Richard Moran 「想像における感情(feeling)の表現」(1994) レジュメ

Moran, Richard. “The Expression of Feeling in Imagination.” The Philosophical Review 103, no. 1 (1994): 75–106. https://doi.org/10.2307/2185873. https://www.jstor.org/stable/2185873

 

ウォルトンごっこ遊び理論を想像力概念の観点から批判する論文。Blackwellの美学アンソロジー*1にも収録されているので重要論文と言えそう。また「想像的抵抗imaginative resistance」という言葉を用いた初めての論文でもあります。レジュメを作ったのが4年くらい前で今見ると意味不明なところが多いですが、ひとまず公開してあとで直します。

1.

 

  • フィクションにおける情動の理論は、ウォルトンの「ごっこ遊び理論」が中心的である
    • フィクションにおいては、小道具を用いた「ごっこ遊び」の中で、種々の命題(「マクベスがダンカンを殺した」など)が虚構的真理として想像されるという理論
    • ただ問題はウォルトンが、「自分が今恐怖を感じている」などの想像者の情動に関する命題も、ごっこ遊びの中の虚構的真理であるとしたことであり、それが現実に存在する対象に対する、現実の情動と区別されるとしたこと

 

  • しかしその区別は本当に有効だろうか
    • 現実の情動においても、「起きたかもしれないが起きなかったこと」「状況が違えばやったかもしれないこと」などに対する情動は、現実の対象に対する情動なのだろうか
    • 映画において感じる恐怖と、何年も昔の出来事に対して感じる恐怖は、恐怖の対象が現前しているわけではないという意味で同じ
    • 実際のところ、情動はほとんど今・ここに関わるものではないのだ

 

  • 情動の現実性actualityと虚構性fictionalityは、違いを生まない
    • むしろ情動そのものが、様々な差異を持つと考えた方が良い

 

  • またウォルトンの例では、映画のモンスターが観者の方に向かってくる
    • では映画のモンスターが登場人物の方に向かって行く場合はどうだろうか。むしろそちらの方が一般的ではないか
    • この場合、比較されるべきは、現実においてモンスターが他人を襲う場合である。
    • その場合に感じる情動は、フィクションの場合と同じではないか

             

 

2.

 

  • そもそも情動も、より{判断に結びついている/対象を必要とする/社会的に構築されている/恣意的に涵養されている/受動的に伝染する}など多様であるので、それが自然種であり「虚構における情動」という一般問題があるのかすら疑わしい
    • また多様であるだけでなく、情動同士の境界の曖昧さという事実も、問題の一般性を疑わせる
    • 例えば問題の外側に置かれる「驚き」と、典型的なパラドックスの例である「あわれみ」「おそれ」などは連続している

 

  • 作品の利用する情動は、読者における源泉や方向付けの種類、情動を喚起するものとの結びつきにおいても異なる
    • 非具象的でごっこ遊びによって真にすべきシナリオを持たない作品(絵画や音楽)に対しても、私たちは情動的に反応出来るのだから、情動的に参与出来る作品とそうでない作品の違いは、ごっこ遊びや虚構的真理の生成の適切性aptnessの問題ではなく、もっと他の特徴に起因する

 

  • フィクションにまつわるパラドックスは、情動の源泉や側面を、模倣的mimetic特徴に関係するそれから切り離すことで作られる
    • すなわち問題は、虚構性(に気づくこと)が、いかに純粋な情動的態度と両立し得るか、という点にあるとされる
      • …つまり「虚構であるにも関わらず、どうやって情動的に反応可能なのか」という形で問われる
    • これは言い換えれば、(現実の情動では存在しない)人工性artificialityは情動的参与を妨げるという考えにつながっている(ゴッホの《星月夜》の筆触が参与を妨げるとウォルトンは主張)

 

  • しかし、実際にはそのような虚構世界のリアルな提示から注意を逸らすそのような特徴(人工性)こそが、情動的参与を妨げず強化するように思われる
    • もしゴッホが《星月夜》の筆触を除去したとして、作品がより参与しやすくなるengagingことはないだろう。同様に、『マクベス』における台詞まわしが「人工的で、修辞的で、自己言及的」であることは、作品に心を掴まれることに干渉しない
    • 虚構世界を破壊disruptする表現的性質こそが、作品に対する心理的参加psychological participationの中心にあるのではないか
      • しかしそれを虚構的真理の想像や虚構世界や、それに対する鑑賞者の関係から説明することは出来ない

 

  • 試しに、同じ虚構世界(虚構的真理)を異なる仕方で提示することを考えてみる。
    • 例えば、それらが全て恐ろしいことの表象だとして、それでも実際に恐怖を引き起こすのはそれらの内の一部でしかないだろう(単なる要約や医学的・軍事的記述は情動を引き起こさない)
    • 同じ虚構世界を提示しているが、情動を引き起こす表象と、引き起こさない表象の違いを生み出すのは何だろうか?
      • 今まではそれを、受け手の「自分が見ているものが現実にそこにある」と感じるリアリズム的感覚の問題としてきた(特に映画において)

 

  • 作品への情動的参与に関係するのは、ほのめかし、リズム、繰り返し、調和、不協和allusion, rhythm, repetition, assonance, and dissonanceなどの、「私たちが読んだり聞いたりするものを、私たちが現実であるとごっこ遊びし得る何か、あるいは何であれ真の記録から、遠ざけるmake … less likeすべての要素」である
    • それらのレトリックは、それ自体が虚構世界において真であるという信念も、ごっこ遊びも必要としない

 

  • そのような作品の表現的性質は、虚構的真理の生成に貢献せず、むしろ虚構世界の一部として想像することが不可能な要素を導入する
    • たとえばマクベスの劇的なせりふ回しは、人が本当にそのように話すことを想像させるわけではない
    • もしマクベスが普通の言葉遣いをしたなら、作品世界と現実世界の距離は近く、マクベスや彼の心的状態と私たちの距離は遠くなるだろう

 

  • 結局、フィクションにおける情動を、虚構的真理によって理解しようとするのは誤り
    • 言い換えれば、情動的に参与させる表象と、そうでない表象の違いは、虚構的真理の観点からは説明できない
    • 作品の表現的性質の人工性は、虚構的真理を想像することの側から穴埋めされるcompensated for必要はない

 

 

3.

 

  • 虚構的情動において、「想像力imagination」が関与しているのは間違いない。その点で筆者はウォルトンや他の論者に同意する
    • 問題はその「想像力」が、様々な事例において統一的で説明的な意味を持っているのかということ
      • 今まで挙げてきた虚構的情動に関する例における想像力は、何かがそうであると単に想像することや、何かをしたり感じたりすることを想像することにあまり関係がない
    • むしろ私たちが普通考えるところの「想像性imaginativeness」と関わる
      • 様々なもの同士を関係づける能力や、作品のムードや情動的トーンを作り上げる連想のネットワークに気づいたり反応する能力
      • 例えば『マクベス』における無垢と死の連関や、頻出する家事のイメージに気づいたり、修辞的比較における対象や非類似性を鑑賞する能力のこと

 

  • ウォルトンは、想像されることの一部は、想像者自身に向けられる(自己言及的)内容を持つと主張した
    • つまりマクベスの恐怖を想像するのに加え、自分自身が何らかの対応した情動的状態にあると想像している
    • しかしそのような想像者の反応は、上で述べたように、単なる虚構的に真である命題の想像以上のものを必要としていることは明らか
    • そこで(ウォルトン以前の?)哲学者たちは、しばしば「鮮やかさvividness」という概念を、単に何かを虚構的真として受け入れることと、物語に夢中になることの違いを説明するために用いる
      • しかし「鮮やかさ」が虚構的情動とは異なる概念で、それを説明出来るものなのかは明らかでない(循環しているのではないかという疑念?)
      • さらに「鮮やかさ」概念自体がどのようなものかも明らかでない:「鮮やかな記憶」というのは、その人の情動が付与された記憶というよりは、その人の視覚的記憶を指すように思われる
      • しかも視覚的記憶の場合でも、その「鮮やかさ」はイメージの輪郭の明瞭さや色彩の明るさを指すものではない…つまりイメージの現象学的な特徴とは関係が無い

 

  • ウォルトンは情動的参与を、イメージの現象学的内容(vividness)ではなく、命題的内容によって説明しようとした
    • たとえば「私は今恐怖を体験している」という命題が虚構的に真であることによって、情動的参与を説明する
    • これは「鮮やかさ」を「自己言及的命題」によって置換する試みと言えるが、筆者はそれを、「鮮やかさ」以上には想像における情動的参与を説明出来ないとする

 

  • そもそも「鮮やかさ」概念は、情動的参与を伴う想像とそうでない想像の、因果的な違いを説明するためのものだった
    •  ウォルトンは現象的性質ではなく、命題的内容で情動を喚起するか否かを区別しようとした
      • 鮮やかさが何らかの役割を果たすとして、ウォルトンの図式だとそれは因果的に追加の虚構的真理を想像させることになる

      • しかし「月がチーズで出来ている」とか「誰かが怖がっている」という命題の想像にはそれ以上の因果的条件が必要ないのに、「私が感情を感じている」という命題の想像は因果的条件を要求するのはおかしい

      • ウォルトンは、「鮮やかさ」は単に(自己言及的命題の)虚構的真理を追加するだけと考えるが、モランはそもそもそれが何故可能なのかと問う

 

  • 表象が「鮮やか」であるとは、心に、関連付けや対照、考えの呼び込みなどの様々な活動を引き起こさせるということであり、想像者に追加の虚構的真を想像させることではない
    • つまり「鮮やかさ」や情動的参与は、想像される「内容content」の一部というよりかは、想像の「仕方manner」の側面である
    • もし情動的参与を虚構的真理(想像される内容)によって説明しようとすると、「『私は恐怖を抱いている』と非‐情動的にdispassionately想像する」と「私はそれをフィクションに『夢中になるswept up』ことの一部として想像する」ことの違いを説明できない(?)

 

  • 何かが真であると想像しながらも、自分がそれを信じていないように想像することは可能
    • 逆に、何かが虚構世界において偽であると理解しながらも、それが真であると想像することは可能
    • このように、物事の状態と、それに対する信念とは、区別される独立した想像の中身・内容

 

  • そもそも情動的想像力においては、何が作品世界において真であるかと、想像者が想像的に参加する心的状態の違いを認識することが、本質的に必要とされる
    • 例えば悲劇のアイロニー:主人公の真実を知らない心的状態への参加と、主人公の認識と真実のずれ(という虚構的真)を鑑賞することへの参加の両方を必要とする

 

  • ここで「虚構的真理」の概念と、「特定の想像の様態modeへの参与」の概念を区別する必要がある
    • たとえば視覚的想像の場合、「視覚的visual」というのは想像の特定の方法であって、想像者の純粋な(つまり現実世界における)心理的事実である。これは想像されることや虚構的真理には入ることがない

 

  • 同様に、想像の情動的側面は、想像の「方法manner」にまつわるものであり、想像されること(内容)ではない。
    • 言い換えれば、何らかの感情と共に想像することは、その感情を感じているhaving that feelingのを想像することとは異なる
    • そしてそのような想像の「様態」に関する事実は、想像される世界ではなく、現実の世界に存する

 

  • また以上より、フィクションに対する様々な反応は、私たちが実際に持つ純粋な態度の表現とみなされ、それに従って称賛されたり拒絶されたりするべきである。それらは虚構世界を構成するものではないのだから。

 

 

4.

 

  • 「想像者が想像するもの」と「想像者の現実の態度」の関係を、フィクションに対する抵抗現象によって分析する

 

  • マクベス』の別バージョン:「ダンカンがマクベスによって殺されたのではない」と、「マクベスがダンカンを殺したのは、マクベスの眠りを妨げたという理由のみによって不幸である」
    • 前者は、戯曲がそう言うなら受け入れられるが、後者は受け入れがたい
    • つまり後者は「純粋なgenuine(つまり現実の)情動的態度」と摩擦を起こす
    • 何故自分とは異なる信念を信じるように要請されているわけでもないのに、間違った意見を拒絶するかように、何かを想像することそれ自体を拒絶しなければならないと感じるのか?

