Peter Goldieの情動理論:〈に対する感じ〉説
博論執筆の関係でPeter GoldieのThe Emotions: A Philosophical Exploration (Oxford UP, 2000)における情動理論について調べたのですが、本文には入らなさそうなのでここで公開しておきます。
Peter Goldieにおける情動の〈に対する感じ〉説
Peter Goldie(ゴルディ)は、情動を価値判断に意識的な感じ[feeling]を組み合わせたものと考える議論を「追加説[add-on theory]」と呼び、以下のように批判する。
以下のことを非情動的に行うことを考えてみよう。つまり、相手を殴ること、性交渉すること、安全を探し求めることである。それでは対照的に、あなたが情動から発して行動を起こすことを考えてみよう。つまり、怒って相手を殴ること、情熱的に性交渉すること、恐れて逃げることである。このような行為の現象学――その行為者にとってそれがどのようであるか――は、その性格において根本的に異なっている。[…]情動から発して行為することは、情動なしに行為すること(感じなしの信念と欲求によって説明される)に、何か追加の一つあるいは複数の材料を加えたものではないのだ。むしろ、行為が情動から発するとき、その行為全体、その行為の経験全体が、根本的に異なったものになるのだ(Goldie 2000: 40)。
このように認知説に感じを単に付け加えることで、情動を説明することはできないとゴルディは述べる。
ゴルディはその上で、自らの〈に対する感じ[feeling toward]〉説を展開する。そもそもジェームズの身体感じ説の問題は、身体変化の感じだけでは、情動の志向性と意味を説明できない点であった。そこでゴルディは身体の感じ[bodily feeling]に加えて、〈に対する感じ〉の概念を導入することで、情動を説明しようと試みる。ゴルディにおける〈に対する感じ〉とは以下のようなものである。
対象に対する(典型的には情動の対象に対する)情動の感じは、特定の在り方をしているか、特定の性質や特徴を持っているものとしてのその対象物に対する感じである (58)。
つまりゴルディは、認知説における価値判断の役割を、〈に対する感じ〉に負わせていることになる。〈に対する感じ〉とは、対象が特定の価値的性質を持っているという感じなのだ。そのような感じは、対象に対する志向性を持ち、しかも対象が特定の在り方をしていることを表象している。
その上でゴルディは、情動経験にジェームズ的な身体変化の感じを組み込もうとする。彼は以下のように例示している。
あなたは机に座りながら、特に厄介や哲学的問題に苦しみ、その解決法を見つけ出せない自身の無能力にますますイライラしていく。これはあなたの情動の対象――哲学的問題――に対するイライラという〈情動の感じ〉である。そして唐突に、あなたは胸に閉じ込められたような感じを覚え、深く呼吸するのが難しくなる。これは〈身体の感じ〉である。しかしそれだけではない、というのも二つの感じがすぐさま意識において結びつくからだ。つまり、あなたは哲学的問題によって物理的に取り囲まれたように感じると言える。部屋が急に息苦しいように思え、あなたは席を立って新鮮な空気を吸う必要があると感じる――「頭をすっきりさせるために」と言うかもしれない、まるで新鮮な空気を吸うことが哲学的問題を片付けてくれるかのように。それゆえ、〈身体の感じ〉は情動の志向性に完全に満たされ、そして今度は、〈に対する感じ〉が身体的な特徴づけによって満たされるのだ。(56–57)
ここで登場するのは〈身体の感じ〉とは、ジェームズの言うように身体変化を表象する(志向する)意識的な感じであり、〈に対する感じ〉とは情動の対象に向けられた意識的な感じである。〈身体の感じ〉単体は対象に対する志向性を持たないため、情動をそれだけでは構成できないが、それが〈に対する感じ〉と組み合わせられることで、〈身体の感じ〉は「借りられた志向性[barrowed intentionality]」(54)を獲得し、一方で〈に対する感じ〉は身体感覚と結びつくことができる。よってゴルディによる情動経験の説明としては、まず対象に対するイライラなどの〈に対する感じ〉が意識に登り、続いて息のつまる感じなどの〈身体の感じ〉が意識されるが、その〈身体の感じ〉が〈に対する感じ〉と組み合わさって志向性を獲得することで、対象に対するイライラという完全な情動経験が成立することになる(57)。
S. フレンド「事実とフィクションを想像する」(2008)レジュメ
Friend, Stacie (2008). Imagining Fact and Fiction. In Kathleen Stock & Katherine Thomson-Jones, New Waves in Aesthetics. New York: Palgrave-Macmillan. pp. 150-169.
分析美学のフィクション論入門編になるような論文。そもそも何が論点になっているか、どのような代表的な論者が居るのかを紹介してくれている。ただし最近(2025年現在)はもう少し議論が進んでいるかもしれない*1。
イントロダクション
p.150
[Why does it…]
言説がフィクションかノンフィクションであるかによって、私たちのそれに対する反応は変わる。私たちは過去について学ぶために歴史書historyを読むし、ニュースの連続殺人鬼について心配するが、大衆小説のサイコパスに対してはそうではない。シェイクスピアの歴史劇に対してはその歴史の歪曲を称賛するが、英国史の本に関してはそうではない。
[Furthermore, there are…]
また哲学の外においても、作品をフィクションとするかノンフィクションとするかの論争が存在する。
Edmund MorrisのDutchは、作者自身が虚構的な語り手としてレーガンを巡る事件を直接目撃する。BerendtのMidnight in the Garden of Good and Evilは、いくつかのシーンは作られ、また出来事の時系列を変更している。これらの作品はノンフィクションとして出版されたために、それらの細工deviceは批判された。
フィクションとノンフィクションの哲学的定義は、その理解や鑑賞のための両者の区別の意義を明らかにしなければならないだろう。
p.151
[Several recent theories…]
近年の研究ではフィクションを、受け手に特定の反応を促すprompt機能の側面から定義することがある。そのような理論は二つの要素を含む。
- ⑴何かをフィクションとして扱うとはどのようなことかの特定
- ⑵フィクションである作品those works that are fictionから、単にフィクションとして扱われ得るmight be merely be treated as such作品を区別する条件
⑵については見解の相違があるものの、⑴については、何かをフィクションとして扱うとは、作品の内容に対してメイクビリーブあるいは想像という態度を取ることであるという共通了解がある(Walton, Currie, D. Davies, Lamarque & Olsen)。
[This way of approaching…]
このような[機能による]定義は、指示や真理などの意味論的観念に頼るフィクション理論の拒絶を反映している。確かにフィクションは現実の人や場所、出来事を含むし、ノンフィクションは無知や欺きなどによって偽の主張を行うことがある。しかしノンフィクションが偽であるからといってフィクションになるわけではない。
よって先の論者たちはフィクション・ノンフィクションの区別において、作者や話者の意図に訴える。つまり受け手がメイクビリーブするように意図していたらフィクションであり、信念を持つように意図していたらノンフィクションではないかというのだ。
[I do not think…]
しかし筆者は以上の理論に反対する。つまり、フィクションに特徴的(かつノンフィクションには見られない)であるような想像やメイクビリーブといったものは存在しないのではないか。
メイクビリーブを導くinviteする作品は、私たちの日常的なフィクション概念より広い。そしてそのような狭いフィクション概念は想像的反応によっては切り出すcarve outことができない。つまりフィクションもまたノンフィクションと同じ認知的反応を導き得るし、ノンフィクションもまたフィクションと同じ想像的反応を導き得る。よって違うアプローチが必要である。
p.152
1.ウォルトフィクション
[I begin with…]
ウォルトンはメイクビリーブ概念をフィクション研究に導入した。つまり彼はフィクションを、その機能が特定のメイクビリーブにおける小道具であることと定義した。フィクションはその内容についての想像を指定し、指定された内容を想像することは、作品によって認められたauthorizedメイクビリーブゲームに参加することである。
このゲームの比喩は想像と正しさcorrectnessを両立させる。想像は何でもありではなく、メイクビリーブのゲームのルールにのっとったものでなくてはならないのだ。「オリバー・ツイストは24メートルの身長である」というのを勝手に想像しても良いが、ディケンズの小説[を小道具としたメイクビリーブ]においてそれをするのは不適切である。
[It is the function…]
ウォルトンにとっては、そのような想像の指定はフィクションとノンフィクション(伝記、教科書、新聞記事)を分けるものである。また作品の機能を決定するものに関してはウォルトンは作者の意図や典型的な用途、適切な使用法などの複数の要因に言及している。
[Walton is often…]
ウォルトンの見解は、作品がフィクションであることと、それがフィクションとして扱われることを区別しそこなっていると批判される:というのも「典型的な使用法」を根拠に作品がフィクションになると言っているため。
ウォルトンの立場では、ギリシャ神話など元々の受け手にはノンフィクションだったものでも、現代においては[そのように扱われるので]フィクションであるということになる;一方でギリシャ神話は未だにノンフィクションであり、私たちがフィクションとして扱っているに過ぎないという批判は十分考えられる。
ただし筆者はウォルトンもまた作品の起源を尊重するように言っていると指摘し、区別を相対化しているにすぎないと述べる。
[By contrast, Walton’s…]
一方でウォルトンの批判者たちは、意図をフィクションの理論に組み込もうとした。とくにカリーは受け手にメイクビリーブという態度を取らせることを意図する「虚構構成的発話fictive utterance」こそが、「フィクション制作fiction making」を特徴づけるグライス的コミュニケーション行為だと論じた。これはD. デイヴィスやラマルク&オルセンも同意している。
グライス的であるというのは、発話者が受け手に特定の命題Pをメイクビリーブしてもらうように望み、しかもそれが少なくとも部分的には〈受け手がそのような発話者の意図を認識することによって〉そうなることを発話者が望むということ。
この立場だとギリシャ神話はフィクションとして扱われているが、その制作者の意図(メイクビリーブではなく信じられるように意図している)からしてフィクションではないということになる。
p.153
作品の機能がどれほど正確に決定されるかについては議論の余地があるが、問題はウォルトンの〈想像を指定する機能を持つものがフィクションである〉という主張である。
ウォルトンが、作品の複数ある機能の内一つが想像の指定であればフィクションであると言うのであれば、それは私たちの日常的なフィクション概念よりかなり広いものになり、そこにはいわゆる「ノンフィクション」も含まれることになる。
[Any work that…]
メイクビリーブゲームの小道具としての機能を持つものが全てフィクションだとするのは問題があるだろう。まずバークリーの『ハイラスとフィロナスの対話』は[非実在の人物による架空の対話の記録を読むようにメイクビリーブするように指定するため]フィクションになる。またあらゆる意図的な非指示的non-referring名前を使用する作品は[それらが含まれる文に対してメイクビリーブするように指定するため]全てフィクションになる。
よって『シェイクスピアの登場人物事典』のようなものはウォルトンの主張によればフィクションになってしまうが、それはおかしいし本人も否定したがっている。
さらに歴史書や新聞記事や自伝、雑誌記事なども、ウォルトンによれば想像を指定すればフィクションになる。歴史書の多くは例えば〈自分がもしその時代や場所に生きていたらどうか〉を想像させる機能を持っている[のでそれらはフィクションということになるが、それはおかしい]。
またウォルトンによればメタファを含むあらゆるテクストや全ての画像もまたフィクションということになる。しかし私たちは比喩的な文章を含むだけでそれがフィクションだとは考えないし、報道写真や法廷画はノンフィクションだと見なす。
[Pointing out these…]
ただし以上はウォルトンへの批判にはなり得ない。というのもウォルトンの興味は私たちの日常的なフィクション概念を分析することではなく、メイクビリーブを指定する作品全般にある。また彼の「フィクション」概念が日常的なそれより広いことは彼も認めている。
彼は分析対象を「表象芸術representational art」と呼び、筆者は以下でそれを「ウォルトフィクションwalt-fiction」と呼ぶ。
p.154
[There are various…]
ウォルトフィクションは確かに、芸術鑑賞における想像力の役割について検討する際に役立つ概念かもしれない。しかし私たちの日常におけるフィクションとノンフィクションの区別の実践の分析には役に立たないだろう。
以下では狭い意味でのフィクションのみに関連するメイクビリーブ=想像について検討する。
2.想像的構築 Imaginative Construction
[There is one…]
(ウォルトン的でない)フィクションのみに関連する想像としてまず退けられるのは、伝統的な、心像mental imageryの経験としての想像である。というのも多くのノンフィクションとされるものにおいて、鮮やかなストーリーテリングによって書いてあることのイメージが喚起される(=想像的な構築を行う)ことは珍しくないと同時に、フィクションの全ての部分が必ずしも心像を喚起するわけではないからである。
p.155
[Of course, many]
物語要素を持つものはフィクションであれ、ノンフィクションも心像を喚起する(のでその区別は役に立たない)
[Perhaps we should…]
よって別の想像を採用する必要がある。ウォルトンによれば、フィクションは「虚構世界fictional world」を生成する点でノンフィクションと異なる。ただしこの「世界」は可能世界というよりは「虚構的に真」であることの集合であり、虚構世界がテクストに明示的に書かれること以上に詳しく想像されるということを示すための隠喩である。
ノンフィクションが信念を教え込むinstilのを目的とする一方で、フィクションは私たちの想像力の中で虚構世界を構築するように促すのだ。
[It turns out…]
しかしそのような[テクストから世界を構築する]想像的活動は、実のところフィクションに限られたものではない。テクストの限られた数の文から推論inferenceすることは、私たちのテクスト理解の前提である。フィクションであれノンフィクションであれ、テクストの登場人物や設定や時系列の理解のために、因果関係や歴史、心理学、地理、言説の慣習などの知識を利用しつつ、私たちは作品世界の「状況モデルsituation model」(Gerrig)を構築するのだ。そのような状況モデルとは、読者の想像力の中で構築される世界の複雑な表象と言える。
よって心像も想像された世界も、それが想像力の産物とされるとはいえ、フィクションに特有のメイクビリーブを規定するものとは言えない。
3.信念と想像 Belief and Imagination
[The reason for…]
以上から言えるのは、ある内容を想像=メイクビリーブすることと信じることは両立するということである。
そもそもフィクションにおける空隙を埋める虚構的真理は、明示的な虚構的真理と整合的である範囲で、現実における信念から輸入されたものである。私たちが虚構的に真であることを想像し、虚構的真理が信念を含む以上、私たちは信じるていることを想像することになる。
[Moreover, it is…]
また心理学においても、同じ事柄を想像すると同時に信じることは可能とされている。
Shaun Nicholsの引用するAlan Leslieの実験によれば、二つのカップにお茶を注ぐふりをした後に、一つのカップだけを逆さにして振ると、二歳の子どもでさえそれが「空になった」(そしてもう一方は「満杯である」)ことを理解する。そのとき子どもはカップが「空である」ことを想像していると言えるが、一方でそのカップが最初から現実では「空である」ことを信じてもいる。
[The obvious rejoinder…]
想像と信念は確かに対照的だが、その区別は内容にあるのではなく、それらの機能にあると言えるのではないかとNicholsは主張する。
その主張の一つの解釈は、想像が信念とメイクビリーブの両方に関与するにせよ、それらのプロセスの出力が異なる行動に結び付くといったものである。ノンフィクションでは[作品世界の]表象を私たちの信念に統合することになっているが、フィクションではそうしなくても良く、虚構世界の表象をそれ自体のために楽しむことができるのだ。
[Studies of the way…]
同様のことは心理学実験でも報告されている。被験者は題材がノンフィクションだと信じているとき、そこから得た情報を信念体系に「組み込む incorporate」傾向にある。一方で題材が作り上げられたものであると信じているとき、そこから得た情報を[現実とは]区別される状況モデルに「隔離する compartmentalize」傾向にあるのだ。
[While there is…]
