『言語哲学大全Ⅰ増補改訂版』1.1&1.2 レジュメ
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第1章 フレーゲと量化理論
1.1 ひとつの問題
問題の導入
- 以下で⑴は⑵に、その内容を変えないまま受け身に変形されているように見える。
- ⑴ 誰もが、誰かをねたんでいる。
- ⑵ 誰かが、誰もからねたまれている。
- 通常、文は能動から受け身に変形されても真理値(真偽)を変えない
- 例えば…
- ⑶ 太郎が、花子をねたんでいる。
- ⑷ 花子が、太郎からねたまれている。
- このとき⑶が正しければ⑷も正しい。⑶から⑷を導ける。
- 例えば…
- しかし⑴と⑵に関しては、問題となっているのが太郎、次郎、花子の三人とすると真理値が変わってしまう。
- 太郎が花子をねたみ、次郎は太郎をねたみ、花子は次郎をねたんでいるとき…
- ⑴は真であるのに、⑵は偽である(全員からねたまれている一人は存在しない)
- 太郎が花子をねたみ、次郎は太郎をねたみ、花子は次郎をねたんでいるとき…
- しかし⑶→⑷のような論証は哲学の歴史において度々現れてきた
- アリストテレス『ニコマコス倫理学』の例
- 「いかなる行為にも、その究極的目的がある」から 「ひとつの究極的目的を目指して、すべての行為がなされる」を導いている
- 補足:これは人生における行為は「目的-手段」の連鎖(早寝するのは早起きするためであり、早起きするのは試験監督に間に合うためであり、試験監督は給料のためであり…)の中にあるものだが、その連鎖が無限に続くのであれば人間の行為は無目的になってしまう。ここで究極的な目的が存在しなければならず、それは「最高善」である。
- 前者が述べているのは、それぞれの行為の連鎖(A→B→…→Xやa→b→…→x)に究極的目的(Xやx)が存在するということ。
- 一方で後者が述べているのは、すべての行為の究極的目的が一つに絞られるということ(つまりX=x)であること。
- 前者から後者を導くのは、⑴から⑵を導くのと同じ誤りである。
- 「いかなる行為にも、その究極的目的がある」から 「ひとつの究極的目的を目指して、すべての行為がなされる」を導いている
- 以下では⑴と⑵が論理的にどのように異なるのかを明示する手立てを探ることになる
- アリストテレス『ニコマコス倫理学』の例
中世の論理学者あるいはラッセル流の分析
- まずは⑶と⑷のように⑴と⑵に具体名を放り込んでみて、考えてみる。
- ⑸太郎と次郎と花子が、太郎か次郎か花子をねたんでいる。
- ⑹太郎か次郎か花子が、太郎と次郎と花子からねたまれている。
- 次に以下の規則AとBを導入する
- A:「XとYとZと…」となっている文は、それらのXやYやZが個別に現れる文の連言(⋏、and)に書き換えられる
- B:「XかYかZか…」となっている文は、それらのXやYやZが個別に現れる文の選言(∨、or)に書き換えられる
- AとBを⑸に適用してみると…
- 主語にAを適用
- ⑺(太郎が、太郎か次郎か花子をねたんでいる)⋏(次郎が、太郎か次郎か花子をねたんでいる)⋏(花子が、太郎か次郎か花子をねたんでいる)
- 述部にBを適用
- ⑻ ((太郎が、太郎をねたんでいる)∨(太郎が、次郎をねたんでいる)∨(太郎が、花子をねたんでいる)) ⋏ ((次郎が、太郎をねたんでいる)∨(次郎が、次郎をねたんでいる)∨(次郎が、花子をねたんでいる)) ⋏ ((花子が、太郎をねたんでいる)∨(花子が、次郎をねたんでいる)∨(花子が、太郎をねたんでいる)) となる。
- 主語にAを適用
- 次にAとBを⑹に適用してみると…
- Bを適用
- ⑼’(太郎が、太郎と次郎と花子からねたまれている)∨(次郎が、太郎と次郎と花子からねたまれている)∨(花子が、太郎と次郎と花子からねたまれている)
- さらにAを適用
- ⑼ ((太郎が、太郎からねたまれている)⋏(太郎が、次郎からねたまれている)⋏(太郎が、花子からねたまれている)) ∨ ((次郎が、太郎からねたまれている)⋏(次郎が、次郎からねたまれている)⋏(次郎が、花子からねたまれている)) ∨ ((花子が、太郎からねたまれている)⋏(花子が、次郎からねたまれている)⋏(花子が、花子からねたまれている)) となる。