 

  • フィクションにおけるある種の事柄について、「私たちが感じるように命じられるenjoined to feelこと」と「私たちが感じたいこと」に距離がある(感傷的sentimentalとか仰々しいpretentiousとかの批評における表現は、その抵抗を示しているのではないか)
    • これはヒュームの「趣味の基準について」における、「純粋な態度」と「何をどうやって想像するか」との関係の問題
      • 「推論上の誤りspeculative errors」と「私たちとは異なる道徳や良識ideas of morality and decency different from ours」;ただし二つは常に異なる反応を導くわけではないし、人によっても異なる。それでもこの非対称性が起こった場合の、その抵抗の意味を検討することは出来る
      • 前者は単にそれを虚構的真として受け入れられるが、後者はそうではない
      • 言い換えれば、後者においては私たちの「純粋な態度」が作品から距離を取れず、干渉してしまう
    • たとえば「幽霊が存在する」と「殺人は善」
      • 私たちは後者を(作品世界の)虚構的真理として受け入れるよりは、むしろ作者(や聴き手)(のバイアスみたいなもの?)に帰してしまう

 

  • これは道徳的に異なる登場人物を想像するというよりは、道徳的現実が異なる世界に想像的に参与することの難しさ

 

  • この抵抗は道徳的コンテクストに限定されるものではなく、実のところ作品の情動的教唆emotional solicitation(笑いや憐れみ、恐れであれ)と、私たちが実際に与える反応の違いによるもの
    • また「感受性の要求の交渉の問題the problem of negotiating the demands of receptivity」と「作品の主張を真面目に受け取ることに参与することthe engagement involved in taking the claim of the work seriously」の両側面が抵抗現象には存在する

 

  • ヒュームは生半可な説明:鑑賞者が自分の道徳的判断に自信があるから、道徳的な命題に抵抗を覚えるのだろう
    • しかし、むしろ自信があるのなら、それを想像することに抵抗を覚えないのではないかとか、何故自身がある事柄に抵抗を覚えるなら、何故信念と異なる事実的命題(幽霊が存在するとか)に抵抗を覚えないのか、などの批判に答えられない

 

  • 私たちは虚構的真理を決定する際に、何が批難や称賛に値するかに関する自分たちの感覚の果たす役割を認めている
    • そして感傷的だとか道徳的である作品における、そのような感覚による拒絶こそが、抵抗を引き起こす
    • そしてそのような場合私たちは、〈虚構世界の要素として構成的であるとして想像するべきもの〉だけでなく、それらの要素から帰結するもの、つまり〈どんな「純粋な態度」を採用するadoptべきか〉も同様に、伝えられているbeing toldかのように感じるのだ

 

  • 読者はフィクションにおいて、何が称賛すべきで何が馬鹿馬鹿しいかを決める権利を持つ
    • それは現実世界においてそうであるのと同様であり、読者はそれがフィクションを含むすべての可能世界においてそうであるとする

 

  • このヒュームの問題には「必然性」の概念が関与しているのではないか
    • 形而上学的必然性ではなく、概念的conceptual

 

  • 付随性supervenienceの問題:ヒュームは非道徳的事実から、道徳規則を推論することは出来ないと考えた(道徳はreasonではなくsentimentから出てくる。理解するのではなく感じることが出来るだけ)
    • つまり、私たちが非道徳的事実を虚構的真として受け入れたとしたなら、それらが(必然的に)虚構世界について何が道徳的に正しいのかを(非命題的に)教えてくれるということ(その虚構世界に、何らかの道徳的命題が付け加えられる必要がないということ)
    • 言い換えればヒュームは、非道徳的事実と道徳的事実の間には、付随性としての(概念的)必然性があると考えた。前者が与えられれば、後者も一意に決まると考えた
    • しかしその立場には問題があり、少なくとも私たちは自分とは異なる道徳的判断を、認識することは出来る
    • この主張はヒュームのものと矛盾するように見えるが、実は両立可能
      • つまりヒュームの論においては、二種類の想像力が混同されている

 

  • 日常的な道徳的不一致において、私たちが自分とは異なる道徳的観点の認識可能性intelligibilityを理解出来る・しているとすれば、それはヒュームの見解に反するのではないか?
    • いや、そもそもヒュームの「感情に入り込むentering into sentiments」と「意見に入り込むenter into all the opinions which then prevailed」のenter into は違うのではないか
    • つまり “I cannot, nor is it proper I should, enter into such sentiments”と言うときには、それは劇的試演dramatic rehearsalや共感的な同化のことを言っているのではないか。しかしそのような行為は、信念に関わる仮定的推論においては全く出番がない
    • むしろ劇的試演dramatic rehearsalや共感的同化は、私たちがそれを実行するのを簡単に感じたり難しく感じたりする想像力の成果なのであり、それはそれらが命題を心に抱くentertain能力以上のことあるいはそれより別のことを要求するためである
      • 想像そのものではなく、想像力の成果

 

  • またヒュームの議論はそもそも、対称性が成り立っていない
    • 「推論上の誤りspeculative errors」の場合は、仮説的想定をするために私たちが「少し考えを変えるa certain turn of thought」必要があるとしている
    • しかし一方で自分とは異なる「感情に入り込むentering into sentiments」場合は、仮説的想定ではなく、「実際に」自分の判断を変えることについて言っている
    • つまり、異なる意見に仮説的に入り込むことと、良識の判断を実際に変えることを対比してしまっている
    • もし対称性を成り立たせるなら、「異なる意見に入り込むことentering into different ipinions」を、単なる仮説的想定ではなく、実際に自分の意見を変えることとして取らなければならないだろう
    • しかしそうする際に必要なことは「少し考えを変える」どころではないだろうし、結局それは自分と異なる感情に入り込むことと同じくらい難しくなってしまうだろう

 

  • むしろ、仮言的hypothetical想像力と、劇的dramatic想像力という二つの異なる想像的活動を想定した方が良い
      • →そしてそれに応じて異なる抵抗が生じると考える
    • 両方とも現実に自分の判断を変えるものではないが、後者では仮定と結論、虚構と実際の行動の違いを見失うことがある
    • 結局ヒュームの考える抵抗が必要とするのは、単に命題が真であることを想像する(仮言的想像力)ことでも、実際に自分の判断を変える(劇的想像力)ことでもない。ヒュームの記述は二つを行ったり来たりしてしまっている
    • もし仮にヒュームの例における抵抗が命題的であったら、抵抗されるものは命題の真を完全に信じること(「自分の判断を変える」)か、命題の真理を仮定して考えてみること(仮説的想像力)のどちらかでしかない
      • …それはおかしい
    • しかし実際には、そのような抵抗が起きるのは、「部分的にしか命題的でないような態度」の表現expression of attitudeである
    • 私たちが抵抗するのは、命題に対する信念というよりは、表現される視点point of viewに入り込むことである

 

  • 視点の想像的な導入adoptation⇔反事実的推論における想像
    • 後者においては信念のふりfeigningや、信念という事実からの帰結を決定することを含まない。特定の命題の真を含む
      • →想像において、信念の主体や心理学的主体としての自己への参照をする必要がない
    • 前者(情動的態度に関する想像)においては、dramatic rehearsal, the right mood, the right experience, a sympathetic natureなどが必要となる。視点、状況への全体的なパースペクティブを含む
    • まとめれば、後者よりも前者において、主体が問題となる

 

  • 劇的想像力はgenuine rehearsalを含み、視点を「試してみるtrying on」ことや、それがどんな感じなのかを判断することを含む
    • そしてそれは、「気が乗らないmy heart is not in it」と、することが出来ない類のものである(反事実的推論は反対にトピックやムードから独立している)

 

  • ただし以上の二つの区別を認めた上で、抵抗現象それ自体は両者を含むものである

 

  • 以上抵抗現象を巡る議論は、想像力を命題の集合によって定義された虚構世界の観点から分析することの限界を示すものである

 

  • また私たちは、想像から知識を得ることが出来るという考えにコミットしているように見えるが、それは想像される虚構世界への参与が、現実世界において問題となることから完全に切り離されてはいないと私たちが考えていることを示しているだろう
    • 想像とは、虚構世界を垣間見ることというよりは、(虚構世界を)この世界に関連付ける方法である imagination is not so much a peering into some other world, as a way of relating to this one

 

  • 現実の感情が、フィクションにおいては「compartment」されているのではないか

アリストテレース『詩学』における筋の類型論

1.『詩学』における筋の四類型について

 

 アリストテレース詩学』の第14章では登場人物が「自分が何をするか知っているかどうか」、そして「その行為を実行するかどうか」によって筋を四つに分類している。それらは以下のように分類できる。

 

 

行為

記述の順

優劣

作品例

メーデイア』(エウリーピデース)

 

×

(4)

アンティゴネー』(ソポクレース

×

『オイディプース王』(ソポクレース)『アルクメオーン』(アステュダマース)『傷ついたオデュッセウス』(伝ソポクレース

×

×

クレスポンテース』(エウリーピデース)『タウリケーのイーピゲネイア』(エウリーピデース)『ヘレー』(不明)

 

例えば③の場合であれば、登場人物は自分が何をするのかを知らず、かつその行為を実行する(そしてその後に自分が何を行ったかを「認知」する)。それは『詩学』では2番目に記述され、アリストテレースによれば3番目に優れた筋であり、作例は『メーデイア』ということになる。

 知・無知に関しては、「無知」は正確に言えば人物が何をしようとしているのかを知らずに行為しようとし、行為するまえに「認知(アナグノーリシス)」が起こる(④)か、行為した後に「認知」が起こる(③)ということである。アリストテレースは他の章でも述べている通り、そのような「認知」と「変転(メタボレー)」が悲劇の重要な要素と考えており、それらが起こり得る筋としての「無知」の筋を「知」の筋よりも高く評価しているのだ。

 

2.『タウリケーのイーピゲネイア』について

 

 エウリーピデース作。前410年代の上演とされる。アガメムノーン王の長女であるイーピゲネイアは、父によって生贄に捧げられそうになったところを、女神アルテミスによってタウロイ人の国(タウリケー)に移住させられたという過去を持つ。作品は母殺しによって狂気に取りつかれたアガメムノーン王の息子でありイーピゲネイアの弟であるオレステースが、狂気からの回復のために女神アルテミスの木像を手に入れるためにタウリケーを訪れる所から始まる。タウロイ人の風習によって生贄にされそうになるオレステースと、弟とは知らず彼をアルテミスへの生贄に捧げようとするイーピゲネイアとの姉弟の再会が本作のメインテーマであると言ってよいだろう。

 

3.『詩学』の考察対象となった筋について

 

『イピゲネイア』は1.の分類における④「無知・非行為」の一例である。この作品は『詩学』においては「『タウリケーのイーピゲネイア』において姉が弟を生贄にそなえようとして、それが弟であると認知する」(p.58)筋が言及されている。以下で具体的な箇所を引用しつつ説明する。

詩学』に引用されている箇所からわかるように、この作品においては姉弟がお互いにそれと知らずに出会うことになる。以下は生贄として連れて来られたオレステースとそれを屠る巫女としてのイーピゲネイアが出会う場面である。

 

(イーピゲネイア)いったいあなた方の産みの母はだれ、実の父はどなたです?/また、もしひょっとして姉がいるなら、その人の名は?/こんなに立派な若者二人を奪われては、/その人は兄弟のいない身になりますね。[…]ああ、気の毒な旅の方々、いったいどこから来られたのです?[…]

(オレステース)あなたが何者かは知らないが、女よ、なぜこのことで嘆き、さらには、ぼくたち二人の身にかかわる災いのことで、心を痛めているのか。[…](pp.52-53)

 

 

引用からわかるように、二人はお互いの本来の関係(姉弟)を知らないまま、その時与えられている役割において相対することになる。ここが1.の四分類における「無知」に当たる場面である。

 一方で姉のイーピゲネイアが故郷のアルゴスへ手紙を送ろうとする場面で、まずオレステースがイーピゲネイアを認知する。

 

(イーピゲネイア)アガメムノーンの子オレステースに伝えて下さい。/「この手紙を送るのはアウリスで生贄にされたイーピゲネイア、/そちらの人たちにすればとうに死んでいるのですが、私は生きています。」

(オレステース)その女の人はどこにいるのだ、死んでしまったのがまた生き返ってきたのか?