しかし同様の研究は、フィクションとノンフィクションに対する反応にはっきりした違いが無いことも示している。
ノンフィクションを読んでいると考えるとき、被験者は情報を「組み込む」と同時に、記憶に「隔離された」一貫したストーリー表象を保持する。またフィクションを読んでいると考えるときも、受け手は多くの情報を信念に「組み入れ」てしまう。
いずれにせよ、テクストの情報は必ずしもすぐに、信念体系に「組み入れ」られるわけではない。フィクションであれノンフィクションであれ、読者がそこから選択的に「組み入れ」を行うような状況モデルを情報は通過する(pass through)のだ。
そもそも様々な要素が「組み入れ」と「隔離」の度合いに影響する。フィクションであっても「実話を元にした小説 roman à clef」の方が、信用できない自伝などより読者の「組み入れ」の度合いが高いことは考え得る。結局のところフィクションであれノンフィクションであれ、その反応は信念と想像の混合なのだ。
[Even if this…]
以上のような考えに対しては、それでも作品の目的によってフィクションとノンフィクションを区別できるのではないかという反論があるかもしれない。ノンフィクションは想像を喚起するかもしれないが、その目的は信念を生じさせることであり、フィクションは信念を生じさせるかもしれないが、その目的は想像を促すことにある、と。
しかしフィクションとノンフィクションがそれぞれ異なる目的を持つことは疑わしい。カポーティの『冷血』は実際の事件を題材にした「ノンフィクション小説」だが、その目的は報道のためというより文学的である。またアプトン・シンクレアの『ジャングル』はフィクションだが、アメリカの精肉工場の実情を伝えるために書かれたのだ。このように作品の目的によってはフィクションとノンフィクションを分けることはできない。
[Suppose we agree…]
しかし一方で、確かにフィクションとノンフィクションは目的を共有してしまうことがあるかもしれないが、しかしその手段は異なるのではないか。つまりノンフィクションの『冷血』は信念を促すが、それは信じるべき内容を明示的に主張することによってである。しかしフィクションである『ジャングル』はそうではなく、読者が想像する内容から推論することによって間接的に、読者に信念を生じさせるのだ。
つまり読者は様々な背景知識から、『ジャングル』におけるヨナスの言葉は20世紀初頭のシカゴの精肉産業に当てはまる(true of)と判断する。しかし小説に書かれた文字通りの命題(「ヨナスは~と言った」)は、ヨナスが存在しない以上真ではない。
そこで読者は内容を想像することになっている一方で、信じることにはなっていない。そのような想像しても信じない態度を「ミアメイクビリーブ mere-make-believe」と呼ぶ。これこそが狭義のフィクションならではのものだという議論を以下で紹介する。
4.ミアメイクビリーブ
[The hypothesis suggested…]
筆者の主張をまとめれば、フィクションは内容について読者に「ミアメイクビリーブmere-make-believe」を導くのに対して、ノンフィクションは信念を導くものとして定義できる。
そのような定義は、フィクションと呼ばれる作品のしばしば見られる特徴である「作り上げられている made up」という特徴に合致している。しかも「作り上げられている」要素を必ずしも持たない「ウォルトフィクション」より狭いフィクション概念を抜き出すことができている。
[ウォルトフィクションに含まれるがフィクションから除外したい作品の]例として、史実に忠実に書かれた、すべてが事実の主張として捉えられるような歴史小説(ふつうはノンフィクションであるニュージャーナリズムに分類される)は、上の規定では除外することができる[なぜなら信念を導いてしまうから]。
[Other philosophers offer…]
ただし他の哲学者たちは、それらのジャンルの作品をフィクションから除外するためには、作品がメイクビリーブを導く虚構的構成的発話の産物であるだけでなく、さらなる条件として虚構構成的内容、つまり作者の想像力の産物であるような内容を持たなければならないとした。
まずカリーはフィクションの条件を①虚構構成的意図の産物であり②内容が真であっても、それはせいぜい偶然に真でなければならない、とした。②によって真であるストーリーをメイクビリーブさせる作品を除外できる。
またデイヴィスもまた虚構的意図と内容の条件によってフィクションを規定しようとした。つまり①読者がメイクビリーブするような作者の意図があり、しかも②「[テクストの]出来事が実際に起こった仕方との一致が、発話者によって、テクストにおける出来事の配列(ordering)の満たすべき条件と考えられてはならない」。もし作者が逆にこの「忠実性条件 fidelity constraint」に従うならば、それはノンフィクションである。
ラマルク&オルセンもまた、フィクションにおいて出来事がどうであるかが虚構的発話によって決まるとすることで、以上の議論に同意している。
[Leaving aside the…]
以上の主張の前提は、ノンフィクションの内容は現実において出来事がどうであるかによって決定されるのに対して、フィクションの内容は作者によって決定されるということである。そしてフィクションの内容が作り上げられたものであってミアメイクビリーブを導き、ノンフィクションは信念を導くのだ。
しかし以上の考えはそれぞれのカテゴリーに弁別的distinctiveな反応を特定することに失敗している。
[First, we should reject…]
例えばイアン・フレミングの小説『007/サンダーボール作戦』における「バハマの首都であるナッサウを含む島であるニュープロヴィデンスは…」という言明は、真でありまたそう意図され、さらに読者が信じるための主張(assertion)だと思われる。もちろんそれを〈フィクションにおける言明であるから主張ではない〉とするのは論点先取である。
ここでの問題は、作品での言明がどの言語行為であるかが作品や作者に関して調べること無しには決定できないのは、フィクションでもノンフィクションでも同じだということである。ノンフィクションにおいても皮肉や誇張(hyperbole)の場合は、それを解釈するために背景情報が必要だろう。
[Leaving aside the…] p.160
しかもノンフィクションはしばしば「作り上げられた」要素を含む。最初に述べたようにDutchやMidnightは作り上げられた要素を含みつつノンフィクションとされるし、もしそれらがノンフィクションと認められなくても、現実にはあり得ない理想状態を措定する科学モデルの議論や、哲学における対話篇はミアメイクビリーブが適当であるのに、ノンフィクションである。
それらは少なくとも作者の声で主張を行っていないのであり、そこから信念が生成されるとしても、作られたシナリオのミアメイクビリーブを通じてでしかない。
[To takle a yet…] p. 160
また他にも古代におけるトゥキディデスやタキトゥスによる歴史書には、証拠の不足やスタイル上の要請のために、作者による創作(特に演説や戦争の描写など)が含まれる。確かにそれはある程度事実に基づいているが、言明を文字通り信じるわけにはいかない。
[Significantly, Tacitus doers…] p. 161
例えばタキトゥスは『年代記』において、ティベリウスがアグリッピナの英雄的行為を目撃した際の内的独白を長々と創作したのであり、そのような心の内の「内的視点 inside view」は明らかに虚構性の印とされるだろう。
[Asa far as…] p. 161
それにもかかわらずトゥキディデスの『戦史』やタキトゥスの『年代記』『同時代史』はノンフィクションとしての歴史書として認められている。
一方でそれらは作り上げられた要素においてミアメイクビリーブを要請するのだから、ミアメイクビリーブがフィクションならではのものと言うことはできないだろう。それはフィクションの必要条件ではあるかもしれないが、十分条件ではあり得ないのだ。
5.フィクションを定義する
[The considerations of…] p. 161
以上のようにCurrieやDaviesのミアメイクビリーブによってフィクションの必要十分条件を与えようとする試みには問題がある。そこで考え得るのは、単独の言明の性質としての虚構性に話を絞ることである。以下ではLamarque & Olsenの主張の後にそのようなアプローチを検討する。
[Lamarque and Olsen…] p. 161
Lamarque & Olsenもまた虚構構成的発話がフィクションに必要だと述べる点で、CurrieやDaviesと同様の批判を被る。しかしL&Oは虚構構成的発話の意図と読者がそれに従うことが成立するためには、両者が「ストーリーテリング慣習storytelling convention」を共有していることが必要とする点でその他の虚構構成的発話論者と異なる。この慣習を共有することで読者は「虚構構成的構えfictive stance」を取って、作品の言明を作者の信念と分離させることができる。
[Their acknowledgement of…] p. 162
L&Oは慣習を考慮することで、古代の歴史書のような境界事例に対処しようとしている。
しかし彼らの関心は現在のフィクション実践にあり、彼らはフィクションの実践が時代によって変化することを認識しつつも、フィクションに特徴的な脚色などを含みつつメイクビリーブを導かない古代の歴史書などは過渡的transitionalなものに過ぎないとされてしまう。
[It is certainly…] p. 162
しかし過去の作品のジャンルが、私たちのフィクション概念とすべての特徴を共有していないからといって、それを「過渡的」と見なすのは適当ではない。私たちのフィクション=〈虚構構成的構えを導く虚構構成的発話〉は私たちにとって典型的だが、それをストーリーテリング慣習の発展のゴールとする必要は無い。
結局タキトゥスのような境界事例(ミアメイクビリーブを導くのにノンフィクション)を説明出来なければ、フィクションの一般理論として十分とは言えない。
[Further more, because…] p. 162
しかも(ノン)フィクションの慣習は現在も変わり続けている。ミアメイクビリーブを導く虚構的発話を含むDutchやMidnightがノンフィクションとされるのは、1960年代にニュージャーナリズムが慣習を変えたから。
それらを周縁的だとしても、トゥキュディデスやタキトゥスは私たちの(ノン)フィクションの分類の中心に位置するのであり、それらの分類において私たちは現在の慣習だけでなく過去の慣習も考慮している。
また歴史小説の多くの部分が信念を要請する主張であることからも、メイクビリーブでは実例の複雑さを説明できないことがわかる。
[Perhaps, though, actual cases…] p. 163
Currieは一方で、フィクション作品ではなく、それらに共通する要素としての言明statementの虚構性に焦点を当てるべきだと述べる。
水分子の含有量が、対象が水と見なされるかを決定しない(汚れた水より紅茶の方が水分子を多く含むが、水と呼ばれるのは前者)ように、虚構文の量は作品がフィクションかどうかを決定しない。虚構文はフィクションの必要条件かもしれないが、十分条件ではないのだ。
[Yet the analogy…] p. 163
しかし科学者たちが水ではなく水分子の研究をするのは、後者が自然種であるという正当な理由があるのに対して、フィクションにおいてはどうだろうか。そもそもフィクション作品に「分子的」な本質は存在するのかという問題がある。
Currieは作品がフィクションであることが、それを構成する言明が虚構文であることに依存すると述べた。しかし筆者は代替案として、逆に作品を構成する言明が虚構文であることが、作品がフィクションであることに依存するという見方を示す。この場合何が作り上げられたものであるか(虚構文であるか)によってフィクションを同定しようとするのは論点先取になる。
[Our concern with…] p. 164
結局のところ、ある作品が(ノン)フィクションであるかどうかについて、何が問題になっているのだろうか。
例えばDutchについて問題になっているのは、作品のどの部分が信じられ、どの部分がミアメイクビリーブされることになっているかという点ではない。ここで問題になっているのはどの部分が信じられ、どの部分が信じられることになっていないかという点である。つまり信念の形成の際に、作品のどの部分が主張であり、どの部分が作り上げられたものであるかを知るのは重要である。
しかしそのように作品内の言明を主張と非主張に分類することは、テクストに全体としてどうやってアプローチするべきかを知ることとは別の事柄である。
[There seems to…] p. 164
何かをフィクションとして読むことと、ノンフィクションとして読むことには違いがある。例えばDutchの虚構化された語り手fictionalized narratorは、ノンフィクションとしては革新的で注目に値する要素だが、フィクションとしてはそのような効果を持たない。ウォルトンの「芸術のカテゴリー」に則れば、それはフィクションに標準的、ノンフィクションに反標準的な要素なのだ。
標準的・反標準的・可変的特徴の分類は作品全体に対するものだから、テクストのカテゴリー分けは作品全体の読解や鑑賞に影響を及ぼさなければならない。
結局ミアメイクビリーブを促すのはフィクションの標準的特徴であり、信念を促すのがノンフィクションの標準的特徴であるが、実践や慣習の多様性を鑑みれば、それらの標準的特徴を決定的definitiveなものと考えるべきではないのだ。
6.フィクションと想像力
[Does this mean…] p. 165
フィクションとは何であるのかに関して、今までの研究は作品や個別の言明に着目してきた。しかし本当に目を向けるべきは私たちのテクストとの関わりを支える実践である。
L&Oは確かにジャンル慣習に着目したが、彼らはそのような慣習が単一であると考えた点で誤っている。筆者は、何かがフィクションであるということは、それが関連する実践(それは特定のジャンルに結び付いている)の中に埋め込まれているembeddedことだと述べる。
そのような実践への埋め込みはテクストの内在的特徴だけでなく、作品の起源(作者の意図)によっても為される。ただしそこでの意図は、信念や想像を導く意図ではなく、特定のカテゴリーにおいて作品を制作しようとする意図なのだ。
タキトゥスが歴史書でミアメイクビリーブする要素を持たせたことは、それがノンフィクションであることと矛盾しない。それがノンフィクションであるのは、タキトゥスがそのジャンルにおいて作品を生み出そうとしたからなのだ。
[A different question…] p. 165
ではある実践をフィクションの実践とするものは何なのだろうか。それは作者がその創造的想像力を用いて受け手をミアメイクビリーブに参与させることを許すという[実践の]目的である(the purpose of allowing authors to use their creative imaginations to engage audiences in mere-make-believe)。
Anthony Savileによれば、発展した文学実践は作り上げられたinvented登場人物や状況を必要とし、一方でノンフィクションジャンルの実践は、特定のノンフィクションジャンル慣習が作り事を許すとはいえ、他の目的によって正当化される。
フィクションやノンフィクションの書き手はともに様々な目的のため作品を制作する:楽しませるため、導くため、説得するため等。しかし作品をノンフィクションではなくフィクションにしようとした作者は、その目的のために正確さの慣習を拒絶するのだ。
もちろん慣習は時代によって変化する。ティベリウスの内心をミアメイクビリーブするように導くことは、タキトゥスの時代ではノンフィクションで許容されたのだ。
[A definition of…] p. 166
ではフィクションはノンフィクションの慣習を破壊することで生まれたものなのかという人が居るかもしれない。しかしフィクションを制作することと、ノンフィクションの慣習に挑戦することは異なるものである。Dutchにおいて為されたのは後者であり、だからこそそれは挑発的provocativeになったのだ。
いずれにせよ、作品のフィクションやノンフィクションへのカテゴライズは、作品の解釈や批評にどの基準が適用されるかについて教えてくれるものでなくてはならない。私たちはフィクションの必要十分条件を求めることを諦め、それらの実践の特徴を検討することに集中すべきだ。
*1:例えばこの論文の筆者自身も主張を発展させてフィクションをジャンルとして定義したり("Fiction as a Genre" (2012))、Catharine AbellはFiction: A Philosophical Analysis (2020)でフィクションを想像を伝達する制度として定義している。またフィクション定義のキータームである想像概念についても、Bence Nanay("Against Imagination" (2023))やPeter Langland-Hassan(Explaining Imagination (2020))など消去主義や別の心的状態への還元主義を取る人も居る
ジェシー・プリンツ『はらわたが煮えくりかえる——情動の身体知覚説』第1章レジュメ
源河亨訳。読書会用のメモです。
第1章 導入――情念(passion)の切り分け
情動(emotion)が持つさまざまな要素[p. 1]
- 情動エピソードは様々な構成要素を含む:ex. コンテストで賞を獲って高揚する
- 思考:熱望していた賞を獲った
- 身体変化:口が開く、顔が紅潮する、心臓がドキドキする
- 注意などの心的処理の変化:周囲が輝いて見える、過去の良い記憶の想起、自画自賛
- 意識的な感じ(feeling):天にも昇るような震え
- 以上のエピソードの内のどれが「情動(emotion)」なのか?
