。この論文の執筆当時はRutgers大学のAssistant Teaching Professorだった。専門は美学、特にフィクションや文学の価値に関する論文がある。公式サイトはhttp://web.stanford.edu/~jhday/

 

 

Ⅱ本文

 

アブストラクト(訳)

「文学作品を読むとき、その作品がフィクションであったとしても、私たちは作者との感情的なつながり、あるいは少なくともそのように思われるものを持つことがあるかもしれない。しかしフィクション文学がそのような体験のための資源(resource)を、どのようにして与えてくれるのかは明らかではない。それは結局のところフィクションなのであり、回想録や自伝のように作者の経験を報告するものではないのだ。この論文の課題は二つの要素からなる。一つ目はこの感情的経験の本性と価値を説明すること。二つ目はフィクション文学作品がそのような経験のための資源を与え得ると論じることである」

 

1.作者とのつながり

フィクショナルキャラクターに対する感情的共感については多くが語られてきたが、一方で私たちがしばしば経験する、作者と読者の感情的なつながりや親密さについては語られてこなかったと筆者は述べる。そこでまず筆者は、David Foster Wallaceの以下のような記述を参照しつつ、この論文で説明しようとする「作者とのつながりauthorial connectedness」がどのようなものであるかを提示する。

 

フィクション作品が会話となるようなもう一つの水準が存在する。非常に奇妙で非常に込み入った、それについて述べるのが難しい、読者と作家の間に設けられる関係があるのだ。…一種のなるほど!が存在する。少なくとも少しの間、私がそうするように何かを感じたり、何かを見る人が居るだろう。それは常に起こるものではない。それは一瞬の輝きや炎であり、しかし私は時折それを得るのだ。私は知的、感情的、精神的に一人ではないと感じる。私は人間らしさを感じ、孤独でないと感じ、フィクションや詩におけるもう一つの意識と自分が深く重要な対話をしていると感じるのであり、それは他の芸術においては起こらない仕方でなのだ。

 

このような経験とは、世界を記述し見る方法が作者と同じだと読者が感じることや強い共鳴の感覚だと筆者は述べ、このような読者の感じる作者との親密さの感覚を「作者とのつながりauthorial connectedness」と名付ける。そして第二節ではどのようにしてそのような経験が可能になるのかを論じ、第三節ではフィクション文学が作者とのつながりそのものでなくても、それに似た何かのための資源を提供し得ることを主張すると述べる。

「作者とのつながり」を直接説明する前に、筆者はどのようなものが「作者とのつながり」ではないのかを述べる。最初に筆者は否定するのは、「友情friendship」としての「作者とのつながり」である。GekoskiやBoothなどは読者が作者に感じる親密さを友情のメタファーによって論じるが、筆者はまさにそれがメタファーであることから、それを拒絶する。つまりそれが指すものは実際には友情ではないのであり、筆者がここで論じたいのは「実際の感情的なつながりthe actual emotional connection」なのだ。そして友情のメタファーを筆者は、それが読者が作者だけでなく、本との間にも感じるものとして使われる点も批判する。

 次に筆者が否定するのは、Levinsonが音楽を聴くことの潜在的な恩恵(reward)としている「感情的共有Emotional Communion」である。つまり音楽を聴く人は、そこに表現されている感情が作曲家によって感じられたものだと思い、作品に表現される感情に感じ入るとき、作曲家と共有された経験を持ったと感じるとレヴィンソンは述べる。文学に関しては感情を伝達することが芸術の役割であるとするTolstoyやCollingwoodが同様のことを主張し、作者が作品で表出される感情を感じていると措定し、読者は作品において感情を感じるときに作者との感情的な親密さの感覚を経験すると考えた、と筆者は述べる。しかし筆者は「感情的共有」と「作者とのつながり」が、同じく作者との親密さの感覚をもたらすとしつつも、その親密さはそれぞれ異なる種類の親密さであると述べる。

 

感情的共有から得られる親密さは、作品によって喚起される感じそれだけによるものである。[一方で]作者とのつながりから得られる親密さは、部分的には読者が作品の中において、自分自身に関する何か、自分がその作品を読む前に信じたり考えたり感じたりした何かに気づくことによるものである。というのも作者とのつながりは、まるで読者がある意味で同胞の魂を見つけたかのように感じるように刺激するものだからだ。

 