(イーピゲネイア)あなたの目の前にいるわたしのことです。話の腰を折らないで。[…]

(オレステース)ピュラデース、なんと言えばよいのだ、ぼくたちはどんな事態に直面しているんだ?(pp.77-78)

 

 

ただ生贄としてオレステースが屠られるのが避けられるためには、双方がお互いを認知する必要がある[1]。オレステースは自分が弟であることを示すために、オレステースでしか知り得ないことを次々に述べ、最後に姉の部屋にあったものに関して以下のように述べる。

 

(オレステース)ぼくが自分で見たことでは、これを証拠として挙げましょう。/父の館にあったペロプスの年代ものの槍、/ペロプスがそれを手にして振り回し、オイノマオスを殺して、/ピーサ生まれの乙女、ヒッポダイメアを獲得したという代物です。それが、あなたの暮らしていた乙女部屋にしまってあったのです。

(イーピゲネイア)おお、誰よりも愛しい弟、まちがいない、あなたは愛しい弟だから、/わたしが抱きしめているのはオレステース、あなたね、[故郷のアルゴスを離れてやってきた弟]、おお、愛しい弟!

(オレステース)ぼくの抱きしめているのは、死んだ姉さん、あなたなのですね。死んだと思われていたのに。(pp.82-83)

 

かくして二人の間で認知が為され、イーピゲネイアはオレステースを生贄として殺さずに済むように知恵を巡らせ、そのたくらみは成功するのだ。ここにおいて『イピゲネイア』は1.の分類における「非行為」の一例となっている。

 

4.文献

 

アリストテレース詩学』・ホラーティウス『詩論』松本仁助・岡道男訳(岩波文庫、1997年)

エウリーピデース『タウリケーのイーピゲネイア』久保田忠利訳(岩波文庫、2004年)

 

[1]詩学』の第11章では、二つの認知が必要な例としてこの作品が挙げられている通り。

Nick Zangwill (2001) 「形式的な自然美」レジュメ

Zangwill, Nick (2001). Formal natural beauty. Proceedings of the Aristotelian Society 101 (2):209–224.

アブストラクト(訳)

私は自然の美学に関する穏健な形式主義を擁護する。私は反形式主義者たちが多くの自然美における不調和(incongruousness)を説明できないと論じる。このことは種に依存しない自然美が存在することを示す。それから私はいくつかの反形式主義的議論に対処する。それらはRonald HepburnやAllen CarlsonそしてMalcolm Buddなどの著作に見られるものである。

Ⅰ 様々な反形式主義と「としてテーゼQua Thesis」

  • カント以来の依存美と自由・形式美の対立
    • ある対象が何らかの機能を持っていて、その対象の美がその機能を表出したり分節したりするとき、それは依存美である
    • 対象の美が機能を表出せず、その対象がそれ自体で考慮される仕方に依拠しているとき、それは自由美・形式美である
  • 極端な形式主義は全ての美は形式美と言う
    • 形式主義は全ての美は依存美だと言う
    • 穏健な美的形式主義は二つの美の両者が存在すると言う:筆者の立場
  • カールソンは極端な反形式主義
    • 自然の美的性質を鑑賞するためには、対象を常に正しい歴史的機能的カテゴリに位置づけなければならない
    • 強い主張:自然の正しい美的鑑賞は対象の科学的理解に依拠する
    • 弱い主張:自然の正しい美的鑑賞は、対象をそれの属する種の一員として鑑賞しなければならない
    • 筆者は両者を否定する
  • ここでの問題は、自然物は、それが属する自然種として qua the natural kinds they are members of美的性質を持つのか?ということ:「としてテーゼ Qua Thesis」
    • 強い「としてテーゼ」:私たちは正しい特定の科学的・常識的な自然カテゴリに対象を位置づけなければならない
    • 弱い「としてテーゼ」:自然物 natural thingを自然物として鑑賞すれば良い
      • 芸術の美的鑑賞は芸術を芸術として鑑賞することであるように、自然を自然として鑑賞することが自然の美的鑑賞(Budd)
  • 筆者は両者を否定するが、修正は微々たるものである
    • 多くの場合、私たちは対象をそれが属している特定の自然種に属するものとして鑑賞しなければならない
  • カールソンの議論はウォルトンの「芸術のカテゴリー」に依っている
    • ウォルトンは美的判断はカテゴリーの下で下されるべきと考えた
      • しかし彼は芸術に関して適用するのが正しい・正しくないカテゴリが存在するが、自然に関してそうではないことがあるとした。
        • 芸術と自然に関する美的判断は両者ともカテゴリー依存 category dependentだが、自然に関する美的判断だけがカテゴリー相対的 category relativeとした。
      • つまり自然物はC1に相対的に美しく、C2に相対的に美しくないことがある。このときC1とC2は同等の有効性validityを持っている。
    • カールソンはカテゴリ依存テーゼは受け入れるが、カテゴリー相対テーゼを拒絶する
      • つまり自然もその下で鑑賞するべき「正しい」カテゴリが存在する
    • 筆者はカテゴリ依存テーゼを芸術に関しても自然に関しても拒絶する。
  • 形式主義者たちは「もし美的判断がカテゴリ依存的でなかったならば、美的判断の客観性や正しさを主張し得なくなるだろう」と考えてウォルトンの主張を受け入れたが、それは誤り。
    • 非カテゴリ依存的な美的判断も客観性を主張し得る
    • 筆者の穏健な形式主義はカテゴリ独立的な美的判断があるとする

Ⅱ 方法論的反省

  • 形式主義者たちを説得するための思考実験
    • ⑴とても緻密で香りづけまでされた造花がある。これは美的に生きた花と異ならない。確かに花から得られる快は対象が生きものであるということから生じるが、それは美的快ではない。
    • ⑵あるフィヨルドは人工的に作られたものである。それを見ていた人は最初自然物だと思っていたが、あるとき人工物と知らされる。これによってフィヨルドの経験は少し変わって阻害されるだろうが、しばらく経てば元通りになるのではないか?
    • ⑶有神論者にとって自然もまた神による芸術である。しかし有神論者による自然の鑑賞は、無神論者のそれと異ならないだろう。もしその人が信仰を失ったり、あるいは取り戻したりしても、自然の鑑賞経験は変わらないだろう。
  • 以上の思考実験は、形式主義にコミットしている人たちの直観を明晰にするが、異なる直観を持つ反形式主義者たちを説得しないだろう。
    • よってもっと良い例を探そう。

Ⅲ 「として」抜きの生物美biological beauty

  • 生物はその生物が属する種として美しいのか?
    • 極端な形式主義は種など関係ないとするし、反形式主義は種として美しいのでありそれ以外ではないとする
    • 穏健な形式主義としては、どちらも許容し得る
  • クジラの例
    • クジラの美しさは、クジラとしての美しさ、つまりそれが哺乳類であることが重要?
    • 例えば巨大サメの美しさとクジラの美しさは、それぞれが魚類と哺乳類であることから別の美しさか?
    • 筆者はそれを否定し、カールソンはそれを肯定する:直観の衝突
  • 泳ぐシロクマの例
    • このシロクマが美しいのは、それが美しい生きている物だからでも、美しい自然物だからでもなく、単に美しい物であり、並外れた現象だから。
    • 仮に人間がクマのスーツで踊っていたとしても、それはスペクタクルであり、自由で形式的な美を持っている。
  • 同様にタコの動きの美しさも、タコが魚や哺乳類、あるいは人工物にカテゴライズされようと変わることは無い。
  • よって筆者は「としてテーゼ」の弱いヴァージョンすら拒否する。
    • カールソンは自然において「多くの」美的性質が、その自然物を正しく理解することによってアクセスできると言った点で正しい
    • しかし実際には自然はカテゴリに依存する依存美だけでなく、独立した形式美も持っている。
  • シロクマの例
    • 泳ぐシロクマの美しさに関しては、それが驚きであることが重要である
    • つまり私たちはシロクマにその美しさを期待していないのであり、よってその美しさはシロクマ性の理解に依存していない
      • つまりシロクマは私たちがシロクマに期待していなかったような形式美を持つ
    • 筆者によればシロクマはシロクマとしての美=依存美を持たない(極端な形式主義)。一方でもし持っていたとしても、それは上で述べたような形式美のような驚きや衝撃をもたらさないだろう。
    • よってそれらの驚きを伴う、期待を裏切るincongruous美は、対象のカテゴリ・種に依存しない形式美であり、カテゴリと全く関係がない。

Ⅳ 非有機的自然美

  • 筆者にとって非有機的自然の美が形式美であることは明らかであるように思える。
    • 対象の(カテゴリではなく直接知覚可能な)狭い非美的な性質によって対象の美が決定されているように見える
  • しかし強大な論敵としてRonald Hepburnが挙げられる。
    • 彼は砂と泥の広がりを歩いて経験することを想定する。実はその広がりが潮泊渠tidal basinであり、潮が退いた状況であるとする。
    • 潮の退いた状態であるという知識を持たないとき、その状況の美的性質は「荒々しく満足した空虚wild, glad emptiness」だが、その知識を持つときやがて海に覆われる地帯を歩くときの美的性質は「不気味なほど奇妙disturbingly weird」になる。
    • ここではウォルトンにおけるゲルニカズのように、非知覚的な文脈が美的性質に影響を与えている。
      • つまり自然物の美的性質がその歴史や文脈に依存しているのであり、それを知らなければ美的判断はできない。これは対象の置かれた文脈に美が依存しているという意味で反形式主義を重み付けるように見える。
  • 筆者からの反論:鑑賞の対象それ自体と、時間的全体の一部としての対象を区別すべき
    • 経験するそのときの砂と泥の広がりをA、より広い時間的な広がりに位置づけられた同じ砂と泥の広がりをBとする。
    • 私たちはAのみの美的性質を考慮することもあれば、Bのみを考慮するときもあり、さらにはA+Bの美的性質を考慮することもある。
      • Aの美的性質が「荒々しく満足した空虚」であり、A+Bは「不気味なほど奇妙」である。
    • 筆者によれAとA+Bの美的性質が異なるのは当たり前。それはそれ自体は「陽気な」音楽が葬式で流されると「奇妙な」という美的性質を持ってしまうのと同じ。
    • これは形式主義への反論にならない。単に形式的な美的性質を持つ対象自体が異なるだけ。
      • その砂と泥の広がりは「荒々しく満足した空虚」であると同時に「不気味なほど奇妙」なのであって、どちらかが間違っているわけではない。
      • つまり美的性質は知識によって変化しているわけではないので形式主義への批判にならないどころか、形式主義によって分析できる。

Ⅴ フレーム問題

  • 形式主義が説明できないとされてきた問題に対処していく。
  • フレーム問題とは美的鑑賞の対象の境界に関する問題である
    • 芸術作品は大抵どこからどこまでが作品なのかの境界を持ち、それは作者の意図に従っている。
    • しかし自然はどこからどこまでが鑑賞の対象なのかが明らかではない
      • 雑木林を鑑賞するとき、各々の木を別々に鑑賞しても良いし、林全体を見ても良い。しかしなぜ雑木林を一つの単位とするのか、また近くの湖を含めるのかなど、評価の単位が恣意的になっている。
      • そのため(恣意的であるということはカテゴリによって鑑賞対象を識別するわけだから)心的要素から独立な美的性質という形式主義は怪しくなってくる。
  • 自然美は変動的だとする主張がある
    • つまりフレームを修正すると、そのフレーミングされた全体の美が変動するということ
    • これは起こり得るが、経験を記述できていないと筆者は述べる。
      • 確かに雑木林に加えて駐車場をフレームすれば美は低下するが、それは駐車場が独立して醜いからであって、フレームを変えるだけで美が変動しているとは考えづらい。
  • 結局私たちは自然美の美的に複雑complexであることを認めることでsubstantiveな美的性質を説明できる
    • もし雑木林(C)の近くに湖(L)とスイセン(D)があるとする
    • C+L+Dについて考えうろ気、C+L、C+D、L+Dはそれぞれ異なるsubstantiveな美的性質を持ちうるのであり、さらにそれらの性質は有機的に結合してC+L+D全体のsubstantiveな性質を生成する。
    • 同様にC+L+Dを部分とする全体の美的性質も同様に考え得るのであり、結局フレーム無しの複雑性も説明できる。
  • 結局自然美はフレームを無限に持っているのであり、それぞれのフレームの持つ美的性質を全て持っている。
    • ただしフレーム依存であることは心依存mind-dependentであることを意味しない。
    • フレームは私たちの結合の認識とは独立に存在するのであり、それぞれのフレームによって決定される美的性質も存在する。