- 以上のどれが情動の本質なのか?という問題を「部分の問題」と呼ぶ
さまざまな情動理論[p. 2]
-
素朴心理学・日常的な直観:情動とは感じである
- 経験的調査によれば多くの人は情動の構成要素のうち「感じ」を最重視している
- また(感じとしての)情動の結果として身体変化がやってくると考えられている
- ex. 恥ずかしさ→顔の紅潮
- また(感じとしての)情動の結果として身体変化がやってくると考えられている
- 哲学者はバイアスがかかっており「思考」が重要と考えている
- 経験的調査によれば多くの人は情動の構成要素のうち「感じ」を最重視している
-
身体感じ説(ジェームズ、ランゲ):情動とは身体変化の感じである
- 鼓動が速まる(身体変化)のを感じずに高揚感(感じ)を得ることはできないので、身体システムの変化は感じに先立つ
- また身体感じ説(somatic feeling theory)は素朴な感じ説を包含している
- 情動が感じであり、それが身体変化によって経験されるのであれば、情動とは身体変化の感じである
-
ダマシオはジェームズと少し異なる身体感じ説を唱える:情動とは身体状態への神経反応である
- 違い①:現代における「身体的システム(somatic system)」とは呼吸器系・循環器系・消化器系・筋骨格系・内分泌系を含み、その変化は表情の変化・鼓動の速まり・ホルモンの分泌なども含む
- ダマシオにおける身体変化は、内臓や表情だけでなく、ホルモンレベルの変化など脳における化学的変化も含む
- 違い②:またダマシオは実際の身体変化を経由せず、身体変化に関わる脳部位の活動だけで情動は成立すると考える
- 身体変化をスキップした情動経験を「あたかもループ(As-if loop)」と呼ぶ
- 視覚イメージ(心像のこと?)を形成する際に視覚中枢が活動するように、身体変化をイメージする(imagine)ことで関連する脳領域が活動し、情動が生じ得る
- 違い③:身体変化の感じは意識的な気づき(conscious awareness)を必要としない
- 身体変化に対する非意識的な神経反応も情動に含める
- よってダマシオの説は(意識的な)感じを必要としないため、情動の身体説と呼ぶべき
- 違い①:現代における「身体的システム(somatic system)」とは呼吸器系・循環器系・消化器系・筋骨格系・内分泌系を含み、その変化は表情の変化・鼓動の速まり・ホルモンの分泌なども含む
-
- ダーウィンによれば恐怖を感じたとき毛が逆立つのは、有毛哺乳類が危険な状態に毛を逆立てて身体を大きく見せたためである(進化論的説明)
-
ダーウィンから、情動を神経反応ではなく身体変化によって傾向づけられる行動だという理論も取り出せる:行動説
- ライル:情動用語が指すのは、内的感じではなく様々な(外的に看取可能な)行動を取る義務や傾向性である
- パニックという情動(?)を経験する=体がこわばったり叫んだりしがちであること
- スキナー:情動とは行動が生じる確率への影響(の一つ)である
- 怒っている人は相手を殴る確率が高く、手助けする確率が低い
- ワトソン:情動は報酬や罰に対する生得的な行動反応である
- 赤ん坊はなでられると喜びを示し、身動きできないと泣く
- ロールズ:行動説と内的状態の説明の折衷説
- 情動は報酬や罰に対する反応かもしれないが、それは内的なものである
- ライル:情動用語が指すのは、内的感じではなく様々な(外的に看取可能な)行動を取る義務や傾向性である
-
情動を認知的操作への影響と見なす認知科学者たちの主張
- カテゴリー分け・記憶・注意・推論などの認知的操作は情動と近しい関係を持つ
- 過去の記憶はそのときと同じ情動を持つと思い出しやすい
- ポジティブな情動はステレオタイプの利用を促進する
- ポジティブな情動はクリエイティブな推論を手助けする
- ネガティブな情動は注意の対象を狭めてしまう
- ネガティブな情動は自己をより正確に認識するのを手助けする
- 以上を踏まえ情動を注意・記憶・推論などの能力の変化と見なすのが処理モード説(processing mode theory)である
- カテゴリー分け・記憶・注意・推論などの認知的操作は情動と近しい関係を持つ
-
情動の本質は、それに伴う認知(思考)である:認知説
- 例えば「デートに誘われた」という状況には特定の信念や欲求が伴い、それによって情動が影響を受ける
- 危ないストーカーから誘われた→恐怖
- その誘いは冗談だった→怒り
- 自分もデートしたい→喜び
- 情動=思考と考える「純粋な認知説」は古くから哲学者に人気がある
- ヌスバウム:情動とは、出来事を価値づける解釈(「価値付加的な見かけ(value-laden appearance)」)を承認する判断である
- 家族を失う→重大な損失と価値づける
- その上で情動が成立するには、その価値づけを正当化する別のメタ判断が必要ということ
- 家族を失う→重大な損失と価値づける
- 情動には判断(信念)だけではなく、欲求や願望などの認知的状態が必要とする人も居る(ゴードン、ウォルハイム)
- ワーナー:Xがある行為Φを楽しむ ⇔①XがΦする②Φがある性質を持ち、かつΦすることでその性質が生じることを望む③Xはその欲求をそれ自体のために持つとき(①⋏②⋏③)
- しかし~~情動に本当に判断を必要とするかは怪しいし、~~またΦが望ましい性質を持つかどうかは楽しんだ結果としてわかるのであり、逆ではないのではないか
- ワーナー:Xがある行為Φを楽しむ ⇔①XがΦする②Φがある性質を持ち、かつΦすることでその性質が生じることを望む③Xはその欲求をそれ自体のために持つとき(①⋏②⋏③)
- 情動を持つとは解釈することであるとする論者たち
- アーモン-ジョーンズ:対象に情動を持つ=対象が特定の性質を持つと想像する
- 対象を恐れる=対象が危険であると想像(解釈)する
- ロビンソン、ロバーツ:情動は主体の関心や欲求に基づく対象の解釈である
- アーモン-ジョーンズ:対象に情動を持つ=対象が特定の性質を持つと想像する
- 欲求を認知的状態と見なすかどうかは意見が分かれるが、それでも広い意味での認知的状態とするのが一般的である
- 例えば「デートに誘われた」という状況には特定の信念や欲求が伴い、それによって情動が影響を受ける
複合理論[p. 12]
-
以上の理論はおおよそ、先に挙げられた情動の諸要素の一つと情動を同一視している
- ただし身体感じ説だけは別:身体感じ説は〈身体的反応+意識の感じ〉の複合理論である
- そのような複数の要素で情動を構成する複合理論は歴史的にも多く見られる
-
アリストテレス:情動は感じと欲求の両方が含まれる
- 怒り⇔復讐したいという痛ましい(←感じ)欲求(←認知)
- またアリストテレスは情動には質料(身体)と形相(認知)の双方を必要とすると考えたので、情動の感じ・認知・身体を含めた複合理論を唱えたとも言える
-
デカルト:情動経験は身体が行為に備えることの経験である
- 感じに身体が先立つ点でジェームズ-ランゲ説の先駆けだが、情動には認知も含まれると考えた点で異なる
-
ヒューム:情動とは意識的な感じに対する二階の感じ(印象)である
-
ヒュームの用語法によれば:「情動とは、別の印象(impression)ないし観念(idea)によって引き起こされる二階の印象である」
- 例えば:イノシシに遭遇→イノシシの視覚的イメージとしての印象①を形成→印象①を原因に〈恐れ〉という印象②を形成
- ここで重要なのは情動(印象②)はその原因(印象①)や他のいかなるものをも表象しないということ
📌 この点は情動が対象(の価値)を表象すると考える現代的な理論と対立するということか
-
ただしヒュームは情動は、単なる意識的な感じであるだけでなく、行動を強いる力を持つと考えた
- 例えば恐怖は逃げたいという欲求の感じを持つ
- この点でヒュームの説は〈感じ+行動〉説である
-
しかもヒュームは情動(印象②)が他の思考を引き起こしたり、それらに引き起こされる必要があると考えた
- 例えば〈誇り〉は「自己についての考えを引き起こす感じ」であり、そこでは自己に関する観念が必要になる
- よってヒュームは感じや行動だけでなく、認知もまた情動に必要としていた
-
-
以上の理論は「純粋でない認知説」とまとめることができる:情動の中心は認知だが、他の要素も関連しているという見解
-
心理学者たちは純粋でない認知説の一種の「認知的ラベルづけ説」を支持している
- シャクター&シンガー:情動は身体変化とそれに対する認知的解釈の両方が含まれる
- 身体変化(覚醒状態)→身体変化の解釈(ラベルづけ)→情動
- 鼓動の速まり→高揚していると認知→高揚
- 鼓動の速まり→恐れていると認知→恐怖
- 身体変化(覚醒状態)→身体変化の解釈(ラベルづけ)→情動
- 認知的ラベルづけ説によれば、情動の原因は誤って帰属され得る
- 実験:ビタミンと言ってアドレナリンの注射を打たれた被験者が二つの異なる条件に置かれる
- 不愉快な質問用紙に答え続ける状況
- 仕掛け人が紙飛行機を折ったり、テーブルの上に立ったり、フラフープで遊んでいる状況
- 結果:1の被験者は怒ったりする負の情動反応、2の被験者は楽しんでいる情動反応を見せる
- 考察:身体的状態は同様でもそれにどんなラベルを貼って認知的に解釈するかによって、異なる情動を経験するのではないか
- ラベルづけの際には文脈や背景的知識が用いられている
- 実験:ビタミンと言ってアドレナリンの注射を打たれた被験者が二つの異なる条件に置かれる
- シャクター&シンガー:情動は身体変化とそれに対する認知的解釈の両方が含まれる
-
認知的ラベルづけ説は身体反応(自律神経系統の反応)は認知に先立つと考えているが、逆に思考が形成されることで身体反応が生じるという「認知原因説」を唱える心理学者や哲学者も居る
- 代表的な認知原因説が多次元評価説である
多次元評価説[p. 18]
- 評価(appraisal)はマグダ・アーノルドの用語で、「対象が自分に重要な影響を与えると見なすこと」である
- 情動は常に(複数の次元の)評価を含み、それによって個別化される(異なる情動になる)
- 状況が有益が有害か
- 状況に関わる対象が存在するかどうか
- 対象を獲得・回避することが簡単か難しいか
- 例えば「喜び」という情動は1に関して有益、2に関して存在する、3に関して獲得しやすいという評価を下すことで成り立つ
- しかしアーノルドの三次元評価では十分に情動を個別化できないかもしれない(怒りと嫌悪は1,2,3に関して同一の評価を下している:有害、存在、回避困難)
- 情動は常に(複数の次元の)評価を含み、それによって個別化される(異なる情動になる)
- ラザルスは六次元の評価のパラメーターで情動を記述しようとした
- 一次評価:情動的な重要性を決める
- 目標との関連:対象(状況)との関わりが自分の目標に関連するかどうか
- 目標との一致:対象が自分の目標を促進するか(→正の情動)妨害するか(→負の情動)
- 自己との関与タイプ:対象とのかかわりが自分の何に関連するか
- アイデンティティ、道徳的価値、人生の目標など
- 二次評価:主体の対処方針を決める
- 非難か賞賛か:状況との関わりにおいて誰に責任があり、その人を非難・賞賛すべきか
- 対処能力の有無:関わりの結果として生じるものを扱いきれるか
- 将来の見込み:事の成り行きが自分の目標と一致しそうかどうか
- 例:怒り
- 目標との関連:関連する
- 目標との一致:一致しない
- 自己との関与タイプ:自尊心、社会的信頼、アイデンティティ
- 非難・賞賛:誰かが非難されるべき
- 対処能力:攻撃できる
- 将来の見込み:攻撃によってより目標に近づく
- 以上の六次元の評価を「分子評価」と呼び、さらにそれを要約したものを「モル評価」と呼ぶ。後者は「中心関係テーマ(core relational themes)」を表す。
- 中心関係テーマ:怒りだったら「自分に対する侮辱的侵害」、恐怖だったら「身の危険」、悲しみだったら「取り返しのつかない喪失の経験」など
- マーの心的システムの三つのレベルに則れば、モル評価は計算論的なレベル(心が遂行する課題)、分子評価はアルゴリズムレベル(課題を果たすための規則や表象)に当たる
- 一次評価:情動的な重要性を決める
- 多次元評価説は支配的な理論である:情動がランダムな感じではなく、世界と私たちの関係を伝え、それに対する確信を示し、行為の原因となるという直観を反映しているから
- (多次元)評価説がコミットしているのは、①評価が情動に先立ち②評価は認知的であり③評価は多次元であるということ
- 筆者は以下でこれらすべてに反論する
- (多次元)評価説がコミットしているのは、①評価が情動に先立ち②評価は認知的であり③評価は多次元であるということ
部分から多数へ[p. 23]
多数の問題[p. 23]
- 上の多次元評価説は認知的原因説の一種である:認知的評価によって情動が引き起こされると考えるため
- しかし多次元評価説は〈評価=情動〉としているわけではない。あくまで評価は情動の必要条件でしかなく、評価に加えて他の要素も必要となると述べる
- しかしそうすると問題は、情動に含まれる認知以外の要素は何であるかということになる
- ラザルスは生理学的反応(身体反応)や行動傾向を含める
- アーノルドは生理学的反応に加えて感じられる行動傾向を含める
- さらに多くを情動に含める理論家もいる:包括説
- フライダ、エクマン:行動傾向、思考、感じ、身体変化のすべてが必要
- 包括説は情動に関するすべての側面を扱おうとするが、問題はそれではそれらの多数の要素を一つにまとめているものがわからず、情動とは何かがわかりにくい点
- 言い換えれば、それらの多数の要素がなぜ情動となるのに本質的であるかの説明が必要になってしまう
- →これを「多数の問題」(⇔部分の問題)と呼ぶ。
- 多数の問題に答える三つの方向性
- 多機能複合説:情動は単一の状態であるが、その状態は複数の要素に対応する
- ex 身体感じ説:情動が身体変化と感じの複合した「身体反応の感じ」という一つの状態であるとする
- 多要素複合説:情動は複数の状態から構成されたものである
- ex. シャクター&シンガー:情動は身体状態と認知的ラベルという相互に独立した状態を組み合わせたものである
- 必要条件複合説:特定の要素が情動のために必要だが、その要素は情動そのものではない
- ex. 多次元評価説:認知的評価が情動のために必要だが、それは情動そのものではない
- 多機能複合説:情動は単一の状態であるが、その状態は複数の要素に対応する
- 多機能複合説は多数の問題に対して最も明確な答えを出している
- 情動を形作る複数の要素と思われるものは、実は一つの状態の異なる側面に過ぎない
- 一方で多要素複合説や必要条件複合説は、何が複数の要素を一つにまとめているかに対して、評価(ラザルス)や行動傾向(フライダ)など中心として要素をまとめる要素を定めている
- しかしそのような方向性は再び部分の問題を提起する:どれが情動の複数の要素を中心となってまとめているのか?