このように筆者は、作者とのつながりによって得られる親密さを、単に感情を共有していると感じるだけでなく、読者が自分自身(の信念や思考や感情)を作品の中に見出すというより全人格的な行為によって特徴づける。

 

2.作者とのつながりを説明する

 筆者は以上のような作者とのつながりをもたらすような読書の経験の特徴を四つ提示する。つまり「読みの心理的な文脈the psychological context of reading」「表出された信念と態度の共有sharing expressed beliefs and attitudes」「内在する作者の人格に惹かれることbeing attracted to the implied author’s personality」「表出的潜在力の報酬the reward of Expressive Potency」である。

読みの心理的な文脈

Proustは読書の重要な特徴について以下のように述べていると筆者は考える。

 

ある人[読者]がもう一人[作者]の思考を受け取るが、しかしその人[読者]はある意味で一人であり、作者との(厳密な意味での)会話に参加する可能性を持たない。そしてこの独りであるということが、通常の会話でそうである(あるいはあり得る)よりも豊かな仕方で、もう一人の思考の産物と関わることを可能にする。 (p.4)

 

筆者はこのような「孤独solitariness」が、読書における作者とのつながりを可能にすると述べる。しかし一方でそれは常に生じるものではなく、またテクストの何らかの知覚できる特徴が必要となる(例えば辞書に対して孤独に向き合っても親密さは生まれない)と筆者は主張する

共有された信念と態度

誰かが他人に感情的なつながりを感じるのに必要なのは共通点(commonality)であると筆者は述べる。しかしだからと言って、単に重要だと感じられる事柄に関する信念や態度が一致しているだけでは、感情的なつながりを感じることはできないし、倫理的・政治的な信念を共有していても嫌いな人はいると筆者は述べる。ここで筆者は感情的なつながりに寄与し得る信念の特徴として「不一致に開かれているopen to disagreement」を挙げる[3]が、しかし親密さのためにはそれだけでは足りないと筆者は述べる。

文体と人格

ある人を好むことには、その人の人格が関連するし、そしてもし作者の人格が作品を通して表出されるならば、読者は作者を好む機会が発生するだろうと筆者は述べる。ここで筆者はRobinsonの表出に関する議論[4]を援用しつつ、粗野な感受性の持ち主が粗野な服の着方をしたり、妥協しない性格の人が妥協しない仕方で決断をしたりするように、人の行動をその行為者の人格を知る「窓」とすることができると主張する。そして同様のことが文学作品にも言えると筆者は考える。

 

同じことが文学における個人の文体にも言える。これはある物事を特定の仕方で継続的にし続けることである――言い回しを構成し、文に句読点を打ち、台詞を描き、テーマを提示し、設定や登場人物の心理的な動きを記述し、等々――。そしてそれを作者の人格の表出の方法とすることは正当化されるのだ。かくしてトーマス・ベルンハルトの小説の継続して強迫的なトーンは、ベルンハルトの強迫的な気質を表出している。デヴィッド・ホスター・ウォレスが内省的な語り手を継続的に作り出すことは、彼自身の内省へと向かう傾向を表出している。 (p.5)

 

このように筆者はまず、文学作品の文体が作者の人格にアクセスする機会になると考える。

 しかし筆者は物事がそれほど単純でないことを認める。つまり文学作品の文体に現れているのは実際の作者の人格というより、Boothの言う「内在する作者implied author」、つまり作品の証拠から理解されるような作者であると筆者は認める。というのも文学作品において作者は、しばしば作品を語るときに仮面(persona)を活用するからである。筆者はここでナボコフハンバート・ハンバート(『ロリータ』)、サリンジャーにおけるホールデン・コールフィールド(『ライ麦畑で捕まえて』)、メルヴィルのイシュメイル(『白鯨』)の例を挙げる[5]。またノンフィクションにおいてすらも、David Foster Wallaceが作品における自分は実際の自分より馬鹿で間抜けだと述べるように、作品の文体に表出している人格を実際の作者に帰することはできないと筆者は述べる。また作品だけからは、私たちは実際の作者と内在する作者がどれほど重なっているかを知ることができないとも筆者は述べる。この問題に関しては第3節で詳しく述べられる。

 その上で筆者は、作品の文体に表出される人格に対する感情的な親密さは、厳密には実際の作者ではなく、内在する作者に対するもののように思われると述べ、それでとりあえずのところ問題は生じないと考える。

 