Ⅵ 倍率問題

  • 美的判断は感覚的知覚に依存しており、よって私たちの趣味は人間にとってのみ普遍妥当する。色・音・時空間的見た目が関係する。
    • 全ての合理的なratinal存在に適用可能な道徳とはこの点で異なる。
  • しかしそれは美が人間的スケールに限定されるという訳ではない
    • 巨大あるいは微小なものも、それが別の時空間的性質を持てば美しくなる
  • しかしここで問題が生じる:自然は私たちから独立に美的性質を持つのか?
    • 芸術の場合は作者の意図によって受容方法が定められるが、自然にはそのようなものはない
    • Buddの問題提起:砂山を鑑賞するとき、どの倍率において私たちがそれを観るべきかは恣意的か不確定である。同様にそれがどんな美的性質を持つかも恣意的か不確定である。
    • これは美的性質の実在論の問題を提起するが、筆者はBuddの取る相対主義的帰結には同意しない。
  • 全体的なtotal美的本性という概念を導入する。これは対象が持つ美的性質の総和のこと。
    • 私たちは様々なレベル(倍率)で物を見ることができるが、それぞれの倍率において美的性質があり、それらの総和を対象の持つ全体的な美的性質とする。
  • 反論:レベルNでは美しく、N+1では醜く、N+2では美しく…という場合、対象は美しいのか?醜いのか?
    • フレーム問題でそうしたように、私たちは自然美の複雑性を認めるべき。異なるレベルにおいて異なる美的性質があり、それは自然美が私たちと独立であるという主張を譲らずともそう言える。
    • 絵画のある箇所がエレガントで別の箇所がエレガントでない場合があるように、自然物はあるレベルでは特定の美的性質を持ち、別のレベルでは別の美的性質を持つことがある。
  • よって美的性質が私たちに相対的であるというのは言い過ぎ。
    • 単に見方を変えれば別の美的性質がアクセス可能になるというだけ。
    • それらは矛盾するかもしれないが、両立可能であり、美的実在論への反論にはならない。

Ⅶ 積極的鑑賞

  • またカールソンは形式主義への反論として、自然の鑑賞は純粋に観照的contemplativeではなくて、積極的activeに没入することが必要だと述べた。
    • 筆者はこれに同意するが、カールソンはこの議論で自らの指摘した間違い、つまり風景の鑑賞を、風景画の鑑賞と考えてしまう間違いを犯している
    • 三次元的な風景の鑑賞は、二次元的な風景画の鑑賞と異なる。その中で動き回り、三次元の形式的性質を積極的に没入して味わうことが風景の鑑賞である。
  • つまりカールソンは形式的性質を二次元的性質に限定してしまっているのが誤り。
    • 形式的性質には三次元的なものがあり、それは対象同士の空間的関係によって生み出される。それらは積極的に鑑賞される必要がある。
    • 自然の形式的性質はそのようなものである

佐金 武・高野保男・大畑浩志「ユーモアはなぜ愉快なのか」(2020)雑レジュメ

seibundo-pb.co.jp

の第4章より。ざっと読んだだけなので雑です。現代英語圏の笑いの哲学を押さえるのに有益でした。

1.はじめに

  • 主要なユーモア理論は三つある
    • 安堵説(relief theory):フロイト
      • ユーモアは緊張と緩和による安堵によって生み出される
    • 不一致説(incongruity theory):ショーペンハウアー
      • ユーモアには何かしらの「ズレ」が含まれる
      • そしてそのズレの発見は思考のバグを取り除くのに役立ち、愉快さはその報酬である
    • 優越説(superiority theory):ホッブズ
      • 愉快さとは優越感である
  • 本稿の構成は以下の通り
    • 以上の諸理論は競合するのではなく、ユーモアに関する異なる問いに対する異なる説明であることを論じる(第2節)
    • 近年有力な不一致説の問題点を指摘する(第3節)
    • ユーモアに特徴的な愉快さは感情であることを論じる(第4節)
    • そのような愉快さに対して優越説による説明を試みる(第5節)

2.ユーモア理論とその類型

  • ユーモアや笑いは様々に研究されてきたが、それらは三つの問いに分けることができる

    • ⑴ユーモアはどのようなときに生じるか(ユーモアの発生条件)

       ✏️ 笑いを引き起こすものは何か?

    • ⑵ユーモアはなぜ愉快なのか(ユーモアが引き起こす心的状態)

       ✏️ 笑いの愉快さとは何か?どんな心の状態か?

    • ⑶ユーモアはそもそも何のためにあるのか(社会的意義・機能)

      ✏️ 笑いの機能とは何か?笑いは人類や社会にどんな意義を持つ?

  • 不一致説は⑴に関するものと言える

    • ヒトがユーモアを感知するのは、ものや出来事に「常識や通常の理解との意外なズレ」を見出すとき
    • 言い換えれば期待に対する裏切りがユーモアを発生させる
      • とんちやボケ&ツッコミの面白さを上手く説明できる
  • 優越説は一方で、ユーモアは人が予期しない優越感を得たときに見出されるとする

    • 人のどじ(バナナで滑って転ぶとか)によってもたらされる笑いを説明できる
    • これは実のところ⑴ユーモアの発生条件というより、⑵のユーモアのもたらす心的状態を説明したものと言える
  • 安堵説も⑵に関するものと言えるかもしれない。

    • 例えば下ネタは安堵説で上手く説明できる
  • またベルクソンの懲罰理論(肉体や精神のこわばりは滑稽であり笑いはそれに対する懲罰である)は⑶に関するものと言える。

    • ユーモアの笑いは、凝り固まった社会的通念に対して笑いは罰を与え、その固定的な思考の枠組みを乗り越える契機としての社会的機能を持つ
  • アクィナスの遊戯説(ユーモアの愉快さは遊戯の愉快さである)は⑵の感情理論とも言えるし、ユーモアが娯楽であるとする点からは⑶の説明とも言える。

  • 以上のことから言えるのは、諸理論は必ずしも競合しないということ。

    • それぞれの理論に得意なユーモアの種類がある。
    • ここから包括的な笑いの理論を構築するためには、以上をパッチワークするのではなく、一つの立場から⑴⑵⑶すべてに一貫した答えを示す必要がある。
    • 先行研究ではHureleyの不一致理論があるが、本稿では優越説の観点から包括的理論を構築する。

3.ユーモアと愉快さの甘い関係

  • 不一致仮説:⑴ユーモアはヒトが思考のバグを発見したときに生じるのであり、⑵ユーモアの愉快さはそのようなデバッグ作業に伴う心的状態である。⑶さらにユーモアはデバッグに愉快さという報酬を与えることで、思考と現実が乖離せず、正しい世界像を描くデータの整合性を保つ動機づけをする。
  • 筆者は⑵が説得的でなく、⑶も可能性の一つに過ぎないとする。

4.ユーモアの愉快さは感情か

  • ユーモアの愉快さが感情ではないとするMerreallに反論する。
  • また感情が非認知的な身体変化の知覚であるとする新ジェームズ主義に反論し、ユーモアの愉快さは認知的だが感情だとする。

5.ユーモアの感情理論としての優越説

  • 優越説とは、ユーモアの愉快さを突如得られる優越感とする理論である。
  • この理論はユーモアのダークサイドに言及し、人間の暗い本性を暴露するように思われる
    • しかし本稿では優越感とは必ずしも劣った者への見下しではなく、より優れたものへの称賛が伴うものであり得ると論じる。

5.1優越説の擁護

  • 優越説への批判1:優越感を感じているがユーモアの愉快さを感じない場合もある
    • 例えば動物が賢くない振る舞いをするときや、貧しい人々に対するとき
    • 再反論:それらは実は優越感ではない。
      • 劣ったものや弱者に対しては優越感だけでなく、不憫さ悲しみ慈しみ同情など様々な感情的態度が取られる。
    • また優越感にも悪意に満ちたものとそうでないものがあるが、前者があるからといって後者の存在は否定されない
  • 優越説への批判2:ユーモアの愉快さを感じているが優越感を感じていないように思える事例もある
    • 例えば大喜利。うまい解答に対する愉快さは優越感と何の関係も持たないように思える。
      • ダジャレも上手く説明できない。
  • 反論に応えるために、優越感を二つ区別する
    1. 対象の自分との下方比較に基づく優越感
    2. 自分や自分を取り巻く誰かの(比較ではなく)卓越性に基づく優越感
      • 数学の難問を解いたとき、険しい山の山頂にたどり着いたとき、すばらしい芸術作品を生み出したときに感じられる
      • これに蔑みや見下しなどの感情は含まれない。
    • またこの二つの区別は別の観点からも可能
      • つまり競争的なゼロサムゲームにおいては、他人の不幸が自分の幸運となるので、相対的な比較に基づいた優越感が生じやすい。これは共有不可能な優越感。
      • 一方で誰かの成功が全体の利益になるとき、他人の卓説性への称賛の気持ちは自分自身の優越感となる。こちらは共有可能な優越感。
      • また逆に優越感の共有のしやすさによって、それが悪意を持つか否かが判断されるとも言える。共有しにくい優越感に基づく行動は不道徳と見なされる。
  • 2の優越感によって批判2に応答可能
    • 大喜利やダジャレなどは不一致説の言うように何らかのズレを含んでいる
      • コメディアンの誇張された振る舞い、ドジ、お題への絶妙なボケなど
      • これらのズレの発見は優越感(2)を私たちにもたらし、それこそがユーモアの愉快さである
    • ただしこれはシャーデンフロイデとしての優越感(1)による笑いの存在を否定するものではない。

5.2優越説の優位性

  • またズレの発見に伴う優越感としての愉快さは、明らかに適応的。というのもズレの発見は一般に生存上有利に働くため。
    • これは不一致理論とほとんど同じ結論である。
  • しかし不一致理論の問題は、ユーモアの発生条件(1)と存在理由(3)に応えるだけでは、ユーモアに伴う心的状態に関する問い(2)に答えられないという点にあった。
    • つまりユーモアの果たす機能から遡及的に、それがなぜ愉快なのかを説明するのは困難
  • 優越説は不一致説と両立可能であり、両者を組み合わせることでユーモアを巡る三つの問いに整合的な回答を与えることができる
    • つまり:「ユーモアは何らかのズレ(思考のバグ)が発見されたときに生じ、ユーモアの愉快さはその発見に伴う優越感に他ならない。そして、ユーモアの存在理由は、この優越感を通じて我々の思考を絶えず最適化することにある」
  • キャロルは不一致説と安堵説を組み合わせたがそれはどうか
    • つまりユーモアの愉快さとはズレが無害であることを暴露され、安堵すること
    • たしかにズレの無害さは愉快さに必要だが、安堵がユーモアの愉快さであるようには思えない
      • 愉快さには一種の興奮が伴うから。
    • またズレの無害さに安堵することが、なぜ思考の最適化につながるのかも説明できない
  • 優越説は不道徳なユーモアを説明できる
    • ユーモアは時に攻撃的な嘲笑であり不道徳と非難されることがある
    • これはユーモアの愉快さが優越感、この場合には特に相対的比較(下方比較)に基づいている場合だと言える。
      • そしてその優越感を表現して対象を毀損したり、あるいはそのようなユーモアに対して公的な反応(笑い)を示すことが不道徳なのだ。

コメント

  • ユーモアの愉快さを優越感だけで特定できたのか?
    • 下方比較による優越感が笑いにつながらない場合に触れられていたが、卓越性への称賛としての優越感もまた笑いにつながらない場合も多くある。
    • いや筆者はそこで不一致説を組み合わせたのか。単なる優越感ではなく、ズレの発見に対する優越感が笑いの必要十分条件と主張
      • でもズレの発見に対する優越感を感じていても笑わないこともありそう
  • 下ネタの面白さは結局説明出来てない気がする。
    • 安堵説に任せるということ?