以降の予告[p. 27]
- 筆者は部分の問題と多数の問題に対する新しい解決方法を提案する
- その際に答える10個の問い(と簡単な答え及び扱う章)は以下のようなものである
- 情動は必ず認知を含むのか?
- →持たない(第2章)
- 情動が何かを表象するなら、何を表象するのか?
- 中心的関係テーマ(第3章)
- 情動は自然種なのか?
- →自然種である(第4章)
- ある種の情動は普遍的なもので、生物学的な基盤を持つのか?
- →生物学的に基本的な情動は核として存在する(第5章)
- 情動は文化的に決定され得るのか?
- →情動は一方で社会構成主義的に構成される(第6章)
- 情動は他の感情的なものとどう関わるのか?
- →気分は情動の下位分類である(第9章)
- →動機づけは情動とは独立の心的状態だが情動は動機を与える(第7章)
- 正の情動と負の情動を分けるのはなにか?
- 意識的な感じでは区別されない(第7章)
- 情動的意識の基礎は何か?
- 情動的意識はその他の意識と統一的に説明できる(第9章)
- 情動は知覚の一種なのか?
- 情動は知覚であり、正確に言えば単なる身体の知覚ではなく、私たちと世界の関係の知覚である(第10章)
- 情動は多くの要素的部分を持つのか?
- 情動は部分の集まりではないという意味で単純だが、複雑な結果と情報処理の役割を持つ(おわりに)
- 情動は必ず認知を含むのか?
- その際に答える10個の問い(と簡単な答え及び扱う章)は以下のようなものである
M. Green「フィクションと認識的価値」(2022)論文紹介
Mitchell Green, Fiction and Epistemic Value: State of the Art, The British Journal of Aesthetics, Volume 62, Issue 2, April 2022, Pages 273-289, https://doi.org/10.1093/aesthj/ayac005
論文について
本論文は2022年にBJAのフィクション特集号に掲載された分析美学におけるフィクションの認知主義に関する最新のサーヴェイ論文である。フィクションから知識は得られるのか、そして得られるとしたらそのような知識はどんな種類のものなのかという問題に関するフィクションの認知主義から、近年のフィクションから得られる認識をより広く「理解」とする新認知主義までを踏まえつつ、「語ること」と「見せること」などの区別を用いてこの分野の全体図を描き出している。
筆者のミッチェル・グリーンはアメリカのコネチカット大学の哲学科教授。専門は言語哲学、心の哲学、美学。言語哲学や自己知、自己表現に関する著作がある。
アブストラクト(訳)
私たちは、フィクションがそれに対して十分かつ適切に参与する[engage]者に対する認識的価値の源泉となり得るかどうかの問題に関する、近年の目立った研究を批判的にサーヴェイする。そのような認識的価値は(「認知主義者[cognitivists]」にとっては)知識[knowledge]、あるいは(「新認知主義者[neo-cognitivists]」にとっては)理解[understanding]の形を取るかもしれない。どちらの陣営もフィクションの認識的価値を、語り[telling]の形での作者による参与の点から説明するか、あるいは何らかの物事の状況が生じるのを示すこと[showing]を通して説明する主張の間のさらなる区別によって分類されるだろう(後者の特殊な例が自己知の提供である)。語るよりも示すようなフィクション作品はしばしば思考実験を利用する。またある種のフィクション作品の認識的価値はそれらが共感[empathy]を可能にすることによって示され、共感それ自体は経験取得[experiencing-taking]の心理的過程を用いて明らかにされる。フィクション作品が認識的価値を提供するのが語ることによってか示すことによってかのどちらであれ、原則としてフィクション作品は提供するすものについてうまくやり遂げる[deliver on]ことに妨げは無く、そして認識的な注意深さ[vigilance]を持つフィクションの消費者は知識あるいはいくらかの程度の理解を、フィクション作品に参与することによって得られるだろう。
1.イントロダクション
小説や映画、演劇、歌詞のある音楽などのフィクションに関して、その消費者や批評家たちはなんらかの認識的価値(例えばそれらの人々の人生や人間の条件に関する洞察)を持つ。例えばレマルクの小説『西部戦線異状なし』によって、戦争の語り得ない恐怖や、政治家や将校の人間の苦しみへの無関心を学ぶことができるように思えるのだ。またフィクションにおける登場人物と自分との類似性や、物語への自分の反応に着目することで、自分自身について学ぶことができると言う者も居る。またポール・ブルーム流にはフィクションは「現実について学ぶ痛みの無い方法」なのだ。
しかしそのようなフィクションの認識的価値には疑義が呈されており、それには意味論的なものと語用論的なものがある。意味論的な異論とは、フィクション作品における文の多くが含んでいる名前(「帽子屋」「五月ウサギ」など)は現実世界のなにものも指示せず、よってそのような文は(フィクション作品においては真だが)現実においては真ではないというものである。語用論的な異論とは、作者は(一定の制限の下で)フィクションを作り上げるのであり、私たちはフィクションにおける物事を想像するが、だからといってそれを[現実世界の事実として]学ぶとは言えないというものである。その代わりに私たちはフィクションからその作品世界において何が真であるかや、あるいは作者の精神や制作時の社会状況を学ぶのだ。
またフィクションの作者の制作に制限があり、それは想像的抵抗とジャンルによる制約の二つである。さらにフィクションの認識的価値に関して、作品世界を可能世界として捉えることで認識的価値を確保する論者も居るが、消費者は物語のテーマが真であるような可能世界が存在すると考えるのではなく、現実世界にそのテーマが通用すると考えているのだという点からそれを否定する。
2.認知主義、新認知主義、そして補助的概念
まず以下の議論で用いる主要な概念について明らかにする。
フィクション:ノンフィクションが一連の主張[assertion]である一方で、フィクションとはその内容が受け手によって想像あるいはメイクビリーブ[make-believe]されるという目的を持った一連の発話である。フィクションは多くの場合物語を持つが、俳句のような非物語もフィクションになり得る。
ジャンル[1]:歴史小説は扱う時代の知られている事柄を守らなければならないし、小説がメタフィクションであるためには文学形式やストーリーテリング、自身の人工物としてのステータスなどに言及しなければならない。またもし読者が作品がハードSFであると知っているならば、それはその作品で生じる事柄が現実の物理法則と矛盾しないとする根拠になる。
力[force]とフィクション:日常言語において言葉はその叙法[moods]に応じた力を持つ。つまり直説法は主張、命令法は命令の発令、疑問法は疑問を呈するのに用いられる。同様にある種のフィクションは主張を行い、別の作品は命令を行うというように考えられる。教訓的[didactic]フィクションは主張を行い、『ピノキオ』のような警告的[cautionary]なお話しは命令、また他のある種の作品は疑問を提示する。
知ること[knowing]と理解すること[understanding]:フィクションから得られる知識は命題的[propositional]、実践的[practical]あるいは経験的[experiential]な形を取る。命題的知識をXに帰するとき「X knows that…」、実践的知識は「X knows how…[2]」といった形で表すことができる。一方で経験的知識は「X knows how grief feels / what it’s like to be ostracized」などの種の補部[complement]を用いて表される。それぞれ命題的知識は正当化された真なる信念、実践的知識はその人の能力によって達成が可能であること、経験的知識は鮮明かつ正確に(例えば)悲しみを感じるのを想像できることによって説明される。
そして知ることと理解することは認識論において様々な仕方で区別される。Grimmにおいては理解とは事象の原因を知ることであり[3]知識の一種であるが、Elginにおいては理解とは⑴全体論的(一つの命題というより理論全体に関わる)で⑵程度的である(深い理解や浅い理解がある)という特徴づけが為され、知識とは概念的に区別される[4](筆者はElginの定義を採用しているように読める)。
二つの図式的[schematic]テーゼ
以上の前提を踏まえ、フィクションの認識的価値を擁護する立場について論じる。まず二つの立場について定式化する。
フィクションに関する認知主義(CF):フィクション作品は、それに十分かつ適切に参与する者に対して知識の源泉となり得る。
Cognitivism about Fiction (CF): works of fiction can be sources of knowledge for those who engage fully and appropriately with them.
フィクションに関する新認知主義(NCF):フィクション作品は、それに十分かつ適切に参与する者に対して理解の源泉となり得る。
Neo-Cognitivism about Fiction (NCF): works of fiction can be sources of understanding for those who engage fully and appropriately with them.
ここで両者は作品から得られるものが知識であるか理解であるかで対比されている。以下ではそのような認知主義がどのように擁護し得るかのケーススタディが行われる。
3.語ることと示すこと
フィクションの認識的価値についてまず私たちが自然と考えるのは、作品が明示的、あるいは暗示的な方法(例えば語用論における前提[presupposition]や含み[implicature]などによって)で示す主張[assertion]やそれに類するものを作中で探す、というものである。明示的な場合には私たちは、作者に帰せられるような語り手や登場人物の主張を見出すことになる。
しかしフィクションが認識的価値を提示するのは、主張のような発話内行為[illocutionary act]に限られない。つまり地図は何らかの発話内行為を行うわけではないが、目的地への道を知ることができるという意味で認識的価値を持つ。この点について筆者は以下のように語ることと示すことの区別を用いて述べる。
以上の事実に必要なものを提供するために、私たちは分析哲学の基礎を成す著作(Geach 1976[5])の重要点である区別を思い出すだろう。つまりそれは言うことと示すことの区別である。前者のみが発話内行為である[…]。対照的に、地図の例が明らかにしたように、示すことは行為者や人工物が、発話内行為である必要のない仕方で、事実を明らかにすることによって達成されるだろう。[…]私たちの関心に近いところでは、化学者は化学物質C1とC2を混ぜ合わせることによって、どうやって特定の反応Rが生じるのかを実演するかもしれない。そうするときに化学者はC1とC2が一緒にRを生じさせると主張したり他の仕方で発話内行為を遂行したりする必要は無い。よって同様にフィクション作品の作者も、人の持つナルシズムがその人をどのようにして困難に導くかを、作品の(居るとして)語り手や登場人物の発話が何であれこの[主張などの]主旨で発話内行為を遂行すること無しに、示すかもしれない。
To accommodate this fact, we may recall the distinction, a lynchpin in the foundational works of analytic philosophy (Geach, 1976), between saying and showing: only the former is an illocutionary act […]. By contrast, and as the map case establishes, showing may be achieved by virtue of an agent or artefact making a fact manifest in a way that need not be illocutionary. […] Closer to our concerns, a chemist might demonstrate how a certain reaction R works by mixing chemicals C1 and C2. In so doing, she need not assert or otherwise illocute that C1 and C2 jointly produce R. So, too, an author of a fictional work might show how a person’s narcissism leads him into difficulty without the narrator of the work (if there is one) or any characters’ utterances illocuting anything to this effect.
