ラッセルの記述理論のメモ①

青山拓央『分析哲学講義』(ちくま新書, 2012年)の講義3「名前と述語」より。

はじめに

 基本的な概念だけどよくわかってなかったので。バートランド・ラッセル Bertrand Arthur William Russell(1872-1970)の記述理論 theory of descriptionsに関するメモ。この記述理論は分析哲学における「なぜ言葉は意味を持つのか」「言葉の意味とは何か」という大きな問題系につながるものと言える。

 ラッセルは「表示についてOn Denoting」(1905)という論文で、記述理論によって確定記述句を分析した。

 確定記述句とは単一の事物を指す句で、固有名と代名詞以外のこと。英語で言うなら定冠詞 'the'が付く句と言える。例えば「現在のイギリス王」「ヒッチコック監督の遺作」などが確定記述句となる。ラッセルとしては表示句(指示句denoting phrase)の分析のために、その部分集合である確定記述句を分析し、やがて固有名を分析するという道筋をたどる。確定記述句の分析はその道程にあると言える。

 一方で記述理論を雑にまとめるなら、「確定記述句やそれを含む文の論理構造を、一般名詞と量化によって記述する」方法のことだ。

記述理論の意義

 これが何故うれしいかと言うと、それまでは論理的に説明できなかった「指示対象が実在しない表現」が、意味のある言葉として論理的に捉えられるようになるからだ。言い換えれば、「指示対象を持たない言葉は、空集合を指示するのですべて意味が同じ!」ではなく、ちゃんと違う意味を持つ言葉として論理的に弁別出来るようになるということだ。確かに「百人の子供を生んだ女性」と「浦島太郎の息子」は具体的な指示対象を持たず、空集合を指示するが、だからといって同じ意味を持つわけではないだろう(vacuously trueではないということ)。

 またこれは、「ある人some man」などの、特定の誰かを指すわけではない表示句の意味を、述語論理学の枠組みで再解釈し、論理的に表せるようにした、ということでもある。

具体的な分析例

 具体的に考えてみる。確定記述句を含む文の例としてWikipedia*1で挙げられているのは、 "the current Emperor of Kentucky is gray."「現在のケンタッキー州の皇帝は白髪である」というもの。ここでは「現在のケンタッキー州の皇帝」が指示対象が一つに定まる確定記述句だ。さて「現在のケンタッキー州の皇帝」という言葉の指示対象は存在しないので、文は空集合を指示することになるだろうか?例えば「現在のケンタッキー州の皇帝は赤毛だ」や「2+2=5」も空集合を指示するのだから、上の文と同じ意味を持つことになるのだろうか?それは直観に反する。

 そこで記述理論の出番だ。この文をラッセルの記述理論を用いて言い換えると以下の3つの命題の連言になる:

1.there is an x such that x is an emperor of Kentucky.「ケンタッキー州の皇帝であるようなXが存在する」
2.there is at most one emperor of Kentucky.「ケンタッキー州の皇帝であるようなものは、多くても一人である」(あるいは「XとYのそれぞれについて、XとYが両方共にケ皇帝であるなら、X=Yである」とも。)
3.anything that is an emperor of Kentucky is gray.「ケンタッキー州の皇帝であるようなものは、すべて白髪である」

ケンタッキー州の皇帝は白髪である」iff1∧2∧3 ということだ。

 ここで注目したいのは、文が3つの命題の連言になる際、定冠詞 "the"を含まない形で記述されている、つまり確定記述句(the current Emperor of Kentucky)が消去されているということだ。ここにおいて「ケンタッキー州の皇帝は白髪だ」という文の意味を考えるに際して、「ケンタッキー州の皇帝」という確定記述句の指示対象について考える必要はない。この文は単純に1.の「ケンタッキー州の皇帝であるようなXが存在する」が偽であるから、全体として偽であるのだ。

量化の活用

 またこの記述理論による分析は述語論理における「量化」をうまく使っていることにも注意したい。つまり記述理論では、フレーゲ以来の量化記号である∀(すべての〜, any)と∃(ある何らかの〜, some)によって、確定記述を表すことが出来るのだ。つまり「ケンタッキー州の皇帝であるbe an emperor of Kentucky」という述語をF、「白髪であるbe gray」という述語をGとすると、「ケンタッキー州の皇帝は白髪だ」は「あるxについて、「xがFである」かつ「すべてのFについてyがFならばx=yである」、かつ「xがGである」」と言い換えられる。これは勿論以下の論理式の言い換えである。

(∃x( (Fx∧∀y(Fy→x=y) )∧Gx) )

固有名の分析へ

 前にも述べたように、ラッセルの分析は表示句、その部分の確定記述句、さらに固有名へと進んで行く。

 例えば浦島太郎という固有名を考える。彼は架空の人物であるから、確定記述句と同様に、その意味を指示対象とすることは出来ない。ここで固有名の意味を指示対象と同一視してしまうと、「夏目漱石夏目金之助である」はトートロジーということになってしまう。(もちろん実際には上の文は有意味であることは明らかだ)

 そこでラッセルは固有名を省略された確定記述であると考え、ある述語を満たす対象を指す言葉だとした。例えば浦島太郎であれば

  • いじめられている亀を助けた
  • 海のなかの竜宮城に行った
  • 乙姫から玉手箱をもらった
  • etc...
などの述語を満たすだろう。
 ここで以上の述語を「ウラシマる」という一つの述語にまとめてしまうと、「浦島太郎はB型である」という文は、以下の命題の連言として理解できる。
  1. ウラシマるような何らかのもの(人間)が少なくとも一つ存在する
  2. ウラシマるような何らかのもの(人間)が多くても一つである
  3. ウラシマるようなすべてのもの(人間)は、B型である
1.が偽である以上、これらの連言である「浦島太郎はB型である」も偽である、ということになる。よってここで固有名が含まれる命題について考えるときに、その固有名の指示対象については考えなくてよくなっている(だから存在しなくても構わない)というわけだ。
 
続きは今度