『言語哲学大全Ⅰ増補改訂版』1.1&1.2 レジュメ

*オンラインでこの本の読書会やってます。興味のある方はご連絡ください。

第1章 フレーゲと量化理論

1.1 ひとつの問題

問題の導入

  • 以下で⑴は⑵に、その内容を変えないまま受け身に変形されているように見える。
    • ⑴ 誰もが、誰かをねたんでいる。
    • ⑵ 誰かが、誰もからねたまれている。
  • 通常、文は能動から受け身に変形されても真理値(真偽)を変えない
    • 例えば…
      • ⑶ 太郎が、花子をねたんでいる。
      • ⑷ 花子が、太郎からねたまれている。
    • このとき⑶が正しければ⑷も正しい。⑶から⑷を導ける。
  • しかし⑴と⑵に関しては、問題となっているのが太郎、次郎、花子の三人とすると真理値が変わってしまう。
    • 太郎が花子をねたみ、次郎は太郎をねたみ、花子は次郎をねたんでいるとき…
      • ⑴は真であるのに、⑵は偽である(全員からねたまれている一人は存在しない)
  • しかし⑶→⑷のような論証は哲学の歴史において度々現れてきた
    • アリストテレス『ニコマコス倫理学』の例
      • 「いかなる行為にも、その究極的目的がある」から 「ひとつの究極的目的を目指して、すべての行為がなされる」を導いている
        • 補足:これは人生における行為は「目的-手段」の連鎖(早寝するのは早起きするためであり、早起きするのは試験監督に間に合うためであり、試験監督は給料のためであり…)の中にあるものだが、その連鎖が無限に続くのであれば人間の行為は無目的になってしまう。ここで究極的な目的が存在しなければならず、それは「最高善」である。
      • 前者が述べているのは、それぞれの行為の連鎖(A→B→…→Xやa→b→…→x)に究極的目的(Xやx)が存在するということ。
      • 一方で後者が述べているのは、すべての行為の究極的目的が一つに絞られるということ(つまりX=x)であること。
      • 前者から後者を導くのは、⑴から⑵を導くのと同じ誤りである。
    • 以下では⑴と⑵が論理的にどのように異なるのかを明示する手立てを探ることになる

中世の論理学者あるいはラッセル流の分析

  • まずは⑶と⑷のように⑴と⑵に具体名を放り込んでみて、考えてみる。
    • ⑸太郎と次郎と花子が、太郎か次郎か花子をねたんでいる。
    • ⑹太郎か次郎か花子が、太郎と次郎と花子からねたまれている。
  • 次に以下の規則AとBを導入する
    • A:「XとYとZと…」となっている文は、それらのXやYやZが個別に現れる文の連言(⋏、and)に書き換えられる
    • B:「XかYかZか…」となっている文は、それらのXやYやZが個別に現れる文の選言(∨、or)に書き換えられる
  • AとBを⑸に適用してみると…
    • 主語にAを適用
      • ⑺(太郎が、太郎か次郎か花子をねたんでいる)⋏(次郎が、太郎か次郎か花子をねたんでいる)⋏(花子が、太郎か次郎か花子をねたんでいる)
    • 述部にBを適用
      • ⑻ ((太郎が、太郎をねたんでいる)∨(太郎が、次郎をねたんでいる)∨(太郎が、花子をねたんでいる)) ⋏ ((次郎が、太郎をねたんでいる)∨(次郎が、次郎をねたんでいる)∨(次郎が、花子をねたんでいる)) ⋏ ((花子が、太郎をねたんでいる)∨(花子が、次郎をねたんでいる)∨(花子が、太郎をねたんでいる)) となる。
  • 次にAとBを⑹に適用してみると…
    • Bを適用
      • ⑼’(太郎が、太郎と次郎と花子からねたまれている)∨(次郎が、太郎と次郎と花子からねたまれている)∨(花子が、太郎と次郎と花子からねたまれている)
    • さらにAを適用
      • ⑼ ((太郎が、太郎からねたまれている)⋏(太郎が、次郎からねたまれている)⋏(太郎が、花子からねたまれている)) ∨ ((次郎が、太郎からねたまれている)⋏(次郎が、次郎からねたまれている)⋏(次郎が、花子からねたまれている)) ∨ ((花子が、太郎からねたまれている)⋏(花子が、次郎からねたまれている)⋏(花子が、花子からねたまれている)) となる。
    • ここで⑻と⑼が命題論理で比較可能になった:例えば⑻の「太郎が次郎をねたんでいる」は、⑼の「次郎が太郎からねたまれている」と交換可能。
      • ⑻と⑼は論理的に同値でないことは命題論理の真理値計算から明らかである。
  • 補足:どうやって同値でないと知るのか?(註5、p.60)
    • よって⑻の文をそれぞれP1(=太郎が太郎をねたんでいる),P2, P3, Q1, Q2, Q3, R1, R2, R3,と記すならば、⑻と⑼は以下のように書き直せる
      • ⑻(P1∨P2∨P3)⋏(Q1∨Q2∨Q3)⋏(R1∨R2∨R3)
      • ⑼(P1⋏Q1⋏R1)∨(P2⋏Q2⋏R2)∨(P3⋏Q3⋏R3)
    • これを⑻⇒⑼を真理値表で全て計算すると、真理値が偽になってしまうことがあるので⑻から⑼は導けない(論理的に同値ではない)ということになる(PDF参照)。
    • あるいはP1Q2R3が偽でありそのほかが全て真であるとする。⑻はこのとき明らかに真であるが、⑼はこのとき選言で結ばれた三つの括弧内が全て偽になり、全体としても偽になってしまう。つまり⑻が真であるのに⑼が偽であるような場合が存在する以上、⑻から⑼は論理的に導けない。

中世論理学者とラッセルの方法の問題点

  • 規則の適用順序がA→Bである根拠はなく、以下の(⑴や⑵と同様に)多義的な文の構造を明らかにできない。
    • (*)その一味の誰もが、誰かから金を受け取っていた。
      • この文においては以下の二通りの解釈が可能である。
        • Aから適用 「一味の全員が各々、同一人物とは限らない人々から金を受け取っていた」
          • つまり(Aが、A∨B∨Cから金)⋏(Bが、A∨B∨Cから金)⋏(Cが、A∨B∨Cから金)
        • Bから適用 「一味の全員が皆、ある一人の人物から金を受け取っていた」
          • つまり(A⋏B⋏Cが、Aから金)∨(A⋏B⋏Cが、Bから金)∨(A⋏B⋏Cが、Cから金)
        • この二つの解釈は論理的に同値ではない(計算した)。
    • 手続きとしてはAを先にしたりBを先にしたりすることで多義的な解釈を露呈させることはできるが、しかし「なぜ」そのような多義性が生まれるのかを説明することはできない。

1.2 文の論理形式

  • なぜ中世論理学者とラッセルは上手くいかなかったのか?
    • それは文を語の線状な並びと考えていて、文の構造的な生成過程を考えていなかったから。
    • フレーゲはどうやって問題を解決したか?
      • 以下では述語と量化の導入によってそれを明らかにする。

述語記号の導入

  • ⑴と⑶は「—は…をねたんでいる」、一方⑵と⑷は「…は―からねたまれている」という形式を共通して持っていると言える。
    • ⑶と⑷は「—」や「…」に固有名を入れてできた文であり、「—は…をねたんでいる」と「…は―からねたまれている」は固有名を入れる限りで常に論理的に同値である。
    • ここでそれらの固有名を入れる前の、空欄を含んだ文を「述語」と呼び、以下のように形式化する。
      • 「—は…をねたんでいる」&「…は―からねたまれている」→ F(—、…)
    • すると⑶と⑷は以下のように書き換えられる
      • F (太郎、花子)
    • しかしここまでで問題となってきたのは、空欄に「誰も」「誰か」のような語を入れると、⑴と⑵のように真理値が異なってしまうことだった。
      • つまり 「誰もが誰かをねたんでいる」&「誰かが誰もからねたまれている」 = ⒝ F(誰も、誰か) とすることはできない…

量化子の導入

  • ここで「誰も」「誰か」のような語を、固有名と同じように扱うのを諦めてみる。
    • そしてそれぞれを以下のように言い換えてみる。
      • ⑴は話題になっている人たちの内のどのひとについても、そのひとが誰かをねたんでいるということ。
      • ⑵は話題になっている人たちの内のあるひとについて、そのひとが誰もからねたまれているということ。
    • その上で⒜や⒝に倣って定式化すれば…
      • ⒞どのひとについても、F(そのひと、誰か)
      • ⒟あるひとについて、F(誰も、そのひと)
    • この書き方は、⑴や⑵がどのような場合に真になるか(真理条件)が明らかであるというメリットがある。再び登場人物を太郎、次郎、花子に絞れば…
      • ⒞は「太郎が誰かをねたんでいる」「次郎が誰かをねたんでいる」「花子が誰かをねたんでいる」の全てが真であるときに、真である。
      • ⒟は「誰もが太郎をねたんでいる」「誰もが次郎をねたんでいる」「誰もが花子をねたんでいる」のいずれかが真であるときに、真である。
      • しかも以上の⒞や⒟が真となる条件をあらわす文それぞれに関しても、さらにそれを真とする条件を見て取ることができる
        • 例えば 「太郎が誰かをねたんでいる」は、「太郎が太郎をねたんでいる」「太郎が次郎をねたんでいる」「太郎が花子をねたんでいる」のいずれかが真であれば、真となる。
  • さらにもう一つ記号法を導入:⒞や⒟におけるFの中の「そのひと」は、先行する「どのひと」と「あるひと」のことを指しているのだから、変項x,yを用いて以下のように書ける。
    • ⒠どのひとxについても、F(x、誰か)
    • ⒡あるひとyについて、F(誰も、y)
  • ここでさらに⒠のF(x、誰か)と⒡のF(誰も、y)を取り出して、⑴→⒞や⑵→⒟のように「誰も」「誰か」を「あるひとについて」「どのひとについても」に言い換えてみれば、以下のように書ける。
    • F(x、誰か)→⒢あるひとyについて、F(x、y)
    • F(誰も、y)→⒣どのひとxについても、F(x、y)
  • このようにして得られた⒢と⒣を、⒠と⒡に戻すと以下が得られる。
    • ⒤どのひとxについても、あるひとyについてF(x、y)
    • ⒥あるひとyについて、どのひとxについても、F(x、y)

記号による表現は文の形成史を明示する

  • ⒤や⒥のような表現は、文をどのような論理的順序で再構成できるかという形成史を示すものである
    • 「太郎が花子をねたんでいる」ということから以下が得られる。
      • (i-1)F(太郎、花子)
    • (i-1)が正しいとき、以下も正しいことがわかる。
      • (i-2)あるひとyについて、F(太郎、y)
    • さらに(i-2)が太郎だけでなく次郎にも花子においても正しいときに、
      • (i-3)どのひとxについても、あるひとyについて、F(x、y)
  • ⒥については、(i-1)までは同じだが、そこから太郎だけでなく次郎にも花子についても花子をねたんでいることから
    • (j-2)どのひとxについても、F(x、花子)
    • (j-2)が正しいとき以下が成り立つ
      • (j-3)あるひとyについて、どのひとxについてもF(x、y)