語ることと示すことという区別によって、発話内行為を遂行しない後者によっても何らかの認識を与えることができる。フィクションも同様に、何らかの主張を直接行うこと無しに、認識的価値を持つことができるのだ。
4.(新)認知主義の変種
この節ではフィクションの認識的価値を擁護する7つの主張を検討する。最初の4つは上での「語ること」によって、残りの3つは「示すこと」によって与えられる認識的価値である。
証言[testimony]
フィクションにおいて作者は作中においてのみ真であるだけでなく、真面目な主張として意図した言明を行うことがある。例えばE.M.フォースターの小説『ハワーズ・エンド』では「私たちが死を不誠実かつ不条理なものと思ったとき、私たちは既に旅立ちに折り合いをつけるのに成功しているのだ[6]」とあるが、これはフィクションにおける虚構的真理というよりは、(現実で真であることを意図した)主張だというのだ。また筆者は歴史小説によってその時代の習俗について知ったり、戦記物によって地雷の除去方法を学んだりすることを証言の例に挙げる。
以上のようなフィクションにおける真面目な主張(に見えるもの)については近年議論が行われているという。Currieは主張として受け取られる発話は同時に想像されることはできないと主張し、フィクションが虚構文と主張的文のパッチワークであると主張した。一方でFriendやStockは一つの発話が同時に虚構的かつ主張的であることができると考え、またKripkeとAlwardは上のような文がフィクション作品の中に置かれるとき、それは主張的ではあり得ないと考えた。KripkeやAlwardのような立場においてはフィクションが知識や理解を与えることはできないということになるが、これに対してGarcía-Carpinteroはそのような文を間接的言語行為[indirect speech act]の枠組みで考えることを提案し[7]、Voltoliniは会話の含み[conversational implicature]によって説明できると主張した。以上のようにフィクションが(明示的であれそうでない場合であれ)真面目な現実世界に関する主張を行うかという点には議論があるものの、筆者はそれが可能であると考えているように見受けられる。
寓意[allegory]
またフィクションの作者は作品から読者がアナロジーによって、作品外世界に関する結論を引き出すように意図することがある。筆者は例としてプラトンの『国家』における洞窟の挿話や『蠅の王』『動物農場』『天路歴程』などを挙げる。しかしこの場合、読者は作者の暗黙の言明に対して、そのアナロジーが本当に適切なものなのかを判断する必要がある。例えば『蠅の王』におけるような出来事(孤島での子どもたちの殺し合い)は起こり得るかもしれないが、それが適切に現実世界における集団心理のダイナミクスの典型となっている[typify]のかを、読者は疑うかもしれないというのだ。よって筆者はこのような寓意はむしろ、現実世界に関する結論を引き出すために、作者の現実世界に対する洞察に頼る必要のあるような証言と見なすべきだと述べる。つまり筆者は寓意によるような認識的価値は、作者が現実世界における物事を適切に認識し、アナロジーを成り立たせる能力があることを必要とすると考えるのだ。
例解的実演[illustrative demonstration]
ある種のフィクション作品は「Xであるというのはこのようなものである(This is what X is like)」というように要約できたり、そのような要素を含んだりすると筆者は言う。ここでXに入るのはオピオイド中毒で子どもを亡くすことであったり、DVの被害に遭うことであったり、自分の限界を受け入れることであったりする。そのような作品から得られるのは以上のような経験をするのがどのようなことであるのかに関する「理解」であり、その理解がたとえ浅いものであっても、作中の登場人物が様々な状況においてどのように振舞うかや、あるいは現実世界において私たちがその人たちとどう接するかを答えられる限りにおいて認識的達成である。
しかし一方でGibsonのように、フィクショナルキャラクターにとって「何かを経験するとはどのようなものなのか」ということは厳密には存在しないため、結果としてフィクション作品による例解的実演は認識的価値を持たないという論者も居る。その上で筆者はマーク・ハッドンの『真夜中に犬に起こった奇妙な事件』を例にGibsonに反論する。この小説はクリストファーという自閉症の男の子の視点から語られていることを踏まえて筆者は以下のように述べる。
いくつかの部分では、読者はクリストファーの行動を理解できないと感じるかもしれない。例えば慌てたとき彼はコインをラディエーターに何時間も擦りつけるなどの反復的活動によって自身を落ち着かせる。作者はこの活動がどのようにして主人公を落ち着かせるのかに関する洞察を提供する。そうすることによって作者は、読者にそのような役に立たない行動がクリストファーだけでなく、同じような心理的履歴を持つどんな子どもをも落ち着かせてくれるのかを正しく理解するのを助けてくれるのだ。コインの擦りつけや同様の短い場面は一緒になって、作者が自閉症の子供一般の理解を容易にするのを助けてくれるのであり、クリストファーが虚構的であることはこのプロジェクトの妨げにはならない。
In some passages, readers may find Christopher’s behaviour puzzling. For instance, when upset he will calm himself with a repetitive activity like scraping a coin against a radiator for hours. The author provides insight into how this activity soothes the protagonist. In so doing, he helps us to appreciate how apparently impractical behaviours can be soothing—not just for Christopher but for any child with a similar psychological profile. The coin-scraping and similar vignettes work together to help the author illuminate autistic children generally, and Christopher’s being fictional does not threaten this project. (p. 280)
小説において作者は自閉症児の行動を描写し、それが子ども自身にとってどのような意味を持つのかの洞察[insight]を与えることによって、読者に理解を提供することができる。ただしその上でそのような認識的価値は、作者が自閉症の子どもに関する信頼できる情報源であるかどうかに左右されるとする(実際作者は自閉症の子どもたちと接触している)。結局のところ例解的実演による認識的価値もまた証言に依存しているのだ。
共感的知識/理解
次にフィクションから他者への共感[empathy]に必要な知識あるいは理解を得られる可能性がある。ここでの共感とは「他人の情動的あるいは経験的状態を鮮明に想像すること[8]」である。例えばJ. ハミルトンの『マップ・オブ・ザ・ワールド』は作品において小さい田舎のコミュニティで排斥される主人公に対して、読者自身はそのような排斥を経験していなくても、排斥される主人公の感覚に共感することを可能にする。そして読者はそこで発揮した技術[skill]を、現実の人間に対して適用することができる。ただし筆者はここでもまた、作品が共感を可能にするような情報を提供し得るかどうかは、作者がそのような情報の提供元として信頼できるかどうかに依存すると述べ、再び証言的モデルの重要性を強調する。
思考実験
またフィクションが数学や科学、哲学と同様に、私たちの直観に関する示唆を与える思考実験としての側面を持つ。思考実験はそのシナリオからその外の現実世界に関する示唆を生むという点で認識的価値を持つ[9]。その点から言えばフィクション作品も「設定[premise]」を元に作り上げられた一種の思考実験として認識的価値を持つ。また思考実験としてのフィクションが成立するためには、大まかに作品展開が私たちの常識的な民間心理学[folk-psychology](常識心理学)と一致している必要がある。その上でフィクションは非フィクション的な、典型的には条件命題を提示することができるのだ[10]。
一方でフィクション作品における思考実験による認識的価値は、科学や哲学におけるそれとは異なる独自のものである。つまりフィクションは人間関係を扱い、また語り[narration]における感覚的ディテールや内的独白などによって、登場人物への転移[transportation]や視点の取得[perspective-taking]を通じて、他の分野における思考実験では得られない鮮烈な経験を得ることができる。ここで筆者は転移と視点の取得について以下のように自著を引用する。
転移において、フィクションの消費者は自分の周りの実際の環境において起こっていることのいくらかを無視する程度にまで、自分の活動に没入するのであり、その自動的な情報処理メカニズムの多くはフィクションにおける出来事を現実のものであるかのように扱う[…][11]。視点の取得において主体は「自然と登場人物のアイデンティティを身に付け、その登場人物の思考や感情をシミュレーションする想像的プロセス」を遂行する[…]。
In transportation, consumers of fiction become absorbed in their activity to the point of neglecting some of what is occurring in their actual environment, and many of their automatic information-processing mechanisms treat events in the fiction as if they are real […]. In perspective taking, subjects undergo ‘the imaginative process of spontaneously assuming the identity of a character and simulating that character’s thoughts and emotions’ […]. (pp. 282-3)
以上のような作品鑑賞における転移や視点の取得などの特殊なプロセスによって、読者は現実の人々への共苦[compassion]を経験する。その結果として読者は、トロッコ問題で犠牲になる側の人々に共苦を感じることで自身の帰結主義的なコミットメントを考え直したり、自分とは異なる政治的・倫理的感受性を持つ人々の視点を真剣に考えるようになったりするのであり、それは哲学的な思考実験では困難なものである。
概念的革新[conceptual innovation]
フィクションは「何が可能であるか」を教えてくれるものだとする研究を筆者は三つ挙げる。まずLewisはフィクションが、例えば「貧乏[poverty]」と「気高さ[dignity]」などの二つの(通常は共存しない)性質が、ある一人の個人において共存し得ることをフィクションから学べると言う。これに対して筆者は、確かにその二つの性質は共存可能だが、Lewisはフィクションがどうやってそれを示すのかを全く明らかにしていないと批判する。
またJohnはグレース・ペイリーの小説を例に「幸福な人生を送れたらと望むが、そのような人生は自分には不可能だと考える主人公」を描写することによって、そのような望みが可能であるかについて、あるいは行為に関係する欲望の意味に関して読者に問いを投げかける。筆者はこの議論を説得的としつつも、フィクションはそこで知識の源泉というよりも探求の契機に過ぎないと述べる。
また筆者は自著を引用しつつ、ベルンハルト・シュリンクの『愛を読む人』などにおいて、作品は「おぞましい行為の犯人でありながら誰かに愛されるに値する人[12]」"といった人物が可能であることを示していると述べる。
自己知識/理解
自己知に関しては既に思考実験の箇所において論じていると筆者は述べる。つまり思考実験としてのフィクションは、私たちの物理学や人間心理に関するコミットメントから示唆を引き出すのであって、そのときフィクションは私たちのコミットメントやさらには自分自身について知ることになる。
また作品に対する自分の反応に気づくことが、自己に関する知識や理解を与えてくれる事例が存在する。例えばある作品で自分が洗練された人物よりも謙虚で直截な登場人物を好むことに気づくとき、自分がそのような性質を重視していることに気づくかもしれない。また読者がある登場人物がある仕方で振舞うことを期待しているときに、作品内でそうならなかった場合などには、その際に感じる驚きなどによって自らの持つ期待だけでなく偏見などを知ることができるのだ。
一方でGibsonはフィクションが自己知を提供することを否定する。彼はフィクションの提供する認識的価値は作品それ自体に中に見出されなければならないと述べ、フィクションが私=読者についてのものでない以上、そこから自己知は得られないと主張する。これに対して筆者は、フィクションがある個人としての読者に関連することはほとんど無いが、一方で「作品の消費者」としての読者に関しては、作者は常にそのような読者に作品の反応から自己知を得ることを意図していると筆者は述べる。
以上のように筆者は証言[testimony]、ひいては語ること[telling]に依拠した認識的価値(証言、寓意、例解的実演、共感的知識/理解)及び示すこと[showing]に依拠したもの(思考実験、概念的革新、自己知/理解)の7つの種類の認識的価値について述べた。フィクション作品では大抵の場合、それらの一つが単独で提示されるよりは、複数が組み合わされている。
5.(新)認知主義への異議
最後の節で筆者は以上で述べたようなフィクションの認識論的価値への異議を紹介する。筆者によればそのような主張は以下の二つの疑問に分けられる。
⑴フィクションの作者はストーリーの主題に関する権威[authority]をもって語っているのか?
(i) do authors of fiction speak with authority about the topics of their stories [?]
⑵もしそうだとしても、その受け手はどの虚構的表象が事実的に正しいことを意図されていて、どれがそうでないかを見分けることができるのか?
(ii) even if they do, are their audiences able to tell which fictional representations are intended to be factually correct and which are not? (p. 285)
ここで筆者はかつてのスパイやジャーナリスト、医療従事者などがフィクションに従事した十分に証拠のある[well documented]ケースを参考に、⑴については不問とし、⑵に焦点を絞る。
実のところフィクションの読者は作品から誤った知識を得がちであることはいくつかの実験によって統計的に明らかにされている。ストーリーを読んでもらってから一般常識のテストを解いてもらう実験に関する論文によれば、そこでは被験者たちがストーリーから正しい情報と同じ程度間違った情報を得てしまっている[13]。
筆者は以上の問題に対して二つの点から反論を試みる。一つ目は「フィクションの消費者の中には他よりも、正確な表象として意図された記述や出来事をそうでないものから区別することに熟達した者が存在する[14]」というものである。これは注4の徳認識論の議論の応用と言える。この点に関連してジャンルに精通する経験からフィクションの認識的価値を擁護するFriend (2014)の議論を筆者は以下のように紹介する。
その[ジャンルに精通するという]経験は、多くの場合フィクション作品の前景と後景を区別する能力をもたらすと彼女は記す。前者はプロットやサブプロット、登場人物の展開などを含み、後者はその中でストーリーが進行する世界の設定として機能する傾向があり、こちらがより証言の源泉となりやすい。そのような熟練した読者が居るかどうかは経験的な問題であり、実験の対象である。
That experience, she notes, typically carries with it an ability to distinguish between foreground and background aspects of a fiction; it is the former that will include plot, any subplots, and character development, while the latter tends to function as the worldly setting in which the story unfolds and is the more likely source of testimony. Whether there are such adept readers is an empirical question subject to experiment. (p. 285)
作品が分類されるジャンルに精通していることで、そのジャンルの作品を鑑賞する際に読者は作品の「前景」と「後景」を区別できるようになるとフレンドは述べる。それによってその作品が証言としての役割を果たしている「後景」が作品の中のどの部分なのかを読者は理解できると言うのだ。
筆者が二つ目に挙げるのは、現代ではフィクション内の情報の真偽をオンラインの情報を用いて比較的容易に判断可能であるという事実である。これによって読者はフィクションから正確な情報を得られるようになっていることを実証した実験[15]があるだけでなく、筆者はそのような読者を念頭に置いた作者がより作中の事実について気に掛けるようになるとすら述べる。
最後に筆者は思考実験としてのフィクションの認識論的価値に関する楽観主義をたしなめるCurrie (2020)の主張を検討する。まず彼は認識論的価値を持つとされる科学的・哲学的思考実験は短く単純なものであり、それこそが読者の反応を収束[convergent]させるが、(新)認知主義者たちの持ち出すフィクションは極めて長大で複雑であり認識的価値に関して同一視はできないと主張する。これに対して筆者は思考実験の側面を持つフィクションの中には禅の公案のように極めて短くかつ力強いものがあり、また短編などはありふれていると述べる。また長編について言えば、それらは確かに短編とは認識的価値に関して異なるが、それは長編が転移や経験取得などの方法を用いるために全体論的な性格を持っており、(短編が知識を与えるのに対して)理解を与えるという点で異なるのだとして、認識的価値を擁護する。
一方でカリーは科学や哲学の思考実験の認識論的価値を保証しているのは査読による出版の制度的実践や学術会議などであり、同様の構造はフィクションには見出せないと主張する。これに対して筆者はフィクションにおける思考実験は私たちの常識心理学(あるいは常識物理学)によって支えられており、その点でそのような制度的構造は不要であると主張する。またフィクションに関するレビューや批評の文化もまた、受け手がフィクションに対して適切な反応をする助けになると筆者は述べるのだ。
コメント
筆者の主張で注目すべきは、フィクションの認知主義において作者の明示的・暗示的な現実世界に関する主張としての「証言」を重視する点である。筆者によれば証言はいくつかあり得るフィクションの認識論的価値の一つであるだけでなく、他のあり得るモデルを基礎づける役割を持っているのであり、現在の新認知主義などでは軽視されがちな証言の役割を強調する意義がある。しかしそのような証言の重視が、フィクションの認識論的価値を一見トリヴィアルなもののように見せてしまっているのではないか。実際のところフィクションから筆者の主張を通して命題的知識を学ぶことはそうないだろうし、それに関しては歴史や科学の教科書、あるいは哲学の論文の方が適しているだろう。この論文ではフィクションから認識論的価値を引き出すことに躍起になりすぎて、フィクションだからこそ与えられる知識や理解、あるいはそれを可能にするフィクションの特性への目配りが足りないように感じる。私としてはフィクションならではの認識論的価値とは、他者に対する何らかの理解(能力)の向上にあると考える。その点では本文では紙幅の割かれなかった「共感的知識/理解」の方向性に望みがあるだろう。
[1] ここで筆者が述べているのは、大まかに言えば虚構的真理(何がその作品において成り立っているか)をジャンルが決定するということであり、また受け手はジャンルを根拠に作中の虚構的真理を類推しても良いということである。ジャンルと虚構的真理の関係はCatharine Abell (2020) Fiction: A Philosophical Analysis. Oxford UP.やLiao, Shen-yi (2016). Imaginative Resistance, Narrative Engagement, Genre. Res Philosophica 93 (2):461-482.に詳しい。
[2] 例えばShe knows how to console someone who has lost a life partner.