- ここで⑻と⑼が命題論理で比較可能になった:例えば⑻の「太郎が次郎をねたんでいる」は、⑼の「次郎が太郎からねたまれている」と交換可能。
- ⑻と⑼は論理的に同値でないことは命題論理の真理値計算から明らかである。
- Bを適用
- 補足:どうやって同値でないと知るのか?(註5、p.60)
- よって⑻の文をそれぞれP1(=太郎が太郎をねたんでいる),P2, P3, Q1, Q2, Q3, R1, R2, R3,と記すならば、⑻と⑼は以下のように書き直せる
- ⑻(P1∨P2∨P3)⋏(Q1∨Q2∨Q3)⋏(R1∨R2∨R3)
- ⑼(P1⋏Q1⋏R1)∨(P2⋏Q2⋏R2)∨(P3⋏Q3⋏R3)
- これを⑻⇒⑼を真理値表で全て計算すると、真理値が偽になってしまうことがあるので⑻から⑼は導けない(論理的に同値ではない)ということになる(PDF参照)。
- あるいはP1Q2R3が偽でありそのほかが全て真であるとする。⑻はこのとき明らかに真であるが、⑼はこのとき選言で結ばれた三つの括弧内が全て偽になり、全体としても偽になってしまう。つまり⑻が真であるのに⑼が偽であるような場合が存在する以上、⑻から⑼は論理的に導けない。
- よって⑻の文をそれぞれP1(=太郎が太郎をねたんでいる),P2, P3, Q1, Q2, Q3, R1, R2, R3,と記すならば、⑻と⑼は以下のように書き直せる
中世論理学者とラッセルの方法の問題点
- 規則の適用順序がA→Bである根拠はなく、以下の(⑴や⑵と同様に)多義的な文の構造を明らかにできない。
- (*)その一味の誰もが、誰かから金を受け取っていた。
- この文においては以下の二通りの解釈が可能である。
- Aから適用 「一味の全員が各々、同一人物とは限らない人々から金を受け取っていた」
- つまり(Aが、A∨B∨Cから金)⋏(Bが、A∨B∨Cから金)⋏(Cが、A∨B∨Cから金)
- Bから適用 「一味の全員が皆、ある一人の人物から金を受け取っていた」
- つまり(A⋏B⋏Cが、Aから金)∨(A⋏B⋏Cが、Bから金)∨(A⋏B⋏Cが、Cから金)
- この二つの解釈は論理的に同値ではない(計算した)。
- Aから適用 「一味の全員が各々、同一人物とは限らない人々から金を受け取っていた」
- この文においては以下の二通りの解釈が可能である。
- 手続きとしてはAを先にしたりBを先にしたりすることで多義的な解釈を露呈させることはできるが、しかし「なぜ」そのような多義性が生まれるのかを説明することはできない。
- (*)その一味の誰もが、誰かから金を受け取っていた。
1.2 文の論理形式
- なぜ中世論理学者とラッセルは上手くいかなかったのか?
- それは文を語の線状な並びと考えていて、文の構造的な生成過程を考えていなかったから。
- フレーゲはどうやって問題を解決したか?
- 以下では述語と量化の導入によってそれを明らかにする。
述語記号の導入
- ⑴と⑶は「—は…をねたんでいる」、一方⑵と⑷は「…は―からねたまれている」という形式を共通して持っていると言える。
- ⑶と⑷は「—」や「…」に固有名を入れてできた文であり、「—は…をねたんでいる」と「…は―からねたまれている」は固有名を入れる限りで常に論理的に同値である。
- ここでそれらの固有名を入れる前の、空欄を含んだ文を「述語」と呼び、以下のように形式化する。
- 「—は…をねたんでいる」&「…は―からねたまれている」→ F(—、…)
- すると⑶と⑷は以下のように書き換えられる
- ⒜ F (太郎、花子)
- しかしここまでで問題となってきたのは、空欄に「誰も」「誰か」のような語を入れると、⑴と⑵のように真理値が異なってしまうことだった。
- つまり 「誰もが誰かをねたんでいる」&「誰かが誰もからねたまれている」 = ⒝ F(誰も、誰か) とすることはできない…
量化子の導入
- ここで「誰も」「誰か」のような語を、固有名と同じように扱うのを諦めてみる。
- そしてそれぞれを以下のように言い換えてみる。
- ⑴は話題になっている人たちの内のどのひとについても、そのひとが誰かをねたんでいるということ。
- ⑵は話題になっている人たちの内のあるひとについて、そのひとが誰もからねたまれているということ。