たとえ厳密に言えば作品の文体を通して表出する人格が内在する作者のものであっても、それはそれでもなおテクストの原因としての単一の意識の感覚を与えるのであり、その意識は読者が惹かれる人格のものであり、また読者が当然実際の作者のものと考え得るものである。(p.7)

 

結局のところ重要なのは読者が感情的な親密さを感じる「単一の意識の感覚」が存在するという事実であって、筆者にとってそれが内在する作者のものであれ、実際の作者のものであれ、問題ではないのだと筆者は考える。

 以上の、行動としての文体を通じて、その行動を行う単一の意識としての(内在する)作者に惹かれるという説明だけでは、まだ作者に対する読者の感情的な親密さには至らないと作者は考える。そのような「深くdeep」「意義深いsignificant」感情的なつながりに必要なものを定式化するために、次の項で筆者はレヴィンソンの音楽に対する感情的反応の分析を参照する。

表出的潜在力

 筆者は以下のようなレヴィンソンの音楽鑑賞における「表出的潜在力の報酬the reward of Expressive Potency」の経験についての記述を引用する。

 

もし人が音楽を、その人自身の現在の感情的状態の表出と見なしたなら、その表出はあたかもその人自身から流れ出てくるように、その人の最奥の本質からあふれ出すかのように思われるだろう。そして自分の感じることを外在化し受肉することの中で、自由と安らぎの表出力の印象を受け取ることは、その人にとって極めて自然なことになる。自分の内的生が姿を現す際の豊かさと自然さに関して持つ感覚、それはネガティブな種類の感じを含むことすらあるが、否定することのできない喜びの源であるのだ。 (p.8)

 

つまりレヴィンソンは音楽鑑賞において受け手が、作品を自分自身の感情の表出と見なす経験について述べ、そこに作者の「表出力expressive power」を見出す[7]。筆者はここで表出力を、感情だけでなく認知にまで拡張することで文学における表出力を定式化できると考える。なぜなら「文学作品は感情の表出に加えて、出来事の描写や記述の様式、そして観察や洞察、態度やアイデアを表現する仕方において表出的な潜在力や力を持つと見なされることがある[8]」からである。それらの特徴によって読者はまるで自分が出来事や観察や洞察などを、作者がするような仕方で描写するかのように感じられ、「もし自分が本を書いたら、それはちょうど今自分が読んでいる本のようになるだろうと感じ始め[9]」るようになるのだ。

 以上を踏まえて、筆者は以下のように文学の表出力を定式化する。

 

xを表出する文学作品の一節を読むとき、読者はおおまかに言って、xによって表出される内容を評価し、もし自分が作者の表出力を持っていたならば、作者がそうした仕方でxを表出しただろうと信じる。その最も断固とした形では、読者はxによって表出された内容を高く評価し、作者がそうしたのとまったく同じ仕方でxを表出しただろうと信じる[10]。 (pp.8-9)

 

このように筆者は読者が作者の表出力を評価することと、自分が同じように表出するだろうと考えることを結びつける。ただし筆者はその上で、表出内容を評価する度合いと、読者が感じる表出的潜在力は比例すると述べる。

 筆者は以上のように定式化された表出力(表出的潜在力)が作者とのつながりとの実現において重要であることを認めつつも、それだけでは実現しないと考える。少なくとも表出力は内在する作者の人格に惹かれることが伴う必要があり、それによってこそ「表出的な作者とのつながりexpressive authorial connectedness」とも呼ぶべき感情的な親密さが実現すると筆者は述べる。その一方で作品において表出された信念と態度の共有は、必要ではあるものの大きな影響を持たないと筆者は考えるのだ[11]

満足のいく説明

 以上の議論を筆者は以下のようにまとめる。

 

この最も感情的に親密な、作者とのつながりを構成するような瞬間において、フィクション作品を読むことは、ある人物の思考に参与しているかのように感じられる。その人の信念と態度はあなたのそれと交差し、その人格はあなたを魅了するものであり、そしてその人は、あなたが高く評価しもしあなたができることなら、つまりそのような表出力を持つならば、あなたがそうしただろうような仕方で表出する内容を表出する。これらのすべては感情的な親密さのために十分に整った文脈によって高まるのであり、その中において、[文脈を構成するのが]まるであなたともう一人の思考だけであるかのように感じられるものなのである。

 