[3] 例えば私たちは「コレラが危険である」ことを知っているかもしれないが、それを理解していると言えるのは、コレラが危険である原因(つまりそれが深刻な脱水症状を起こすこと)を知っているときに限る。
[4] この「知ることと理解すること」の項に関しては、他にも徳認識論のbarn façadeの議論を背景にしたフィクションから得られる知識の主体相対性(つまり主体に何らかの認識論的徳[epistemic virtue]がある場合にのみフィクションから知識が得られる)についても言及があるが、省略した。Barn façadeの議論についてはhttps://plato.stanford.edu/entries/knowledge-analysis/#FakeBarnCaseを参照。徳認識論については植原亮による日本語のサーヴェイ(https://updatingphilosophyofai.net/resources/virtue_epistemology/)などがある。
[5] Geach, P. (1976). ‘Saying and showing in Frege and Wittgenstein’, in Hintikka, J. (ed.), Essays on Wittgenstein in Honor of G.H. von Wright. Acta Philosophica Fennica, 28, pp. 54–70.
[6] ‘When we think the dead both treacherous and absurd, we have gone far towards reconciling ourselves to their departure’ (p.279)
[7] この説明として本文では以下のような文がある: “such as occurs when one speaker, remarking that another person is standing in her way, thereby asks that person to move” (p.279)日本語でよりわかりやすい例を考えるなら、窓を開けてもらうために「この部屋暑いですね」と言うことなどが挙げられるだろう。
[8] “vividly imagining another’s affective or experiential state” (p. 281)
[9] 例えば認識論におけるゲティエの知識概念の分析や、ガリレオが物体の落下速度は大きさによって定まらないことを示したことを筆者は念頭に置いている。
[10] 例えばE.M.フォースターの『インドへの道』においては「もし人間の動機と行動に関する私たちの想定が正確ならば、植民者は被植民者と真の友情を結ぶことはできない」といった命題を真にすると筆者は述べる。
[11] ここで筆者はそのような転移のプロセスが、実のところフィクション作品に限られずノンフィクションの(物語)作品においても同程度に生じることが経験科学による研究で明らかになっていることに触れる。
[12] “a person can be both a perpetrator of heinous acts and merit someone’s love” (p. 283)
[13] Butler, A., Dennis, M. and Marsh, E. (2012). ‘Inferring facts from fiction: reading correct and incorrect information affects memory for related information’. Memory, 20, pp. 487–498.及びRapp, D. N. (2016). ‘The consequences of reading inaccurate information’. Current Directions in Psychological Science, 25, pp. 281–285.
[14] “[S]ome consumers of fiction are more adept than others at distinguishing those descriptions or doings intended to be accurate representations from other” (p. 285)
[15] Donovan, A. and Rapp, D. (2020). ‘Look it up: online search reduces the problematic effect of exposure to inaccuracies’. Memory and Cognition, 48, pp. 1128–1145.
G.ドウォーキンのパターナリズム概念とその教育における応用
必要があって教育におけるパターナリズムについて少し勉強したので、具体的な架空の事例を用いて自分の理解をまとめてみた。
1. はじめに
この記事では進路指導における生徒の選択への干渉について、ある生徒の進路指導を巡る二人の教師の架空の対話を例に検討する。あとで述べるように、そのような対象の意に反した行為への干渉は一般に「パターナリズム」と呼ばれる。ただし私はここで教育における生徒への干渉はどのようなものがどこまで許されるのかという問題に答えを出すことは試みない。本記事はそのような問題を考える哲学的な基礎づけについてのものであり、その目的は教育における生徒のための干渉とは何であるかを明確化し、それに関する議論を行う際の理論的土台を提供することである[1]。そしてその際にはアメリカの哲学者ジェラルド・ドウォーキン(Gerald Dworkin, 1937~)の議論を参照する。しかしまずはパターナリズムとは何かに関して述べる必要がある。
現代において個人の自由や自律が重要であることは、あまりにも当然すぎて意識されないほど受け入れられた社会的前提である。私が昼食にラーメンではなくカレーを食べようとしたときに、誰であれ私に「あなたはラーメンを食べなさい」と命令することは不当であり、もしそうでないと言うならば正当化や根拠の提示が必要となる。それは私が自由で自律した個人だからである。しかし一方で、そのような個人の行為への干渉が正当化されるような場合ももちろん存在する。例えば赤ちゃんが熱い石油ストーブに触れようとするとき、親が赤ちゃんを危険から守るためにそれを止めることは正しいこととされるだろう。そのような対象の利益のための行為への干渉は、哲学や法学や社会学、あるいは教育学などの広い分野で一般的にパターナリズム(父権主義、paternalism)と呼ばれる[2]。言い換えればパターナリズムとは、対象のためを思って、その人の行為に干渉し、あることをさせたりさせなかったりすることである。
以上のような定義から推察される通り、教育とは本質的にパターナリスティックな側面を持つとされる[3]。というのも教育においては子どものために、子どもの行為に介入することがしばしば必要とされるからである。例えば学校において算数を勉強したくないという子どもに対して「じゃあやらなくて良いよ」と言ってしまうのは問題があり、あの手この手でその子どもに算数を勉強してもらうことが必要とされる。しかし一方で他の領域においてと同様、そのような行為への干渉が許される条件や度合いは確かに存在するように思われる。例えば子どもが勉強に集中するために(それが効果的であるにしても)その子どもを椅子に縛り付けるのは行き過ぎているとされるだろう。
以下で示すように、そのような議論はむしろ教師間の話し合いにおいて役立つかもしれない。ある教師がある生徒指導の事案においてある種のパターナリズムに基づいて反対し、別の教師が別の種類のパターナリズムに基づいて賛成するとき、両者の議論はすれ違っている。そこでの真っ当な話し合いのためには、哲学的な立場のすり合わせが必要不可欠である。以下では二人の教師の架空の対話を題材に、進路指導におけるパターナリズムについて検討する。
2. 対話篇
ある高校の進路指導担当の二人の教師、岡本先生と田中先生は、高校3年生のある生徒、山本君の提出した進路希望調査書を前にして頭を抱えていた。
岡本「YouTuber、ですか…」
田中「実は数年前から活動を始めていて、登録者数もそれなりに多いらしいですよ」
岡本「どんな動画をアップロードしているんでしょうか?」
田中「他の生徒にチャンネルを教えてもらいましたよ、これです」
――岡本先生と田中先生、山本君が音楽に合わせてかわいい踊りを踊る動画を鑑賞する
田中「大学に進学せず、こういう動画をみんなに見てもらって生きていきたいそうです」
岡本「うーんなるほど…」
田中「いやはやまったく…」
岡本「お気持ちはわかります。そんな馬鹿げたこと、進路指導担当としては許せませんよね」
田中「え!いや実はそれも結構面白いんじゃないかと考えていたのですが…」
岡本「えぇ!嘘でしょう!絶対やめさせるべきですよ!炎上したらどうするんですか。そもそも山本君は動画サイトからの収入のみで生活できている配信者がどれだけ少ないかを知らないんじゃないでしょうか。だからYouTuberになろうなんて言うんですよ」
田中「いや、彼なりに考えているみたいなんですよ。実はさっき山本に廊下で少し話を聞いたんです。彼はYouTuberの報酬の内実や課税制度まで調べ尽くしていて、少なくとも向こう数年の収入の予測まで立ててるんですよ。将来はとりあえず大企業とか言ってる子よりも、ずっと未来のことを考えていると思いませんか?」
岡本「なるほど…。いやいやいや、いくら山本がYouTuber事情に詳しいからって、進路としてYouTuberはあり得ませんよ。そもそも志望理由にはなんて書いてあるんですか?有名になりたいから、とかでしょう?」
田中「面白いことをしてみんなを笑顔にしたいから、だそうです。本人は、自分は勉強もスポーツもできなくて、でも面白い動画を作る才能はあるのでこれしかないと思っている、と言っていますね」
岡本「……」
田中「立派じゃないですか。もちろん彼の目的を実現する手段が他にあるなら別ですよ?お笑い芸人とか…。でも今からゼロからお笑い芸人を目指すのと、すでにある程度基盤のある動画配信でやっていくのなら、YouTuberの方が見込みがありませんか?」
岡本「いやあ、どうでしょうかね。そもそも面白いことをしてみんなを笑顔にしたい、というのは少なくとも進路選択の理由としてはあんまり良くないんじゃないですか?もちろんお笑い芸人の皆さんは立派で尊敬もしてますがね…。人を笑わせる以外にも山本がやるべきことは色々ありますよ」
田中「しかし本人がそれをやりたいって言ってるんですよ」
岡本「田中先生は本人がやりたいと言ったらなんでも許すんですか?ヤクザの舎弟になりたいって生徒が居たらどうするんですか」
田中「うーん…。本人の目標達成を最大限手助けするのが教師の役割だと思いませんか?もしそれが間違ったものであっても、ある程度までは許容して、そこでの失敗を受け入れるのが教師ってもんじゃないですかね」
岡本「どうでしょうか。教師の役割は生徒がより良い人格を得る手助けすることではありませんか?」
田中「そうですか。なんだか話がかみ合っていない気がしています。岡本先生は結局、なぜ山本がYouTuberになるのに反対なんですかね」
岡本「うーん根本的に考えてみれば、YouTuberという職業はモラルに反している気がしませんか?再生数を稼ぐために過激なことをして、注目を集めて、あぶく銭を稼ぐ。良くないと思います」
田中「それは岡本先生の価値基準ですよね。私たち教師が口を出すべきなのは、あくまで山本君の幸福に資するかどうかじゃないですか?YouTuberになれば彼は自己実現できて、お金も稼げる。今ではYouTuberも一つのキャリアとして認められつつありますから、そこから就職などにつながるかもしれない」
岡本「どうでしょうね。そうは言っても田中先生にも価値観はあるわけでしょう」
田中「もちろんありますが、それは生徒の選択に介入する理由にはならないと思っています」
岡本「それは、ちょっと強い言い方になりますが、無責任ではないですか?自分の信じていない価値観に従って生徒を指導するんですか?」
田中「それとこれは話が別であって…。ちょっと話が逸れてきましたね。これ以上二人で話し合っても結論が出ない気がしてきました。今度の職員会議で話し合うのはどうでしょうか」
岡本「そうですね。すみませんちょっと熱くなってしまって。私も山本君のためを思って色々考えているんです」
田中「私もです。では今日はこのくらいにしておきましょう」
3. パターナリズム概念の分類
以上の岡本先生と田中先生の対話は山本君の選択(YouTuberになりたい!)に対する干渉を巡るものであり、パターナリズムの是非に関するものになっている。しかし両者が互いへの尊敬と善意、そして山本君への思いやりを共有しているにもかかわらず、対話は有意義なものにはなっておらず、二人とも相手を説得することも、説得されることにも失敗している。それは両者がお互いの主張の哲学的前提を共有していないからである。その点を明らかにするために、以下ではスタンフォード哲学事典におけるG. ドウォーキンのパターナリズム概念の分析[4]を紹介する。
3.1. ハードなパターナリズムとソフトなパターナリズム
ドウォーキンはまず、パターナリズムをハードなものとソフトなものに分けている。
両者の区別をドウォーキンは壊れた橋の例で説明している。つまり壊れた橋を渡ろうとする人がいた場合、ソフトなパターナリストは本人が「橋が壊れている」という事実を知らない場合に限ってその人を止める。しかし当人がそれを知りつつ河に飛び込もうとしている場合、止めることはない。一方でハードなパターナリストは橋が壊れていることを当人が把握していても、当人の危険な行為を止めることを正当化する。例えば覚醒剤の使用などにおいては、通常ハードなパターナリズムが採用される。当人がいくらその害について知悉していたとしても、その使用は許されないだろう。
3.2.弱いパターナリズムと強いパターナリズム
またドウォーキンはパターナリズムを弱いものと強いものに分けている。
両者の区別をドウォーキンはオートバイのドライバーに対するヘルメット着用の義務付けの例で説明している。ドライバーが頭で風を感じる快適さよりも安全性を望む限りにおいて、ヘルメットの着用を義務付けられるというのが弱いパターナリズムの立場である。一方でドライバーが快適さを望むにせよ、ヘルメットの着用を義務付けるべきとするならば、その人は強いパターナリストである。
少なくとも日本においては、ヘルメットの着用については強いパターナリズムが認められている。しかし飲酒や喫煙に関しては弱いパターナリズムが認められている。例えば依存症患者が禁酒したいという本人の目的に合致する限りで、入院などの措置によってアルコールから距離を置くことを強制することが認められる。
3.3. 道徳的パターナリズムと福祉的パターナリズム
さらにドウォーキンはパターナリズムを道徳的なものと福祉的なものに分けている。
- 道徳的パターナリズム:干渉の目的が対象の道徳的性格を守ることにある
- さらに道徳的性格と幸福の向上を根拠にする立場と、その人をより良い人(≠幸福な人)にすることを根拠にする立場に分かれる
- 福祉的パターナリズム:干渉の目的が、対象の(身体的・心理的)幸福の増進にある
