「想像力」に関するメモ

佐々木健一「想像力」『美学事典』東京大学出版会, 1995, pp.79-89.

 

メモ

 

・想像力は精神的活動のうちでも、身体に媒介されているという特殊性がある

→またそれゆえに具体的であり経験的な働きであると言える

→独自の一般性・論理性を持つ

 

・古典的概念から現象学的想像力にいたるまで、一種の「受動性」が認められている

→感覚的な外部刺激を基盤にする精神的活動であるということ

―また古典的概念において、そのような外部刺激が「記憶」と結びつけられる。デカルトも、想像力は記憶を基盤に像を形成すると述べる

 

・カントによる構想力(生産的想像力)と再生的想像力の区別

デカルト・ヒューム的な想像力は後者であり、既に経験した像(記憶)が基盤になる

→それに対して前者は、感性の多様としての後者を統一する、先験的総合の働きを持つ

―このような想像力は、見たことのないものを想像するというような創造的なもの

―そのような自由な想像力は、合法則性を備えた悟性と調和的に遊動することで、美的判断の基盤となる。言い換えれば美的判断は想像力の自由な合法則性によって規定される。

→以上のような構想力はカントによって美学・芸術と結びつけられ、ロマン主義に受け継がれる

 

・またここまでの議論とは少し異なる流れに、フィクション作品の様相と結びついた想像力もある。問題となるのは想像力の理性的規範(ただ想像力を理性と空想の中間に置くという点では他の想像力論と類似?)

―もちろんアリストテレス詩学』の議論のこと:歴史は起こったことを語るのに対して、詩は起こり得ることを語る

→何が「起こり得る」とされるのかについては、想像力における理性的な規範があるということか

―スクルートン:フィクション作品は現実に対して「適合appropreate」しなければならない(これも規範的)。常に現実を参照して、適切性を理性によって判断されるフィクション

→また一方でフィクションは可能性を構築することで、現実を可能性の文脈に置く。

→このような想像力は、再生的想像力の一種?現実的な蓋然性の感覚という意味でのヒューム的な連想の法則によって、フィクションの適切性が判断される。

 

レジュメ

 

定義:「身体に媒介されている限りでの精神の働き全般

「精神が身体の影響を遮断して、純粋に思考しようとするとき、その思考は抽象的・一般的・論理的な性格を帯びる。それに対して、身体との関係に即して思考するとき、その思考は具体的・具象的であり、経験の抵抗との相剋のなかで展開されてゆく。思考である限り、一般的であり論理的であることに変わりはないが、具体的であることによって、想像力の思考のもつ一般性や論理性は独特なものとなる。」

 

・第一義には「イメージを形成する力」「像を表象する力」だが、それだけでない

→例えば「文学作品の優れた想像力」というのは「虚構における優れた技巧」のこと

→「現実生活のなかでこの虚構の創出に相当するのは、他人の立場になって考えたり、他人を思いやったりすることであろうが、この場合にも像は必須の条件ではない。」

→〈像の産出〉でない「想像力」

 

・想像力は不在の対象だけでなく、現実の対象についての思惟でもある:物真似の認識

―現実にも想像力が働いているというカント的認識論→様相的直観?

 

 

・想像力の古典的概念

アリストテレス:「記憶(や狂気)」と重なる

―スコラ哲学:感覚的刺激を統括する共通感覚と関係

              ←記憶され想像される像は、外部感覚から共通感覚へと導かれるため

デカルト:共通感覚も想像力も、脳の松果体という記憶(精神)の座における、精神と身体の結合の働きである

―「左右の眼から伝えられた視覚的刺激はこの腺に収斂して、ただ一つの対象の像を結びつつ、記憶のなかに痕跡を残す。また逆に、精神はこの松果腺を動かして記憶の貯蔵庫のなかを探してしかるべき像を想起し、あるいは部分的な像を組み合わせて空想にふけったりするわけである。」

→つまり想像するとは、意識を身体に向けて、理性や感性で把握した観念に符合するなにものかを、身体において見つめること

 

・ヒュームによる想像力の法則

―ヒュームによれば知覚はすべて感覚に由来する。

―想像は「再生された観念」という点で記憶と類似するが、活気の強さ、そして「経験されたときの観念の順序の組み換え」という点で記憶とは異なる。

→つまり想像においては一つの観念から別の観念に、「類似」「隣接」「因果関係」の三つの連想によって移行する

→このような想像力はカントによって「再生的想像力」として一段低く見られた

 

・カントの生産的想像力

―構想力Einbildungskraft:「感覚的刺激の所与の多様性を一つの形象へと統一し、精神(悟性)の理解に供するもの」→身体=物体と精神の媒介(デカルトの想像力論の延長)

              →これに対して、すでにある像を想起する想像力は再生的想像力

→再生的想像力が発動するには、その前にその像が経験されていなければならないが、そのような最初の像を、感性の多様から統一させ、経験可能にする働きが先験的総合=生産的想像力

―知性を支える想像力:生産的想像力=構想力によってセンス・データは統一され形象を形成するが、それはさらに概念と像の中間的存在である図式に媒介され、悟性の理解出来るものになる

 

・カントはそのような創造的想像力を美学と結びつけるに至る

―これは古代のピロストラトスや偽ロンギノスの、見たことのない対象を取り上げる想像力と類似

―カントは対象を美と判断する働きを、想像力と悟性の調和的遊動と関連付けた

―悟性は合法則性を担うため、そのような美的判断は「想像力の自由な合法則性」によって規定されていると言える

→ここで言う「自由な想像力」は(連想の法則に支配された再生的なものではなく)自分から感覚的な形を創り出すような、生産的で自発的な想像力である

→ロマン派の創造的想像力へ

 