以上のような表現の意義

  • ⑶と⑷から、能動と受け身の書き換えは同値であるのに、⑴と⑵に関してはそうではないというのが不思議の種だった。
    • ⑴と⑵の違いは、量化子(あるひとについて、どのひとについても)の適用の順序の違いである
    • ⒤や⒥は文の形成史を一目でわかるように示すものであり、ゆえに当該の文の論理的ポテンシャル、つまり論理形式を明確に示すものである。
  • 以上のような論理形式を表現する、一般的な論理的記号法を導入する(Mは変項の範囲を人に限るという意味の添え字)
    • 「どのひとxについても」を ∀Mx(全称量化子)
    • 「あるひとxについて」を∃Mx(存在量化子)
  • すると⒤と⒥は以下のように書き換えられる。
    • ⒦ ∀Mx∃MyF(x, y)
    • ⒧ ∃Mx∀MyF(x, y)
  • ⒦や⒧のような表現をすることで、⑴と⑵の違いが何に存するかが明らかになる
    • つまりそれらの違いとは量化子の及ぶ文の範囲(=スコープ)の違いであって、⒦においては存在量化子∃が全称量化子∀に支配されているのに対して、⒧では反対になっている。
    • このように量化子が他の量化子に支配される現象を「多重量化」と呼び、ここまでの試みはそのような多重量化を明瞭に表現できる記述法を探る試みを辿るものであった。
    • そのために生み出された量化子と変項という分析装置、つまり「量化理論」こそが、現代論理学をそれ以前のそれと分かつものである。

Rafe McGregor「詩の厚み」(2014)レジュメ

Rafe McGregor, Poetic Thickness, The British Journal of Aesthetics, Volume 54, Issue 1, January 2014, Pages 49–64, https://doi.org/10.1093/aesthj/ayt048

詩が詩である根拠は、その形式と内容が分離不可能であるような慣習に基づいているという主張、それに対する反論への再反論が述べられています。

本文

アブストラクト(訳)

「この論文の目的は、詩の詩としての経験が、詩の厚みの経験であるということを示すことである。そのような経験とは、そこにおいて詩の形式と内容が分離不可能であるようなものである。第1節で私はA. C. Bradleyの「詩のための詩(Poetry for Poetry’s Sake)」講義を批判的に分析し、彼の「共鳴する意味(reasonant meaning)」概念の長所と短所の両方を示す。第2節ではそれに続くI. A. Richards とPeter Lamarqueの著作を利用し、問題となっている関係、つまりそこにおいて発見される性質というよりは、詩について為される要求として理解される詩の厚みの私の説明を推し進める。第3-6節では、私はPeter Kivyによる形式-内容の統一性に対する四つの反対意見を議論する。つまりそれはまったくの循環(perfect circularity)、遍在する統一性(ubiquitous unity)、糖衣錠剤の伝統(the sugar-coated pill tradtion)、伝統からの擁護(the defence from tradition)である。私はそれらの反対意見がすべて詩の厚みに対して失敗することを示す。私は詩の詩としての経験は、厚みの経験であり、そして詩の厚みは詩の必要条件であると結論付ける」

1.共鳴する意味 Resonant Meaning

  • Bradley’s inaugural address at Oxford… (p. 49)
    ブラッドリーは講義において、詩それ自体の内在的価値を「内容と形式の統一性(unity)」に帰属した。

    • ブラッドリーはオックスフォード大の就任講義で詩の自律性(autonomy)、つまり詩が(道具的instrumentalではない)自己目的的な価値を持つと聴き手に納得させようとした

      • その後に以下の三つの主張を却下した
        • ⅰ自律性は唯美主義へのコミットである
        • ⅱ自律性は詩と人生を切り離し、かつ
        • ⅲ自律性は形式主義へのコミットである
      • ブラッドリーの講義全体の主旨は自律性と形式主義を区別する(つまりⅲの否定)ことだった:後者においては形式のみが詩の価値であり、内容は関係が無いが、それは正しくない
        • どうやって議論?:二つの異説(heresies)、つまり詩の価値が〈形式のみある〉&〈内容のみにある〉を論駁することで、内容と形式の統一性に詩的価値を帰属する
          • 以下でこの議論を紹介する
  • Bradley is unclear about the… (p.50)
    しかし講義におけるブラッドリーの内容と形式に関する議論は十分でなく、後に内容と形式の「同一性(identity)」という強すぎる主張と解釈されたり、またその曖昧さを批判されている。

    • ブラッドリーが詩における内容と形式の関係を、具体的にはどのようなものと考えていたのかは明らかではない
      • 詩の体験において両者を「一体one」であるとするも、分析や批評においてはそうでないと述べる

      • 後の論者はこれを批判。Kivyはこれを「同一性identity」と見なして論難し、Rechardsは「神秘さと曖昧さにつながる」と批判した

  • Lamarque reads Bradley more charitably… (p.50)
    ラマルクはブラッドリーの主張を解釈し、内容と形式の相互依存性と再定式化した。筆者はこれを「分離不可能性(inseparability)」として受け入れる。ここにおいて内容とは詩の意味であり、形式とはその提示の様態で、両者はどちらかを変化させること無しに切り離すことができない。そのようなものとして筆者はブラッドリーの主張を擁護する。

    • ラマルクはより寛容に、ブラッドリーの主張を「一方無しでは(もう一方を)規定することも特定することもできない」という「相互依存的mutually dependent」関係と解釈し、それをさらに筆者は「分離不可能性inseparability」として読み替える。
      • つまり形式(あるいは内容)が分離されてしまったら、もはやその作品の形式(あるいは内容)ではないという主張。
    • この同一性(identity)でも区別不可能性(indistinguishability)でもない関係は、Katherine Thomson-Jonesの主張と整合的である
      • 彼女は内容と形式の統一性を三つに分類:容器的(container)・機能的(functional)・意味的(semantic)
        • 容器的:作品における「組織化するorganizing」要素と「組織化されるorganized」要素の関係

        • 機能的:形式を機能の面から規定

        • 意味的:内容を作品の「意味meaning」「何についてのものかwhat it is about」、形式を「提示・表現の様態mode of presentation or expression」とする

          • ブラッドリーの主張は三つ目の意味的統一性である

           

  • One of Bradley’s most important premises is… (p.51)
    ブラッドリーの議論に戻る。彼によれば、一般的に詩の内容とされる「主題(subject)」(『失楽園』であれば「人間の堕落」)に詩の価値は存しない。なぜなら主題とは詩に内在的ではなく、その外部に存在し、他の様々な仕方(絵画、彫刻、物語など)で表現可能なものだからである。

    • ブラッドリーの議論の大前提:詩とは、「読者による詩の経験」である
    • ブラッドリーの議論はまず「主題subject」概念を明確化することから始まる
      • 主題とは「それ(詩)がそれについてのものであるようなものwhat it is about」

        • 例えばミルトンの『失楽園』の主題は「人間の堕落the fall of man」である
      • そして「主題」の対概念は(形式formではなく)「詩そのものthe poem itself」である

        • なぜなら同じ主題を絵画や彫刻、物語が扱うからである

      • そして主題は詩の外部にあるのだから、詩の価値は主題ではなく、反対の詩それ自体に存するというのがブラッドリーの議論

  • The second antithesis is form versus content… (p.51)
    ブラッドリーの議論において詩の内在的な価値は形式と内容、つまり韻律と言葉の意味のどちらかに帰属させることはできず、その分離不可能な結合としての「共鳴する意味」に帰属させられる。

    • ブラッドリーの議論におけるもう一つの対照(antithesis)は「内容content」と「形式form」である

      • こちらは(主題と違い)両方とも詩に内在的な概念である

        • というのもラマルクによれば内容とは「詩の中で実現された通りの主題the-subject-as-realised-in-the-poem」であり、形式とは「詩の中の主題の実現の様態the-mode-of-realisation-of-the-subject-in-the-poem」であるため
        • ここでの内容を登場人物や出来事とすると、内容は他の作品と類似しても同一ではない(『失楽園』の悪魔とモルモン書の悪魔は同一ではない)

         

    • 主題と内容を混同した上で、この形式-主題の対照を採用した場合問題が生じる

      • つまり形式=「詩において実現された主題の実現の様態the-mode-of-realization-of-the-subject-as-realized-in-the-poem」、内容=「詩の中の主題the-subject-in-the-poem」であるため、両者は詩の外部に依存する

      • そのような対照を前提すると、先に述べた二つの異説(詩の価値が形式のみにあるか、内容のみにあるとする立場)は成立しえない。

    • ブラッドリーにおける形式と内容の分離不可能性は、音soundと意味meaningの分離不可能性に読み替えられる

      • 詩の経験において、言葉の音と意味を分離して鑑賞することはできない
        • これは人の笑顔を構成する顔の線lineを、それが表現する感じfeelingと切り離せないのと同じ
        • 後から心の中において批評的に分離することはできるが、それは詩(の経験)それ自体の中にある区別ではない
      • 以上からブラッドリーは、詩の価値を論じるのに、詩の(経験)の外部のものに頼ることは誤りであり、ゆえに内容-形式の対照とそれらに価値を帰属することは誤りであるとする
      • 詩の経験の価値は、(分離不可能な)意味と音の経験であり、「共鳴する意味(reasonant meaning)」の経験である
        • そしてその中にこそ詩の価値が存する。

2.詩の厚み Poetic Thickness

  • Resonant meaning lies at the core of… (p.52)
    ブラッドリーにおける「共鳴する意味」を、リチャーズは単に詩における語の音としての「固有の韻律」と対比して、言葉の意味と結びついた「帰属された韻律」として再定式化する。

    • 「共鳴する意味」についてブラッドリー自身は詳しく解説しなかった
      • Rechardsによる分析:詩の形式的特徴、つまり韻律は、詩の内容の感覚senseや表現expressionから切り離すことはできない

        • なぜなら詩に帰属される韻律は、詩の中の言葉の理解apprehensionの関数functionであるため
        • 言葉の音、つまり言葉に「固有の韻律inherent rhythm」は、感覚senseと感じfeelingと合わさって、詩の経験である「帰属された韻律ascribed rhythm」の経験を生み出す。
  • Richards demonstrates this by… (p.53)
    リチャーズは、ミルトンの『失楽園』と、それと形式的な韻律は同じだが意味が異なる韻文を比較することで、前者における帰属された韻律を例示する。

    • Rechardsは以上のことを、音は同じだが意味が異なる二つの韻文を比較して論じる

    • これらにおいて音は同じだが、言葉の意味が異なることによって韻律が異なる

      • J. Drootan-Sussting Benn Mill-down Leduren N. Telamba-taras oderwainto wearing Awersey zet bidreen Ownd istellester sween Lithabian tweet ablissood owdswown stiering Apleven aswetsen sestinal Yintomen I adaits afurf I galas Ball
      • Yea Truth, and Justice then Will down return to men, Th’ enameld Arras of the Rainbow wearing, And Mercy set between, Thron’d in Celestiall sheen, With radiant feet the tissued clouds down stearing, And Heav’n as at som festivall, Will open wide the Gates of her high Palace Hall
    • 以上の例で明らかなように、固有の韻律(形式)は、言葉の意味(内容)と合わさって、帰属された韻律(形式と内容の分離不可能性)を生み出す。

      • もし形式が分離可能であるなら上の両者は同じ詩的価値を持つ(がそうではない)し、内容が分離可能なら詩の言い換えがオリジナルと同じ価値を持ってしまう
  • Further evidence for Richards’… (p.53)
    またリチャーズはハイデガーによる「私たちは音と意味を切り離して聞くことはほとんど無い」という議論によって、帰属された韻律の傍証とする。

    • Rechardsはさらにハイデガーの以下のような議論を、帰属された韻律の主張のために引用する
      • 「私たちが「最初に」聞くのは、ノイズや音の複合体ではなくて、ギシギシいう馬車や、バイクなのだ。私たちは行進の隊列、北風、キツツキのつつき、炎が弾けるのを聞く。「純粋なノイズ」を「聞く」には、非常に人工的で複雑な心の枠組みが必要となるのだ」(ibid)
    • つまり私たちが普通聴くのは「何かの音sound-of」であって、「ノイズnoise」ではない
      • まれに音の出元がわからずに音だけを聞き、後で出元を特定することもある(騒音を聞き、後からジェット機の音(sound-of-jet)だとわかるように)
      • 実際の音が変わっていなくても、ノイズを何かの音だと特定することは、音の経験を変えるのであり、それは詩においても同じである
        • 固有の音とある意味を持った言葉が結びつくことで、帰属された韻律という詩の経験になる
  • Richards holds that the relation… (p.54)
    リチャーズは意味(内容)と韻律(形式)の相互依存関係の例として、イェーツの詩を挙げる。そこでは意味内容(脚というテーマ)と韻律(五歩脚)が重なっている。また韻律が意味の理解に資するという現代の神経科学における研究が引かれる。