ドウォーキンは両者の区別を売春の法規制を例に説明している。売春が安全であり十分な報酬が得られる限りにおいて、福祉的パターナリストはそれを許容する。一方で道徳的パターナリストは同じ条件でも売春が当事者の道徳的堕落につながるとして規制を求める。
3.4.物別れの原因
ここまでで私たちはパターナリズムに関する記述的な分析を見てきた。これらの分類によって、田中先生と岡本先生がパターナリズムに関して対照的な立場を採っていることが明らかになった。
まずソフト/ハードの区別に関しては、田中先生はソフトなパターナリズム、岡本先生はハードなパターナリズムの立場を採っていると言える。つまり田中先生は山本君がYouTuber稼業に関する十分な知識を持っていることを根拠に干渉しないことを主張し、岡本先生は山本君の知識に関係なく干渉するよう主張するのだ。次に弱い/強いの区別に関しては、先の対話で田中先生は弱いパターナリストであり、岡本先生は強いパターナリストである。田中先生は山本君の(YouTuberになりたい、あるいはより一般的に面白いことをして人を笑顔にしたいという)目的と合致する限りでの手段に対する干渉を認めるのに対して、岡本先生は山本君の目的それ自体への干渉を正当化するためである。最後に道徳的/福祉的の区別に関しては、先の対話において田中先生は福祉的パターナリストであり、岡本先生は道徳的パターナリストである。岡本先生が山本君の道徳的性格の向上を目指すのに対して、田中先生はあくまで山本君の身体的・心理的幸福及び利益を増進させることを目指しているからだ[5]。
これによって二人の対話が物別れに終わってしまった理由も今や明らかになった。両者はパターナリズムに関する前提を共有しないまま議論を進めており、しかもその前提が食い違ってしまっているのだ。二人がするべきだったのは、山本君に対してどうするべきかについて話し合う前に、進路指導において教師はどの立場のパターナリズムを取るべきかの確認であっただろう。
4.おわりに
以上の記述的分析から直接的に規範的主張を導くことはできない。またパターナリズムのそれぞれの立場(ソフト/ハード、弱い/強い、道徳的/福祉的)のどちらが正しい(あるいはどちらも間違っている)ということを一律に決定することもできない。結局のところどのパターナリズムが良いのかは、文脈に依存するからである。
しかし以上の分析を経ることで、少なくとも今回の文脈において山本君の進路指導をどうするべきかの見通しを得られることも確かである。つまり教育における進路指導という文脈から、いずれのパターナリズムがより適当であるかは言えるのではないか。経験に乏しい子どもであるところの山本君に対しては、まずはソフトなパターナリズムに基づいた干渉が適当だろう。山本君は確かにYouTuber稼業に関しては十分知識を持っているかもしれないが、「面白いことをして人を笑わせる」ことを仕事にするその他の職業について十分知識を持っているとは言い難い。メディア産業やあるいは趣味としての落語やお笑いなどの道を示すことも十分考えられる。次に強い/弱いパターナリズムに関しては、山本君の目的がそもそも何であるかをより深く掘り下げることが可能である。確かに彼は高校生にしては明確な目的意識を持っているが、その背後により深い彼の欲求や願望が隠れているかもしれない。理想としてはそれを対話によって引き出すことが教師の役割である。最後に山本君への干渉の目的が、道徳的なものなのか福祉的なものなのかを教師が自覚することは重要である。進路指導の場面では、教師が自らのバイアスに自覚的になり、できるだけフラットな目線で生徒の選択を見守るべきだろう[6]。しかし一方で生徒指導において教師が自らの道徳的価値観を丸ごと捨て去ってしまって良いというわけではない。ある場面においては市民としての自己の道徳判断と、教師としての自己が葛藤を起こすかもしれない。しかしそれは必要な葛藤なのだ。
最後に付け加えておけば、教育におけるパターナリズムという論点に関しては、山梨(2014)の述べるように、子どもがJ. S. ミルの言うところの「最後の判断を下す者」として発達することを目指すという観点も必要である(170)。通常のパターナリズムは十分な理性的判断力を持った成人を念頭に置くが、子どもに対するパターナリズムは、それによってむしろ子どもが最終の判断を最良の形で行うことが将来的にできるような干渉であるべきだ。そのような本人の目的の形成を含めた発達を助けるようなパターナリズムこそ、真に「生徒のためを考えた」パターナリズムである。
文献一覧
Dworkin, Gerald, "Paternalism", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Fall 2020 Edition), Edward N. Zalta (ed.), URL = <https://plato.stanford.edu/archives/fall2020/entries/paternalism/>.
山梨八重子(2014)「教育におけるパターナリズム正当化の根拠の一考察」『先端倫理研究』第8号、153-173頁。
[1] そのような議論は無味乾燥でつまらないものかもしれない。多くの場合は論じられている事柄が当たり前すぎて、議論の必要性は感じられないのだ。しかし一方で哲学的な議論が必要なときには、すでにその人は概念的混乱のただ中にあり、それにどうやって対処すれば良いのかはもちろん、問題がどこにあるのかすらわからなくなっている。
[2] 後で紹介するG. ドウォーキン(2020)はパターナリズムを以下のように定義する:「パターナリズムとは、国家や個人が他人の意思に反して干渉することであり、干渉された人がより良い生活を送れるようになる、あるいは危害から守られるという主張によって擁護されたり、動機づけられたりするものである」。
[3] 山梨(2014)は「一般的な認識」として教育がパターナリスティックな側面を持つと述べる一方で、それが近代教育の拠って立つ「個人の自律・自由」を尊重するリベラルな価値観と対立し得ると述べ、だからこそ教育におけるパターナリズムには正当化が必要だと述べる(153)。
[4] https://plato.stanford.edu/entries/paternalism/
[5] 今回の例では岡本先生の側につく人は少ないかもしれない。しかし山本君がその極右的な信念から国内からの外国人の排斥を目指す場合はどうだろうか。いくらそれが彼の幸福につながるからと言って、それを許す人は少ないのではないか。その場合そのようなパターナリズムは道徳的なものである。
[6] 悪しきゼロトレランスに全力投球してしまう教師は、特に道徳的パターナリズムに偏ってしまっている。そこに欠けているのは生徒の福利を尊重する態度である。
Richard Moran 「想像における感情(feeling)の表現」(1994) レジュメ
1.
- しかしその区別は本当に有効だろうか
- 現実の情動においても、「起きたかもしれないが起きなかったこと」「状況が違えばやったかもしれないこと」などに対する情動は、現実の対象に対する情動なのだろうか
- 映画において感じる恐怖と、何年も昔の出来事に対して感じる恐怖は、恐怖の対象が現前しているわけではないという意味で同じ
- 実際のところ、情動はほとんど今・ここに関わるものではないのだ
- 情動の現実性actualityと虚構性fictionalityは、違いを生まない
- むしろ情動そのものが、様々な差異を持つと考えた方が良い
- またウォルトンの例では、映画のモンスターが観者の方に向かってくる
- では映画のモンスターが登場人物の方に向かって行く場合はどうだろうか。むしろそちらの方が一般的ではないか
- この場合、比較されるべきは、現実においてモンスターが他人を襲う場合である。
- その場合に感じる情動は、フィクションの場合と同じではないか
2.
- そもそも情動も、より{判断に結びついている/対象を必要とする/社会的に構築されている/恣意的に涵養されている/受動的に伝染する}など多様であるので、それが自然種であり「虚構における情動」という一般問題があるのかすら疑わしい
- また多様であるだけでなく、情動同士の境界の曖昧さという事実も、問題の一般性を疑わせる
- 例えば問題の外側に置かれる「驚き」と、典型的なパラドックスの例である「あわれみ」「おそれ」などは連続している
- 作品の利用する情動は、読者における源泉や方向付けの種類、情動を喚起するものとの結びつきにおいても異なる
- フィクションにまつわるパラドックスは、情動の源泉や側面を、模倣的mimetic特徴に関係するそれから切り離すことで作られる
- しかし、実際にはそのような虚構世界のリアルな提示から注意を逸らすそのような特徴(人工性)こそが、情動的参与を妨げず強化するように思われる
- 試しに、同じ虚構世界(虚構的真理)を異なる仕方で提示することを考えてみる。
- 例えば、それらが全て恐ろしいことの表象だとして、それでも実際に恐怖を引き起こすのはそれらの内の一部でしかないだろう(単なる要約や医学的・軍事的記述は情動を引き起こさない)
- 同じ虚構世界を提示しているが、情動を引き起こす表象と、引き起こさない表象の違いを生み出すのは何だろうか?
- 今まではそれを、受け手の「自分が見ているものが現実にそこにある」と感じるリアリズム的感覚の問題としてきた(特に映画において)
- 作品への情動的参与に関係するのは、ほのめかし、リズム、繰り返し、調和、不協和allusion, rhythm, repetition, assonance, and dissonanceなどの、「私たちが読んだり聞いたりするものを、私たちが現実であるとごっこ遊びし得る何か、あるいは何であれ真の記録から、遠ざけるmake … less likeすべての要素」である
- それらのレトリックは、それ自体が虚構世界において真であるという信念も、ごっこ遊びも必要としない
- そのような作品の表現的性質は、虚構的真理の生成に貢献せず、むしろ虚構世界の一部として想像することが不可能な要素を導入する
- 結局、フィクションにおける情動を、虚構的真理によって理解しようとするのは誤り
- 言い換えれば、情動的に参与させる表象と、そうでない表象の違いは、虚構的真理の観点からは説明できない
- 作品の表現的性質の人工性は、虚構的真理を想像することの側から穴埋めされるcompensated for必要はない
3.
- 虚構的情動において、「想像力imagination」が関与しているのは間違いない。その点で筆者はウォルトンや他の論者に同意する
- 問題はその「想像力」が、様々な事例において統一的で説明的な意味を持っているのかということ
- 今まで挙げてきた虚構的情動に関する例における想像力は、何かがそうであると単に想像することや、何かをしたり感じたりすることを想像することにあまり関係がない
- むしろ私たちが普通考えるところの「想像性imaginativeness」と関わる
- 様々なもの同士を関係づける能力や、作品のムードや情動的トーンを作り上げる連想のネットワークに気づいたり反応する能力
- 例えば『マクベス』における無垢と死の連関や、頻出する家事のイメージに気づいたり、修辞的比較における対象や非類似性を鑑賞する能力のこと
- 問題はその「想像力」が、様々な事例において統一的で説明的な意味を持っているのかということ
- ウォルトンは、想像されることの一部は、想像者自身に向けられる(自己言及的)内容を持つと主張した
- つまりマクベスの恐怖を想像するのに加え、自分自身が何らかの対応した情動的状態にあると想像している
- しかしそのような想像者の反応は、上で述べたように、単なる虚構的に真である命題の想像以上のものを必要としていることは明らか
- そこで(ウォルトン以前の?)哲学者たちは、しばしば「鮮やかさvividness」という概念を、単に何かを虚構的真として受け入れることと、物語に夢中になることの違いを説明するために用いる
- しかし「鮮やかさ」が虚構的情動とは異なる概念で、それを説明出来るものなのかは明らかでない(循環しているのではないかという疑念?)
- さらに「鮮やかさ」概念自体がどのようなものかも明らかでない:「鮮やかな記憶」というのは、その人の情動が付与された記憶というよりは、その人の視覚的記憶を指すように思われる
- しかも視覚的記憶の場合でも、その「鮮やかさ」はイメージの輪郭の明瞭さや色彩の明るさを指すものではない…つまりイメージの現象学的な特徴とは関係が無い
- ウォルトンは情動的参与を、イメージの現象学的内容(vividness)ではなく、命題的内容によって説明しようとした
- たとえば「私は今恐怖を体験している」という命題が虚構的に真であることによって、情動的参与を説明する
- これは「鮮やかさ」を「自己言及的命題」によって置換する試みと言えるが、筆者はそれを、「鮮やかさ」以上には想像における情動的参与を説明出来ないとする
- そもそも「鮮やかさ」概念は、情動的参与を伴う想像とそうでない想像の、因果的な違いを説明するためのものだった
- 表象が「鮮やか」であるとは、心に、関連付けや対照、考えの呼び込みなどの様々な活動を引き起こさせるということであり、想像者に追加の虚構的真を想像させることではない
- つまり「鮮やかさ」や情動的参与は、想像される「内容content」の一部というよりかは、想像の「仕方manner」の側面である
- もし情動的参与を虚構的真理(想像される内容)によって説明しようとすると、「『私は恐怖を抱いている』と非‐情動的にdispassionately想像する」と「私はそれをフィクションに『夢中になるswept up』ことの一部として想像する」ことの違いを説明できない(?)
- 何かが真であると想像しながらも、自分がそれを信じていないように想像することは可能
- 逆に、何かが虚構世界において偽であると理解しながらも、それが真であると想像することは可能
- このように、物事の状態と、それに対する信念とは、区別される独立した想像の中身・内容
- そもそも情動的想像力においては、何が作品世界において真であるかと、想像者が想像的に参加する心的状態の違いを認識することが、本質的に必要とされる
- 例えば悲劇のアイロニー:主人公の真実を知らない心的状態への参加と、主人公の認識と真実のずれ(という虚構的真)を鑑賞することへの参加の両方を必要とする
- ここで「虚構的真理」の概念と、「特定の想像の様態modeへの参与」の概念を区別する必要がある
- たとえば視覚的想像の場合、「視覚的visual」というのは想像の特定の方法であって、想像者の純粋な(つまり現実世界における)心理的事実である。これは想像されることや虚構的真理には入ることがない
- 同様に、想像の情動的側面は、想像の「方法manner」にまつわるものであり、想像されること(内容)ではない。
- 言い換えれば、何らかの感情と共に想像することは、その感情を感じているhaving that feelingのを想像することとは異なる
- そしてそのような想像の「様態」に関する事実は、想像される世界ではなく、現実の世界に存する
- また以上より、フィクションに対する様々な反応は、私たちが実際に持つ純粋な態度の表現とみなされ、それに従って称賛されたり拒絶されたりするべきである。それらは虚構世界を構成するものではないのだから。
4.