このように作者とのつながりを定式化するが、いまだ問題が残っていると筆者は考える。つまりこのように感じられる作者とのつながりが、実のところ内在する作者とのつながりに過ぎず、それと実際の作者との関係が不明瞭であるという点である。次の節では以上で述べた作者とのつながりが、実際の作者とのつながりであるという主張を正当化しようと試みる。

 

3.作者とのつながりを正当化する

 筆者は文学研究において、作家の全作品(oeuvre)や伝記が考慮されると述べる。つまりそれらは現実の作者の表出の仕方や表出された信念、態度、人格と、その作者のフィクション作品における内在的な作者のそれとの一致の証拠となるのだ。しかし筆者はそのような全作品や伝記の考慮が、文学作品の鑑賞に役立つかどうかに懐疑的であると述べ、作者とのつながりを別の仕方で正当化しようと試みる。その方法は二つあり、一つはColin Lyasの「ふりの限界the limits of pretence」の議論を援用することであり、もう一つはEileen Johnの「作者の感受性an artist’s sensibility」の議論を参照することである。それらについて直接述べる前に筆者は、作品そのものの吟味が作者とのつながりを正当化する手段になり得ることを述べる。

文体の簡素さ・全作品・伝記[12]

 作者は「簡素な三人称の全知の文体plain third-person omniscient style」が実際の作者の視点である可能性に触れる。しかしこれについてはそれが作者によって作り上げられる(つまり実際の作者が冗舌で大言壮語であっても簡素な文体を用いることはある)ことを筆者は認める。次に作家の全作品(oeuvre)を吟味することは、実際の作者と内在する作者の重なりを保証するだろうか。しかし筆者は、作者が作品を書くときに、常に自分とは異なる仮面(persona)を用いることは十分あり得るのであり、よって両者の信念や態度、人格や表出の仕方が同一である証拠として使えないと述べる。そしてこれはノンフィクションの場合であっても同様だと筆者は考える。最後に伝記的情報を、実際の作者と内在する作者の重なりの証拠とする可能性について筆者は述べる。しかし伝記的情報の扱いについては文学研究内部においても議論があり、作者とのつながりの正当化を議論のある事柄に頼ることは良くないと筆者は考える。

ふりの限界

筆者は人格や仮面の構築に関しては、「ふりpretence」をするのに「ふりをする人にとって何のふりをすることが可能であるかと、何のふりが為されているのかを受け手が想定することが意味を成すのか[13]」の両方の点において限界があると論じるColin Lyasの以下の議論を引用する。

 

内在する作者が鋭敏で、感性豊かで、感情的に成熟している等々のとき、作家がふりの行為によってそれらの特徴を、作家自身はそれらを有しないにも拘わらず、作品の中で具現化しているとの想定が、あまり意味を成すようには思えない。その作品がこれこれであるという判断は、作者がそこにそれらの性質を提示しているという判断である(作家は、ひょっとしたらその非-文学的生への反応として、それ以外の方法ではそれらの性質を提示しなかったかもしれないのだが[14])。 (p.13)

 

Lyasは作品においてあることが見受けられるということは、作者がそこにそれを提示しているということと同一だと考える。筆者は以上の引用に、三つのコメントを付す。

まず一つ目は「何のふりが為されているのかを受け手が想定することが意味を成すのか」、つまり受け手がどこまでがふりなのかを解釈する限界という点は、作者とのつながりの「妥当性reasonableness」に関するものであり、作者とのつながりそのものに関するものではない(つまりふりであっても親密さを感じることはある)と筆者は述べ、よって「ふりをする主体pretender」の限界が問題となると考える。

 二つ目はふりの主体におけるふりの限界が存在するのかという問題である。しかし筆者はこれに関しては、「誰かが例えば、感受性豊かであるふりだけをするのを想像するのは難しい[16]」と述べ、議論を進めるために「文体や表出の仕方が感性豊かであることを示すのであれば、実際の作者は、少なくともその瞬間においては、感性豊かである[17]」とする(つまりふりの限界は存在する)と述べる。

 三つめは、ふりの限界は何かをすることと何かのふりを同時にすることの不可能性として特徴づけられるということである。文を何らかの方法で書くと同時に、その文をその方法で書くふりをすることは不可能であると筆者は主張する。しかしこのことは、表出の方法が常に実際の作者の実際の(つまり日常生活においてコミュニケーションしたり表現したりする)方法であることを意味しないことは筆者も認める。それは単に作られたものに過ぎないかもしれないのだ。