- その上で⒜や⒝に倣って定式化すれば…
- ⒞どのひとについても、F(そのひと、誰か)
- ⒟あるひとについて、F(誰も、そのひと)
- この書き方は、⑴や⑵がどのような場合に真になるか(真理条件)が明らかであるというメリットがある。再び登場人物を太郎、次郎、花子に絞れば…
- ⒞は「太郎が誰かをねたんでいる」「次郎が誰かをねたんでいる」「花子が誰かをねたんでいる」の全てが真であるときに、真である。
- ⒟は「誰もが太郎をねたんでいる」「誰もが次郎をねたんでいる」「誰もが花子をねたんでいる」のいずれかが真であるときに、真である。
- しかも以上の⒞や⒟が真となる条件をあらわす文それぞれに関しても、さらにそれを真とする条件を見て取ることができる
- 例えば 「太郎が誰かをねたんでいる」は、「太郎が太郎をねたんでいる」「太郎が次郎をねたんでいる」「太郎が花子をねたんでいる」のいずれかが真であれば、真となる。
- そしてそれぞれを以下のように言い換えてみる。
- さらにもう一つ記号法を導入:⒞や⒟におけるFの中の「そのひと」は、先行する「どのひと」と「あるひと」のことを指しているのだから、変項x,yを用いて以下のように書ける。
- ⒠どのひとxについても、F(x、誰か)
- ⒡あるひとyについて、F(誰も、y)
- ここでさらに⒠のF(x、誰か)と⒡のF(誰も、y)を取り出して、⑴→⒞や⑵→⒟のように「誰も」「誰か」を「あるひとについて」「どのひとについても」に言い換えてみれば、以下のように書ける。
- F(x、誰か)→⒢あるひとyについて、F(x、y)
- F(誰も、y)→⒣どのひとxについても、F(x、y)
- このようにして得られた⒢と⒣を、⒠と⒡に戻すと以下が得られる。
- ⒤どのひとxについても、あるひとyについてF(x、y)
- ⒥あるひとyについて、どのひとxについても、F(x、y)
記号による表現は文の形成史を明示する
- ⒤や⒥のような表現は、文をどのような論理的順序で再構成できるかという形成史を示すものである
- 「太郎が花子をねたんでいる」ということから以下が得られる。
- (i-1)F(太郎、花子)
- (i-1)が正しいとき、以下も正しいことがわかる。
- (i-2)あるひとyについて、F(太郎、y)
- さらに(i-2)が太郎だけでなく次郎にも花子においても正しいときに、
- (i-3)どのひとxについても、あるひとyについて、F(x、y)
- 「太郎が花子をねたんでいる」ということから以下が得られる。
- ⒥については、(i-1)までは同じだが、そこから太郎だけでなく次郎にも花子についても花子をねたんでいることから
- (j-2)どのひとxについても、F(x、花子)
- (j-2)が正しいとき以下が成り立つ
- (j-3)あるひとyについて、どのひとxについてもF(x、y)
以上のような表現の意義
- ⑶と⑷から、能動と受け身の書き換えは同値であるのに、⑴と⑵に関してはそうではないというのが不思議の種だった。
- ⑴と⑵の違いは、量化子(あるひとについて、どのひとについても)の適用の順序の違いである
- ⒤や⒥は文の形成史を一目でわかるように示すものであり、ゆえに当該の文の論理的ポテンシャル、つまり論理形式を明確に示すものである。
- 以上のような論理形式を表現する、一般的な論理的記号法を導入する(Mは変項の範囲を人に限るという意味の添え字)
- 「どのひとxについても」を ∀Mx(全称量化子)
- 「あるひとxについて」を∃Mx(存在量化子)
- すると⒤と⒥は以下のように書き換えられる。
- ⒦ ∀Mx∃MyF(x, y)
- ⒧ ∃Mx∀MyF(x, y)
- ⒦や⒧のような表現をすることで、⑴と⑵の違いが何に存するかが明らかになる
- つまりそれらの違いとは量化子の及ぶ文の範囲(=スコープ)の違いであって、⒦においては存在量化子∃が全称量化子∀に支配されているのに対して、⒧では反対になっている。
- このように量化子が他の量化子に支配される現象を「多重量化」と呼び、ここまでの試みはそのような多重量化を明瞭に表現できる記述法を探る試みを辿るものであった。
- そのために生み出された量化子と変項という分析装置、つまり「量化理論」こそが、現代論理学をそれ以前のそれと分かつものである。