- 「想像者が想像するもの」と「想像者の現実の態度」の関係を、フィクションに対する抵抗現象によって分析する
- 『マクベス』の別バージョン:「ダンカンがマクベスによって殺されたのではない」と、「マクベスがダンカンを殺したのは、マクベスの眠りを妨げたという理由のみによって不幸である」
- 前者は、戯曲がそう言うなら受け入れられるが、後者は受け入れがたい
- つまり後者は「純粋なgenuine(つまり現実の)情動的態度」と摩擦を起こす
- 何故自分とは異なる信念を信じるように要請されているわけでもないのに、間違った意見を拒絶するかように、何かを想像することそれ自体を拒絶しなければならないと感じるのか?
- フィクションにおけるある種の事柄について、「私たちが感じるように命じられるenjoined to feelこと」と「私たちが感じたいこと」に距離がある(感傷的sentimentalとか仰々しいpretentiousとかの批評における表現は、その抵抗を示しているのではないか)
- これはヒュームの「趣味の基準について」における、「純粋な態度」と「何をどうやって想像するか」との関係の問題
- 「推論上の誤りspeculative errors」と「私たちとは異なる道徳や良識ideas of morality and decency different from ours」;ただし二つは常に異なる反応を導くわけではないし、人によっても異なる。それでもこの非対称性が起こった場合の、その抵抗の意味を検討することは出来る
- 前者は単にそれを虚構的真として受け入れられるが、後者はそうではない
- 言い換えれば、後者においては私たちの「純粋な態度」が作品から距離を取れず、干渉してしまう
- たとえば「幽霊が存在する」と「殺人は善」
- 私たちは後者を(作品世界の)虚構的真理として受け入れるよりは、むしろ作者(や聴き手)(のバイアスみたいなもの?)に帰してしまう
- これはヒュームの「趣味の基準について」における、「純粋な態度」と「何をどうやって想像するか」との関係の問題
- これは道徳的に異なる登場人物を想像するというよりは、道徳的現実が異なる世界に想像的に参与することの難しさ
- この抵抗は道徳的コンテクストに限定されるものではなく、実のところ作品の情動的教唆emotional solicitation(笑いや憐れみ、恐れであれ)と、私たちが実際に与える反応の違いによるもの
- また「感受性の要求の交渉の問題the problem of negotiating the demands of receptivity」と「作品の主張を真面目に受け取ることに参与することthe engagement involved in taking the claim of the work seriously」の両側面が抵抗現象には存在する
- ヒュームは生半可な説明:鑑賞者が自分の道徳的判断に自信があるから、道徳的な命題に抵抗を覚えるのだろう
- しかし、むしろ自信があるのなら、それを想像することに抵抗を覚えないのではないかとか、何故自身がある事柄に抵抗を覚えるなら、何故信念と異なる事実的命題(幽霊が存在するとか)に抵抗を覚えないのか、などの批判に答えられない
- 私たちは虚構的真理を決定する際に、何が批難や称賛に値するかに関する自分たちの感覚の果たす役割を認めている
- そして感傷的だとか道徳的である作品における、そのような感覚による拒絶こそが、抵抗を引き起こす
- そしてそのような場合私たちは、〈虚構世界の要素として構成的であるとして想像するべきもの〉だけでなく、それらの要素から帰結するもの、つまり〈どんな「純粋な態度」を採用するadoptべきか〉も同様に、伝えられているbeing toldかのように感じるのだ
- 読者はフィクションにおいて、何が称賛すべきで何が馬鹿馬鹿しいかを決める権利を持つ
- それは現実世界においてそうであるのと同様であり、読者はそれがフィクションを含むすべての可能世界においてそうであるとする
- このヒュームの問題には「必然性」の概念が関与しているのではないか
- 形而上学的必然性ではなく、概念的conceptual
- 付随性supervenienceの問題:ヒュームは非道徳的事実から、道徳規則を推論することは出来ないと考えた(道徳はreasonではなくsentimentから出てくる。理解するのではなく感じることが出来るだけ)
- つまり、私たちが非道徳的事実を虚構的真として受け入れたとしたなら、それらが(必然的に)虚構世界について何が道徳的に正しいのかを(非命題的に)教えてくれるということ(その虚構世界に、何らかの道徳的命題が付け加えられる必要がないということ)
- 言い換えればヒュームは、非道徳的事実と道徳的事実の間には、付随性としての(概念的)必然性があると考えた。前者が与えられれば、後者も一意に決まると考えた
- しかしその立場には問題があり、少なくとも私たちは自分とは異なる道徳的判断を、認識することは出来る
- この主張はヒュームのものと矛盾するように見えるが、実は両立可能
- つまりヒュームの論においては、二種類の想像力が混同されている
- 日常的な道徳的不一致において、私たちが自分とは異なる道徳的観点の認識可能性intelligibilityを理解出来る・しているとすれば、それはヒュームの見解に反するのではないか?
- いや、そもそもヒュームの「感情に入り込むentering into sentiments」と「意見に入り込むenter into all the opinions which then prevailed」のenter into は違うのではないか
- つまり “I cannot, nor is it proper I should, enter into such sentiments”と言うときには、それは劇的試演dramatic rehearsalや共感的な同化のことを言っているのではないか。しかしそのような行為は、信念に関わる仮定的推論においては全く出番がない
- むしろ劇的試演dramatic rehearsalや共感的同化は、私たちがそれを実行するのを簡単に感じたり難しく感じたりする想像力の成果なのであり、それはそれらが命題を心に抱くentertain能力以上のことあるいはそれより別のことを要求するためである
- 想像そのものではなく、想像力の成果
- またヒュームの議論はそもそも、対称性が成り立っていない
- 「推論上の誤りspeculative errors」の場合は、仮説的想定をするために私たちが「少し考えを変えるa certain turn of thought」必要があるとしている
- しかし一方で自分とは異なる「感情に入り込むentering into sentiments」場合は、仮説的想定ではなく、「実際に」自分の判断を変えることについて言っている
- つまり、異なる意見に仮説的に入り込むことと、良識の判断を実際に変えることを対比してしまっている
- もし対称性を成り立たせるなら、「異なる意見に入り込むことentering into different ipinions」を、単なる仮説的想定ではなく、実際に自分の意見を変えることとして取らなければならないだろう
- しかしそうする際に必要なことは「少し考えを変える」どころではないだろうし、結局それは自分と異なる感情に入り込むことと同じくらい難しくなってしまうだろう
- むしろ、仮言的hypothetical想像力と、劇的dramatic想像力という二つの異なる想像的活動を想定した方が良い
-
- →そしてそれに応じて異なる抵抗が生じると考える
- 両方とも現実に自分の判断を変えるものではないが、後者では仮定と結論、虚構と実際の行動の違いを見失うことがある
- 結局ヒュームの考える抵抗が必要とするのは、単に命題が真であることを想像する(仮言的想像力)ことでも、実際に自分の判断を変える(劇的想像力)ことでもない。ヒュームの記述は二つを行ったり来たりしてしまっている
- もし仮にヒュームの例における抵抗が命題的であったら、抵抗されるものは命題の真を完全に信じること(「自分の判断を変える」)か、命題の真理を仮定して考えてみること(仮説的想像力)のどちらかでしかない
- …それはおかしい
- しかし実際には、そのような抵抗が起きるのは、「部分的にしか命題的でないような態度」の表現expression of attitudeである
- 私たちが抵抗するのは、命題に対する信念というよりは、表現される視点point of viewに入り込むことである
-
- 視点の想像的な導入adoptation⇔反事実的推論における想像
- 後者においては信念のふりfeigningや、信念という事実からの帰結を決定することを含まない。特定の命題の真を含む
- →想像において、信念の主体や心理学的主体としての自己への参照をする必要がない
- 前者(情動的態度に関する想像)においては、dramatic rehearsal, the right mood, the right experience, a sympathetic natureなどが必要となる。視点、状況への全体的なパースペクティブを含む
- まとめれば、後者よりも前者において、主体が問題となる
- 後者においては信念のふりfeigningや、信念という事実からの帰結を決定することを含まない。特定の命題の真を含む
- 劇的想像力はgenuine rehearsalを含み、視点を「試してみるtrying on」ことや、それがどんな感じなのかを判断することを含む
- そしてそれは、「気が乗らないmy heart is not in it」と、することが出来ない類のものである(反事実的推論は反対にトピックやムードから独立している)
- ただし以上の二つの区別を認めた上で、抵抗現象それ自体は両者を含むものである
- 以上抵抗現象を巡る議論は、想像力を命題の集合によって定義された虚構世界の観点から分析することの限界を示すものである
- また私たちは、想像から知識を得ることが出来るという考えにコミットしているように見えるが、それは想像される虚構世界への参与が、現実世界において問題となることから完全に切り離されてはいないと私たちが考えていることを示しているだろう
- 想像とは、虚構世界を垣間見ることというよりは、(虚構世界を)この世界に関連付ける方法である imagination is not so much a peering into some other world, as a way of relating to this one
- 現実の感情が、フィクションにおいては「compartment」されているのではないか
アリストテレース『詩学』における筋の類型論
1.『詩学』における筋の四類型について
アリストテレース『詩学』の第14章では登場人物が「自分が何をするか知っているかどうか」、そして「その行為を実行するかどうか」によって筋を四つに分類している。それらは以下のように分類できる。
|
|
知 |
行為 |
記述の順 |
優劣 |
作品例 |
|
① |
〇 |
〇 |
1 |
3 |
『メーデイア』(エウリーピデース)
|
|
② |
〇 |
× |
(4) |
4 |
|
|
③ |
× |
〇 |
2 |
2 |
|
|
④ |
× |
× |
3 |
1 |
『クレスポンテース』(エウリーピデース)『タウリケーのイーピゲネイア』(エウリーピデース)『ヘレー』(不明) |
例えば③の場合であれば、登場人物は自分が何をするのかを知らず、かつその行為を実行する(そしてその後に自分が何を行ったかを「認知」する)。それは『詩学』では2番目に記述され、アリストテレースによれば3番目に優れた筋であり、作例は『メーデイア』ということになる。
知・無知に関しては、「無知」は正確に言えば人物が何をしようとしているのかを知らずに行為しようとし、行為するまえに「認知(アナグノーリシス)」が起こる(④)か、行為した後に「認知」が起こる(③)ということである。アリストテレースは他の章でも述べている通り、そのような「認知」と「変転(メタボレー)」が悲劇の重要な要素と考えており、それらが起こり得る筋としての「無知」の筋を「知」の筋よりも高く評価しているのだ。
2.『タウリケーのイーピゲネイア』について
エウリーピデース作。前410年代の上演とされる。アガメムノーン王の長女であるイーピゲネイアは、父によって生贄に捧げられそうになったところを、女神アルテミスによってタウロイ人の国(タウリケー)に移住させられたという過去を持つ。作品は母殺しによって狂気に取りつかれたアガメムノーン王の息子でありイーピゲネイアの弟であるオレステースが、狂気からの回復のために女神アルテミスの木像を手に入れるためにタウリケーを訪れる所から始まる。タウロイ人の風習によって生贄にされそうになるオレステースと、弟とは知らず彼をアルテミスへの生贄に捧げようとするイーピゲネイアとの姉弟の再会が本作のメインテーマであると言ってよいだろう。
3.『詩学』の考察対象となった筋について
『イピゲネイア』は1.の分類における④「無知・非行為」の一例である。この作品は『詩学』においては「『タウリケーのイーピゲネイア』において姉が弟を生贄にそなえようとして、それが弟であると認知する」(p.58)筋が言及されている。以下で具体的な箇所を引用しつつ説明する。
『詩学』に引用されている箇所からわかるように、この作品においては姉弟がお互いにそれと知らずに出会うことになる。以下は生贄として連れて来られたオレステースとそれを屠る巫女としてのイーピゲネイアが出会う場面である。
(イーピゲネイア)いったいあなた方の産みの母はだれ、実の父はどなたです?/また、もしひょっとして姉がいるなら、その人の名は?/こんなに立派な若者二人を奪われては、/その人は兄弟のいない身になりますね。[…]ああ、気の毒な旅の方々、いったいどこから来られたのです?[…]
(オレステース)あなたが何者かは知らないが、女よ、なぜこのことで嘆き、さらには、ぼくたち二人の身にかかわる災いのことで、心を痛めているのか。[…](pp.52-53)
引用からわかるように、二人はお互いの本来の関係(姉弟)を知らないまま、その時与えられている役割において相対することになる。ここが1.の四分類における「無知」に当たる場面である。
一方で姉のイーピゲネイアが故郷のアルゴスへ手紙を送ろうとする場面で、まずオレステースがイーピゲネイアを認知する。
(イーピゲネイア)アガメムノーンの子オレステースに伝えて下さい。/「この手紙を送るのはアウリスで生贄にされたイーピゲネイア、/そちらの人たちにすればとうに死んでいるのですが、私は生きています。」
(オレステース)その女の人はどこにいるのだ、死んでしまったのがまた生き返ってきたのか?
(イーピゲネイア)あなたの目の前にいるわたしのことです。話の腰を折らないで。[…]
(オレステース)ピュラデース、なんと言えばよいのだ、ぼくたちはどんな事態に直面しているんだ?(pp.77-78)
ただ生贄としてオレステースが屠られるのが避けられるためには、双方がお互いを認知する必要がある[1]。オレステースは自分が弟であることを示すために、オレステースでしか知り得ないことを次々に述べ、最後に姉の部屋にあったものに関して以下のように述べる。
(オレステース)ぼくが自分で見たことでは、これを証拠として挙げましょう。/父の館にあったペロプスの年代ものの槍、/ペロプスがそれを手にして振り回し、オイノマオスを殺して、/ピーサ生まれの乙女、ヒッポダイメアを獲得したという代物です。それが、あなたの暮らしていた乙女部屋にしまってあったのです。
(イーピゲネイア)おお、誰よりも愛しい弟、まちがいない、あなたは愛しい弟だから、/わたしが抱きしめているのはオレステース、あなたね、[故郷のアルゴスを離れてやってきた弟]、おお、愛しい弟!
(オレステース)ぼくの抱きしめているのは、死んだ姉さん、あなたなのですね。死んだと思われていたのに。(pp.82-83)
かくして二人の間で認知が為され、イーピゲネイアはオレステースを生贄として殺さずに済むように知恵を巡らせ、そのたくらみは成功するのだ。ここにおいて『イピゲネイア』は1.の分類における「非行為」の一例となっている。
4.文献
アリストテレース『詩学』・ホラーティウス『詩論』松本仁助・岡道男訳(岩波文庫、1997年)
エウリーピデース『タウリケーのイーピゲネイア』久保田忠利訳(岩波文庫、2004年)