    • Rechardsは韻律と意味の関係が相互的reciprocalと考え、筆者はAngela Leightonのイェーツの詩の分析を韻律が意味に影響を与える例として引用する。
      • イェーツが長いときは3時間にわたって音の連なりをもごもご言って(murmur)いたという研究を紹介。つまりイェーツは韻律から始め、それに合う言葉を探していた。
        • ここにおいて五歩脚iambic feet(一行に5回現れるシラブルの強弱)が彼にとって重要であった
      • またLeightonはイェーツにおいて人間や動物の脚feetが頻繁に描かれることを指摘し、韻律(五歩脚)がそれらと結びつき、韻律が一種の内容として与えられていると述べる
    • 以上のLeightonを引用したRechardsの(構造詩学的)研究は批判されているが、現代の神経科学などは韻律が詩における言葉の連想的associative意味を強化し、人間を含む動物の活動における韻律(リズム)の重要性を指摘している
      • Anna Christina Ribeiroの哲学的研究によれば、形式的な道具deviceは、同じような響きを持つ言葉を一定のパターンで並べることによって、それらの言葉の対照や比較を導き、理解を向上させる。
      • 筆者はどのように韻律と意味が相互作用するのかを明らかにすることはしないが、それでもそのような相互作用が存在することは明らかであると述べる。
  • Bradley maintains that the… (p.55)
    ブラッドリーによれば良い詩において、意味内容と韻律形式が相互に影響を与え、言い換え不可能である。

    • ブラッドリーは形式と内容の分離不可能性が、詩の批評(特に価値づけという意味での)において重要であると述べる。

      • つまり形式と内容が分離不可能であるような詩は、「素晴らしいgreat」作品であり、そうでなければ「単に良いgoodか、平凡かmediocre、悪いbad」。
        • シェイクスピアの作品の中にすら、「良いgood」に過ぎない、形式と内容が分離した作品が存在するという
    • またブラッドリーは「素晴らしい」詩の特徴として「言い換え不可能性」を挙げる

      • 詩の「純粋さpurity」は、その言い換え不可能性に比例する
    • ブラッドリーは分離不可能性を「良い」詩だけに限定し、平凡であったり悪い詩には認めない

      • 詩の価値の判断には「言葉の感覚や感じ」と「その中においてその感覚と感じの全体が生まれるちょうどその順序」の両方が必要である

      • 「良い」詩における言葉から言葉への展開の構造は、歩格metreと考え得る限り最も緊密な関係を持ちながら、テンポを与えるだけでなく、時にはそれをゆがめすらする

        • このように良い詩においては、「帰属された韻律」が存在し、それは結果として形式と内容の分離不可能性を生む
  • Lamarque offers insight into… (p.56)
    ラマルクはブラッドリーの議論を発展させ、内容と形式の分離不可能性を、テクストの客観的性質ではなく、慣習によって作品に課される要求とする。以上の議論から筆者は「詩の厚さ」を定式化する。 「詩の厚み:詩作品の経験における詩の形式と詩の内容の分離不可能性であり、そこにおいて形式も内容も作品の同一性を損なうこと無しに分けることができない。詩の厚みはテクストの性質ではなく作品によって充足される要求であり、[詩の厚みは]もし作品が詩作品であれば、その作品が詩の厚みの要求に報いるようになるような詩の特徴である」

    • Lamarqueは以上のような分離不可能性を、詩が詩であるための基準、それも作品に見出されるものではなく、「詩を読む慣習the practice of reading poetry」が作品に「負わせる impose」ものであるとする
      • つまりLamarqueによれば、分離不可能性は作品の客観的な性質ではなく、作品に向けられる特定の種類の注意によって浮かび上がる「帰属させられた特徴 imputed feature」である
    • Lamarqueはノースロップ・フライによるW.ブレイク(難解さで有名)の研究を参照し、(内容と形式の)「統一性unity」とは、作品に関する事実ではなく、たとえ混沌としているような作品に対しても、読者が詩を読解する際に最初に持つべき仮説(hypothesis)であるとする
    • 以上のように分離不可能性を作品において発見される事実ではなく、読者によって課される要求(demand)としたとしても、すべての作品がその要求を満たすということではない
      • それらの要求に報いる作品は「典型的quintessencial」「純粋pure」「良いgood」、あるいは単に「詩poetry」である
        • ただしこの場合「詩」は記述的descriptiveではなく、評価的evaluativeに使われている
        • 筆者は「詩」という言葉を評価的に用い、分離不可能性をそのような詩の必要条件であると見なす
          • もし記述的な意味で詩という言葉を使うなら、分離不可能性は範例的な詩の下位分類の必要条件になるだろう
    • 以上の議論で重要な点は二つである
      • 1.ブラッドリーが「共鳴する意味」を詩の必要条件と見なしたこと
      • 2.ラマルクがそのような分離不可能性という詩の基準を、作品における発見ではなく、作品に課す要求としたこと
    • 以上を踏まえて以下のように筆者は主張を定式化する。
      • 「詩の厚み:詩作品の経験における詩の形式と詩の内容の分離不可能性であり、そこにおいて形式も内容も作品の同一性を損なうこと無しに分けることができない。詩の厚みはテクストの性質ではなく作品によって充足される要求であり、[詩の厚みは]もし作品が詩作品であれば、その作品が詩の厚みの要求に報いるようになるような詩の特徴である」 (p. 56)

3.まったくの循環 Perfect Circularity

  • Kivy has mounted the most… (p.57)
    キヴィは形式と内容の分離不可能性、特にブラッドリーの主張に対して、詩概念と分離不可能性概念の循環を指摘した。
    • キヴィはブラッドリーを批判する
      • 形式と内容の分離不可能性の主張は、詩だけではなくすべての芸術に適用されることを意図している。しかし文学と視覚芸術においては両者は分離可能であり、また音楽(特に絶対音楽)に関しては「内容」を持たないため間違っている。
      • 筆者が取り上げる詩の分離不可能性に対する批判:ブラッドリーは単に詩を分離不可能性によって定義(define)しているだけであって分離不可能性の証拠を示してはいないのであり、それによって詩の分離不可能性を論じるのは循環である
  • Kivy observes, with accuracy, that… (p.57)
    筆者のキヴィへの反論:キヴィの批判は正当であるものの、詩の定義に触れなければ問題は無い。むしろブラッドリーの主張の問題は主張を具体化していないことであり、筆者は2節でその欠点を十分に補った。
    • キヴィによるブラッドリーの議論の整理
      • ブラッドリーは、適切な詩の経験を、詩の内容と形式が融合した(fused)ものとして経験することだと言う。しかしなぜそれが詩を経験する唯一の適切な仕方だと言えるのか?ブラッドリーはその理由を内容と形式の同一性のテーゼ(=内容と形式の分離不可能性の経験が詩の適切な経験である)が正しいからと答える。しかしこの主張は循環している。
      • キヴィはブラッドリーの主張を以下のように分析する
        • (P1)詩とは詩の経験である
        • (P2)詩の適切な経験とは、内容と形式の分離不可能性の経験である
        • (C1)よって詩において内容と形式は分離不可能である
      • 以上の主張は詩の定義に変形できてしまう
        • (P1’)詩とは詩の経験である
        • (P2’)形式と内容は詩の適切な経験において分離不可能である
        • (C1’)よって詩とは内容と形式の分離不可能性の経験である
    • しかし以上の詩の必要十分条件としての分離不可能性を無視すれば、以下のような主張をブラッドリーの講義から引き出せる
      • (P1)詩の経験とは内容と形式の分離不可能性、つまり共鳴する意味の経験である
      • (P2)詩の内容あるいは形式の分離(isolation)は、その詩の共鳴する意味を変えてしまう
      • (C1)よって内容と形式は詩において分離不可能である
      • 以上の主張の問題点は、循環しているというよりそれが十分に具体化されていないこと。
        • P1は笑顔の喩えで説明されたが、P2に関しては具体的に説明されていない
        • そしてそれは筆者が第2節でリチャーズの「帰属された韻律」や詩の分析、ハイデガーの「何かの音」と「ノイズ」の関係などでやったことであり、そのような筆者の主張はキヴィの反論

4.遍在する統一性 Ubiquitous Unity

  • Following from the perfect circularity criticism… (p.58)
    キヴィはブラッドリーの分離不可能性の主張は正しくなく、自分の穏健な主張が正しいと主張する。しかしキヴィの穏健な主張は結局のところ詩だけでなく非詩的な言語表現にも当てはまるのであり、遍在してしまうことになると言う。
    • キヴィはブラッドリーによる内容と形式の統一性の主張が、詩の経験を捉え損なっていると考え、自分のより穏健な主張を推す
      • キヴィの主張:詩の鑑賞において、内容と形式という二つの注意の対象があるのではなく、「メディアとメッセージmedium-and-message」という一つの対象があるだけであることがある しかし一方で、私たちの注意は、二つの間をせわしなく行ったり来たりしたり、一方に集中したりすることがある
    • しかしそのようなキヴィの主張は詩以外の言語表現(新聞や教科書)にも当てはまってしまうのであり、キヴィもそれを進んで認める
      • キヴィはむしろ、メディアとメッセージが両方とも注意を要求する詩ではなく、メディアが透明になる(注意を要求しなくなる)非文学的・非詩的な事例においての方が、内容と形式の融合の「より良い主張better argument」が可能であると考える
      • つまりキヴィによれば、内容と形式の分離不可能性は言語的な表現に遍在するubiquitousものであり、よって詩における内容と形式の分離不可能性の主張は無価値noughtである
    • しかしブラッドリーはキヴィの穏健な主張をそもそも認めないため、ブラッドリーへの本質的な異論は、彼の強い主張すら言語表現全般に遍在することをキヴィの「内容と形式の完全な融合」の観点から示す必要がある
      • ブラッドリーは講義において以下のⅰをⅱに言い換えている
        • (i) ‘To be or not to be, that is the question’.
        • (ii) ‘What is just now occupying my attention is the comparative disadvantages of continuing to live or putting an end to myself’.
      • ⅰにおいて私たちは内容だけではなく形式に注意を向け、ハムレットの言ったこととそれをどのように述べたかの組み合わせcombinationによって快を得る
      • ⅱではハムレットが自殺について考えているという内容のみに注意が向く
      • キヴィの述べる形式の透明性はⅱに当てはまり、そこでは確かに(内容と形式の)「完全な融合perfect fusion」が現れている
  • I have two objections to Kivy’s… (p.59)
    筆者はキヴィによる絶対音楽の例(内容を持たないために分離不可能性の反例となる)と新聞や教科書(形式を持たないために分離不可能性の範例となる)の使い方が矛盾していると指摘する。
    • 筆者のキヴィに対する批判
      • キヴィは先ほど述べたように、絶対音楽は内容を持たないために内容と形式の統一性を持てないと述べる。一方でキヴィは新聞や教科書は形式が透明であり注意を要求しない[形式を持たない]ことで、内容と形式の融合の範例になっていると述べる。
      • 絶対音楽が内容を持たないことで内容と形式の統一性の反例となるならば、新聞や教科書もまた形式を持たないことで反例となるのではないか?キヴィの二つの例の使い方は矛盾している
        • 整合的な議論のためには、両者を内容と形式の融合の範例とするか反例とするかのどちらかでなければならない。
  • The claim that a newspaper or… (p.60)
    キヴィにおける非文学的言語表現における内容と形式の融合は、実のところそれらが「薄いメディア」であること、つまり内容と結合すべきそれに対する注目に報いるような形式を持たないことを意味する。そこでは内容と形式の統一は成り立っていないので、キヴィによる統一性が遍在するという主張は誤り。
    • キヴィの、新聞や教科書において内容と形式の融合が達成されているという主張はかなり問題含みである
      • 「融合」「統一性」が何を意味するかというと、それに対する注意に報いないような形式を持つということ
      • つまりキヴィにおいては「薄いthin」メディア(形式)は「非文学的」で「透明」であり、「厚いthick」メディアは「文学的」で「不透明opaque」である
    • キヴィの言う「薄いメディア」とは形式が注意を向けられず、内容と結合すべき形式が無いこと。一方で(詩などにおける)「厚いメディア」においては、注意を向けられる形式と注意を向けられる内容の結合である
      • よってキヴィの内容と形式の統一性が、どの言語表現においても当てはまってしまうという主張は不当である