 筆者は以上を踏まえ、作者とのつながりほどの感情的親密さをもたらさない「文学的作者とのつながりliterary authorial connectedness」ならば正当化できると述べる。これは「執筆行為を行っているときの作者とのつながり[18]」であるが、作品の特徴を作者の全作品における特徴と照らし合わせることで、作者とのつながりに進展する可能性を持つ。

 また第2節で述べたように作者とのつながりは、それが文学的作者とのつながりであっても、読者とのある程度の信念の共有が必要になると筆者は考える。問題はテクストの内在する作者と実際の(執筆時のものであれ)作者との信念は明らかに区別されることである。これに対して筆者は再び作者の他の作品が助けになると考える。つまりノンフィクションにおける「忠実性の条件fidelity constraint[19]」、つまりノンフィクションに表出する信念は実際の作者のものとするという条件、を持ち出し、もし作者の全作品にノンフィクションが含まれていれば、そこに表出する信念によって文学的作者とのつながりを正当化できると言うのである。

 しかし以上のような文学的作者とのつながりの問題点は、そのように都合の良いノンフィクション作品が必ずしも存在しないということである。筆者はそれをオープンレター、ブログ、講義記録、インタビューにまで広げることで解決を図るが、それは別個の議論が必要だと認める。最終的に筆者が正当化できると考えるのは「表出的文学的作者とのつながりexpressive literary authorial connectedness」である。つまり執筆行為における作者の人格を知ることができなくとも、(トリヴィアルだが)執筆行為における特定の表出の方法を持つことは正当化できると言うのだ。

 

感受性

 表出的文学的作者とのつながりについて論じるために、筆者はEileen Johnの以下のような主張を引用する。

 

芸術実践は極度に集中した反省的な制作であるので、[作家以外の]残りの私たちがほとんどすべての跡、すべての特徴を、作家によって制御されており、作家が経験の価値のあるものとした何かの証拠であると考えるデフォルトの保証を与えてくれるのだ。 (p.15)

 

このような主張を筆者は受け入れる。つまり(特に文学においては)作者が経験する価値があると考えるものが作品の要素になるのであり、仮に作品が部分的に集中や反省を欠いて書かれたものであっても、それは規範的ではないと筆者は述べる。

 以上の主張を筆者は、内在する作者についての議論に派生させる。つまり内在する作者が実際の作者と完全に重なってはいなくとも、実際の作者は結局のところ内在する作者の表出の方法や表出された信念・態度や人格を、価値あるものと見なしていたと考えることは正当である。言い方を変えれば、私たちは作品のそれらを示す特徴を実際の作者の「感受性sensibility」、つまり作者が何を経験し、吟味し、理解する価値のあるものとするかの感覚を表出するものだと筆者は述べるのだ。よってこの論文の最初で述べられたような、実際の作者の視点と読者の深い共鳴は望めないが、少なくとも「私たちは私たちの視点と深く共鳴する視点を理解し、また私たちのそれを越えた表出力を持ち、その視点を経験する価値のあるものと見なすような同胞を見つける機会を持つ[21]」のである。そのような感情的な親密さは、確かに実際の作者の視点とのつながりを欠いているが、だからと言って読者と実際の作者の交わりが存在しないということにはならないと筆者は考える。しかも文学制作の集中的・内省的な性質を踏まえれば、そこで交わる作者人格は、実際の作者人格より優れたものであり得ると筆者は述べて論述を終える。

 

[1] Laura Miller, ‘The Salon Interview: David Foster Wallace’, in Stephen J. Burn (ed.), Conversations with David Foster Wallace (Jackson, MS: University Press of Mississippi, 2012), 58–65, at 62.

[2] Marcel Proust, On Reading Ruskin, eds. and trans. Jean Autret, William Buford, and Phillip J. Wolfe (New

Haven, CT: Yale University Press, 1987), 147.

[3] 筆者はここで「1+1が2である」という信念を共有している例を挙げる。それは確かに重要な信念だが、不一致に開かれた信念ではないために、感情的なつながりには結びつかない(p.4)。

[4] 「「内部の」状態は「外部の」行動に表出されたり押し出されたりする。心の「内部の」質、つまり性格や人格は「外部の」行動が実際にそうである仕方である原因となり、そして同様に行動に「痕跡」を残す。臆病あるいは思いやりのある性格は、それを表出する行為に臆病さや思いやり深さの「痕跡」を残す」“an ‘inner’ state is expressed or forced out into ‘outer’ behavior. An ‘inner’ quality of mind, character or personality causes the ‘outer’ behavior to be the way it is, and also leaves its ‘trace’ upon that behavior. A timid or compassionate character leaves a‘trace’ of timidity or compassion upon the actions which express it.” Jenefer Robinson, ‘Style and Personality in the Literary Work’, The Philosophical Review 94 (1985): 227–247, at 229. Tillyard also suggests this line of thought, though much less explicitly. See E. M. W. Tillyard and C. S. Lewis, The Personal Heresy: a Controversy (Oxford: OUP, 1939), 35.