・コールリッジと創造的想像力:悟性↔感性、精神↔自然、無限↔有限を媒介するカント的想像力はロマン主義に受け継がれる

フィヒテを経て、ノヴァ―リス、シュレーゲル、シェリング

―シュレーゲル:自我は世界の多様を概念の統一性に還元し、世界を縮小する(『純粋理性批判』認識論的想像力)一方で、詩的想像力によって自己を世界に拡大する(『判断力批判』創造的想像力)

シェリング:カント的想像力をベーメの影響下で創造力へと移行させた

―コールリッジ:想像力↔空想力fancyの対立

              ―空想力:連想の法則に支配された再生的想像力

↔想像力:多(複数の状況・要素)を一(一つのイメージ・感情・直感的思考・根本原理)へと還元・一体化する力

→これらのロマン主義的想像力が、美学において高く評価されてきた

 

・想像力の理性的規範:想像力は悟性の概念的把握・推論から距離を置きつつも、まったく非合理的な空想・幻想とは異なる

アリストテレス:悲劇の筋立ては事実の再現(歴史)ではなく、「ありそうだ」「あらねばならない」などの蓋然性・必然性によって組み立てられる

―スクルートン:アリストテレスを受けて、想像力の作品は「現実に対して適合appropriate」することが求められるとした。

―「想像力の仕事は諸々の可能性の構築を含んでおり、その目的は、おそらく、現実世界をこれらの可能性の文脈に置くことにある」

→想像力の作品は現実を逆照射することを究極の目的とし、そのような目的に適う虚構こそが「適切」である

―想像力はそのように、虚構の「適切性」を判断するという面において理性的なものである

→「想像力は[…]かれらにその理性を行使するように、すなわち一句ごと、一つひとつの作品ごと、一文ごとになぜと問うように、そして身近な現実性の世界に対するその適切性を判定するように仕向けるのである」

>「想像力」概念と「可能性」「蓋然性」を橋渡しする可能性?→様相概念

 

 

サルトル:想像力の「像」について

―1.像は意識の中にあるというよりも、意識そのものである

―2.想像は知覚と思惟の中間である(知覚のように対象を見つめるが思惟のように自分の知ることを支えとする活動である)

―3.想像の対象は現実の存在ではなく、非存在、不在として措定される

―4.想像の対象は無であるから、想像とは自発的で創造的である

→以上より想像力とは「意識の偉大な〈非現実化〉機能」;精神の現実から脱出する働きである

 

・しかしこのような想像力は芸術家の創造的想像力というより、友人の顔を思い浮かべるような表象作用(再生的想像力みたいな?)である

→創造的想像力は(コールリッジ的に言えば)多を一体化するもの。言い換えれば「多」は既知であるが、想像力による一体化が生む構想によって初めて、対象が実在する(⇔サルトルの像概念は既知のもので閉じていて、対象は無)

→そのような創造的想像力は言い換えれば、「多」という所与を前提する、「受動的」なものである(感覚の多様を把捉するカント的構想力の残響?)。

→ただし日常的な想像力でさえ、想像力は外部からの刺激を受けて働く受動的なものである

→「想像力とはむしろ、刺激を受けて活性化され、視野を広げ柔軟性を増した精神のことである。そこで初めて「霊感」も湧く」

 

サルトルにおける芸術作品と想像力:作品とはイメージであり、その観賞のためには作品の物質層=アナロゴン(メディウムみたいな?)を「無化néantiser」しなければならない

―「実在的なものは決して美しくない。美は想像的なものにしか帰することのできない価値であり、世界をその本質的構造において無化することを伴っている」

→しかしこのような芸術観は、一種質料的と言える自然美や、作品の質料的面などを見過ごしている(筆者によればこれは「精神と構想(アイディア)そして形を偏重する西洋思想の正統的伝統が受け継がれている」)

 

バシュラールの「物質的想像力」

―私たちは対象を見るときその「形」に着目するが、その見るという行為に先立って「物質的夢想」があり、それが見る対象を選ぶ

―「物質的夢想」:物との直接的な交わりに触発され、無意識的で、自然の産出力(能産的自然)に根差す。

→見たり、形式的想像力を導く⇔物質的想像力を導く

―後者の手は直接物質をこねる手でなくてはならないが、それは既に出来た形をなぞるものではない。それは単なる目の代用としての手である

「よくできた輪郭線をたどり、すでにできている仕事を検査する、気まかせな愛撫する手は[…]職人が働いているのを見つめる哲学者の哲学へと導いていく。[…]すでにできている仕事のこの視覚化は、おのずから形式的(形相的)想像力の優位を生み出す。」

→「これとは逆に、勤勉で命令的な手は、深い愛情を示しつつ抗う肉体のように、抵抗するとともに言うこともきく物質をこねあげることによって、実在的(レエル)なものの本質的特徴である機能亢進dynamogénieを学ぶのである」

―以上のような物質的想像力は、現実の像を形成する働きというより、「現実を超え、現実を歌うイメージを形成する能力」

―またこのようなバシュラールの思想は、精神と身体の媒介としての想像力の働きが、西洋思想において身体の精神化において理解されていたのに対して、精神(思想)の身体的位相を捉えている点で例外的