[5] ここで筆者は「内在する作者」と「語り手」を意図的に混同している。その目的は「内在する作者」と「実際の作者」の区別を強調するためのようだが、自分には論理が追えなかった。該当する文は以下の通り:「しかし内在する作者は一人称の語り手とは異なる。一人称の語り手は作中人物であり、内在する作者はそうではない。だがこのことは内在する作者を実際の作者に近づけるものではない。Robinsonの記す通り、どれだけ実際のトルストイが現実の生活で不満たらたらで不寛容であったとしても、『アンナ・カレーニナ』の内在する作者は、思いやりのある理解にあふれている」“But the implied author is distinct from first-person narrators. First-person narrators are characters in the work; the implied author is not. Nevertheless, this does not necessarily position the implied author any closer to the actual author. As Robinson notes, ‘however querulous and intolerant the actual Tolstoy may have been in real life, the implied author of Anna Karenina is full of compassionate understanding’.” (pp.5-6)

[6] Levinson, ‘Music and Negative Emotion’, 328.

[7] ここは解釈に苦労した点である。この「表出力」が帰属するのが作品なのか、読者なのか、作者なのか必ずしも明らかでないように思われる。ここではそれを作品や読者に帰属させているように読めるが、論文の後半部分では作者に帰属させているように読める。おそらくここでの論旨は、作品を作者が用意した感情的・認知的なパースペクティブの表現と見なすことができ、受け手はそのパースペクティブに自分を置き入れることで、そのパースペクティブ追体験することができるということである。ひとまずのところ、そのような事態全体のことを指して「表出力」あるいは「表出」という言葉が使われていると解釈したい。

[8] “In addition to its expression of emotion, a work of literature might be perceived as expressively potent or powerful in its portrayal of events, mode of description, and manner in which observations, insights, attitudes, and ideas are expressed” (p.8)

[9] “it begins to feel to the reader that were she to write a book, it would be just like the one she is reading” (p.8)

[10] ここでxとは先に述べた感情や認知のことだと思われるが、それでは「xによって表出される内容」とは何のことだろうか。あるいは「内容」とは単に感情や認知の表出されたその様態のことを指すのだろうか。

[11] “Thus even if shared beliefs and attitudes are required for authorial connectedness, mode of expression does the heavy lifting and, on its own, can provide a powerful sense of emotional intimacy” (p.10)

[12] 元の論文ではそれぞれ独立の項だったが、興味深い内容が見受けられなかったので簡単にまとめた。

[13] ‘what it is possible for a pretender to pretend and what it makes sense for an audience to assume is being pretended’. (p.13)

[14] この括弧内の意味はよくわからなかった。もしかしたら訳が間違っているのかもしれない。

[15] Colin Lyas, ‘The Relevance of the Author’s Sincerity’, in Peter Lamarque (ed.), Philosophy and Fiction: Essays in Literary Aesthetics (Aberdeen, UK: Aberdeen University Press, 1983), 17–37, at 22.

[16] “it is difficult to imagine someone able merely to pretend being, say, sensitive” (p.13)

[17] “When style expresses or mode of expression demonstrates sensitivity, the actual author, at least in those moments, was sensitive.” (p.13)

[18] “connectedness with the author as she was in the act of writing” (p.14)

[19] 感情や物事の捉え方に関してはノンフィクションであっても実際の作者のものであることは保証されないが、信念に関してはノンフィクションであれば作者のものだと推定できるだろう。もしそれが作者のものでないなら、作者は単純に嘘をついていることになる。

[20] Eileen John, ‘Beauty, Interest, and Autonomy’, The Journal of Aesthetics and Art Criticism 70 (2012), 193–202, at 200.

[21] “we do have the chance of finding a fellow human being who understands a perspective that resonates deeply with ours, does so with an expressive power beyond our own, and finds that perspective worth experiencing” (p.16)