5.糖衣錠剤の伝統 The Sugar-Coated Pill Tradtion

  • One of Kivy’s objections to the ineffability… (p.60)
    キヴィはルクレティウスの詩が、彼の哲学的・科学的主張を伝えるものであり、その内容はその詩的形式から切り離し得るものであったことを指摘し、ブラッドリーの主張への反例とする。
    • ブラッドリーの分離不可能性への批判のために、キヴィはルクレティウスの『事物の本性についてDe rerum natura』とパルメニデスの『Way of Truth』における反例を引く。
      • まずルクレティウスにおいて詩は、「内容」(=彼の哲学的・科学的主張)を伝達するためのものだった。またルクレティウスは部分的にその内容を非詩的な形で表現しすらしていた。
        • ここで詩の内容はその形式と切り離すことができ、それによって内容の同一性は失われない
        • これをルクレティウスはニガヨモギをはちみつで甘くして子どもに与えることにたとえ、キヴィはそれを「糖衣錠剤理論sugar-coated pill theory」と呼んだ。
    • ルクレティウスの例はⅰ詩でありかつⅱ内容がその同一性を失うことなく形式から切り離し得る、という点でブラッドリーの分離不可能性の主張の反例となっている。
  • Lamarque’s response to Kivy’s counterexamples… (p.61)
    ラマルクはルクレティウスのテクストにおいて内容が切り離されるならば、それはテクストを詩として読んでいないことになると指摘し、キヴィの主張を退ける。
    • ラマルクはルクレティウスの例が反例にならないと指摘する。
      • 『事物の本性について』が内容と形式の統一性の範例とならない理由は、単純に私たちのその詩への関心が特徴的に、詩としての関心ではないからだ。韻律は、ルクレティウス自身が認めるように、その作品への関心には無関係なのだ。もし私たちがその作品を詩として読むのであれば、結局私たちは内容と形式の分離不可能性を想定し、ブラッドリーが呼ぶところの「詩的経験」を探し求めるだろう。そのとき、もちろん言い換えたり書き直したりされる主題——快楽主義――が私たちに関係するのではない。〈ルクレティウスに考えられたものとしての主題the subject-as-conceived-by-Lucretius〉すらそうではなく、関係するのは〈詩において実現されたものとしての主題 the-subject-as-realised-in-the-poem〉であり、それは固有の「実現の様態」に存するものなのだ。(p.61)*
      • もしテクストが韻文で書かれていても、Nigel Fabbが述べるようにそれはテクストを詩として読むことの誘いinvitationにはならない。
        • Fabbは韻文は単にテクストの行の区分devision of text into linesでしかなく、それが詩であることに必然的な関係は無いとする。
      • またルクレティウスの意図に照らせば、もし『事物』を詩として読んだならば、それを哲学書として読むよりも、実りが無いless rewardingものになるだろう。

6.伝統からの擁護 The Defence from Tradition

  • Kivy has a second point which is… (p.62)
    キヴィによればラマルクは、詩の内容と形式の分離不可能性の主張を擁護するのに際して、伝統を持ち出している。その伝統による擁護とは「そこに連続した伝統unbroken traditionが存在することに完全に依拠した」ものである。

    • キヴィによればラマルクはブラッドリーを擁護するのに際して、伝統に頼っている

      • ラマルク:私は内容と形式の分離不可能性によって詩を定義し、それに当てはまらないものを恣意的に詩から除外しているのだろうか?いや、詩が思索thoughtと言葉遣いdictionの内的な関係(つまり分離不可能性)で成り立つというのは、古の伝統なのだ。
    • キヴィによれば伝統からの擁護には三つの種類がある

      • ⅰセダー(ユダヤ教の儀式)で苦い薬草を供する伝統
      • ⅱイギリスで道路の左側を運転する伝統
      • ⅲ神の魂を鎮めるために特定の期日に海に蓮の花を撒くポリネシアの伝統
    • ラマルクの主張はⅰには当てはまらない:ⅰは伝統が説明(苦い薬草はユダヤ人のエジプトにおける受難を思い出させる)を含んでいるのに対して、ラマルクの主張では伝統を説明として用いている。

      • ⅱにも当てはまらない:ⅱの伝統は恣意的なものである

      • よってラマルクの主張はⅲと同種のものでなければならない:「そこに連続したunbroken伝統が存在することに完全に依拠した」擁護。

  • Kivy believes that the historical… (p. 62)
    キヴィはそのような「連続した伝統」は存在しないと主張し、例えばプラトンの議論において、詩の内容と形式が分離したものと扱われていることを指摘する。

    • キヴィはそのような「連続した伝統」に対する反例を様々な詩や主張に見出すが、筆者はその中でもプラトンのものを取り上げる
      • プラトンによれば(悲劇の)詩は①道徳的②認識論的に誤っている
        • ①詩の魅力的な形式は、その非道徳的な内容を隠蔽する
        • ②詩の説得的な形式は、その内容がまるでその道のエキスパートによって語られているかのように勘違いさせる
      • このプラトンの主張は、詩における内容と形式の分離を前提にしており、「連続した伝統」の反例である。
      • このプラトンの主張は「糖衣錠剤の伝統」と整合的である。ただしプラトンの場合「中の薬(=意味内容)」は治療薬ではなく毒なのだが。
  • Kivy claims that the type of tradition… (p.63)
    キヴィはポリネシア人の伝統と同様に、ラマルクの詩の伝統は連続性を必要とする(しかしそのような連続的な伝統は存在しないので、ラマルクの分離不可能性の主張は誤り)と主張する。しかし筆者は連続性があっても無くても、伝統が実践を説明するのであれば問題ないと反論する。

    • キヴィは、ラマルクの詩の分離不可能性の主張が依拠する伝統は、ポリネシアの伝統のように連続性continuityを必要とすると主張する。
      • キヴィのポリネシア人の伝統と詩の伝統の類比は以下のように整理できる。
        • (ⅰ) (Q1)なぜポリネシア人は海に蓮の花を撒くのか? (A1)その実践practiceが伝統だから。 (Q2)なぜ彼らは代わりにリンゴの花を使えないのか? (A2)なぜならそれは異なる実践であり、新しい伝統を始めてしまうから。
        • (ⅱ) (Q1’)なぜ私たちは詩における内容と形式の統一を要求するのか? (A1’)その実践が伝統だから。 (Q2’)なぜ私たちは詩を糖衣錠剤として読むことができないのか? (A2’)なぜならそれは異なる実践であり、新しい伝統を始めてしまうから。
    • しかし筆者は上の類比の両方において「連続した伝統」の必要を認めない。
      • もしパゴパゴにおけるポリネシア人たちが蓮の花を使い続ける一方で、オークランドポリネシア人たちがリンゴの花を使い始めたとき、それは〈オークランドで伝統が発展evolveした〉とも言えるし、〈伝統が新しい伝統に取って代わられたrepalced〉とも言える。
        • このどちらの言い方を選ぶかは重要ではない。
      • そしてもしオークランドポリネシア人たちが再び蓮の花を使い始めたとき、それは〈再び伝統が発展した〉とも言えるし〈かつての伝統に戻った〉とも言える。
        • ⅰの対話はパゴパゴでもオークランドでも通用する;いずれの場合でも、伝統は中断したり新しくなっているかもしれないが、伝統が実践を説明しているから
  • The tradition defence is invoked by Lamarque… (p.63)
    結局のところ重要なのはなぜ「統一性を求めるべきなのか」ということであり、それは「その実践に価値があるから」と答えることができる。しかしそのような価値は伝統に直接依拠するのではなく、その伝統が価値の「しるし」となるだけであるから、その長さや連続性に訴える必要はないのだ。

    • しかしラマルクの伝統への依拠は結局のところ、詩の定義の恣意性の批判を逃れるためなのだから、以下の疑問の方がより重要である。

      • (i)なぜポリネシア人たちは海に蓮の花を撒くべきなのか? Why should Polynesians scatter lotus blossoms in the ocean? (ii) なぜ私たちは詩に内容と形式の統一性を求めるべきなのか? Why should we demand form-content unity of poetry?
    • ラマルクのⅱへの解答は二つの部分を持つ

      • 明示的解答:その実践は、アリストテレスにまで遡る古からの血脈を持つから
      • 暗示的解答:その実践には価値がある――価値があったし、価値があり続けるから
    • 価値が関連してくるとポリネシアの例は弱いものになってしまう

      • もし(Q1)の解答として(A1)が返ってきたら、筆者は「ポリネシア人たちは、もはやみな無神論者かクリスチャンなのだから、なぜ土着のpagan伝統を続けるのか?」と問うだろうと言う
      • 答えは以下のようなものになるだろう:この実践はそもそもは神を鎮めるために行われたが、今続けられているのは他の仕方で価値があると見なされているからだ。
    • そもそもポリネシアの伝統は実践が価値を持つ例として引かれた(価値の無い伝統はイギリスの左側通行のような恣意的な伝統に組み入れられてしまう)。

      • ラマルクは分離不可能性の価値を主張するために、詩の伝統の歴史に訴えた
      • しかし実践の価値は伝統の長さや連続性に依拠していない。それらは単に価値のしるしindicationとしてのみ関連的なのだ。
      • キヴィの主張が説得的であるためには、ラマルクの唱える分離不可能性の伝統それ自体の問題を指摘しなければならない。
        • しかしキヴィの第3節で見せたような多元的アプローチはそれをすることはできない。
  • My conclusion is that while Bradley’s… (p.64)
    今までの議論のまとめ。

      • 詩の厚み=内容と形式の分離不可能性は、詩の(経験の)必要条件である

     

John Holliday「文学における親密さ」(2018)論文紹介

 

書誌情報:John Holliday, Emotional Intimacy in Literature BSA Prize Essay, 2016, The British Journal of Aesthetics, Volume 58, Issue 1, January 2018, Pages 1–16.

 

 

 Ⅰはじめに

 筆者は現在Stanford大学のポスドク研究員。この論文の執筆当時はRutgers大学のAssistant Teaching Professorだった。専門は美学、特にフィクションや文学の価値に関する論文がある。公式サイトはhttp://web.stanford.edu/~jhday/

 

 

Ⅱ本文

 

アブストラクト(訳)

「文学作品を読むとき、その作品がフィクションであったとしても、私たちは作者との感情的なつながり、あるいは少なくともそのように思われるものを持つことがあるかもしれない。しかしフィクション文学がそのような体験のための資源(resource)を、どのようにして与えてくれるのかは明らかではない。それは結局のところフィクションなのであり、回想録や自伝のように作者の経験を報告するものではないのだ。この論文の課題は二つの要素からなる。一つ目はこの感情的経験の本性と価値を説明すること。二つ目はフィクション文学作品がそのような経験のための資源を与え得ると論じることである」

 

1.作者とのつながり

フィクショナルキャラクターに対する感情的共感については多くが語られてきたが、一方で私たちがしばしば経験する、作者と読者の感情的なつながりや親密さについては語られてこなかったと筆者は述べる。そこでまず筆者は、David Foster Wallaceの以下のような記述を参照しつつ、この論文で説明しようとする「作者とのつながりauthorial connectedness」がどのようなものであるかを提示する。

 

フィクション作品が会話となるようなもう一つの水準が存在する。非常に奇妙で非常に込み入った、それについて述べるのが難しい、読者と作家の間に設けられる関係があるのだ。…一種のなるほど!が存在する。少なくとも少しの間、私がそうするように何かを感じたり、何かを見る人が居るだろう。それは常に起こるものではない。それは一瞬の輝きや炎であり、しかし私は時折それを得るのだ。私は知的、感情的、精神的に一人ではないと感じる。私は人間らしさを感じ、孤独でないと感じ、フィクションや詩におけるもう一つの意識と自分が深く重要な対話をしていると感じるのであり、それは他の芸術においては起こらない仕方でなのだ。

 

このような経験とは、世界を記述し見る方法が作者と同じだと読者が感じることや強い共鳴の感覚だと筆者は述べ、このような読者の感じる作者との親密さの感覚を「作者とのつながりauthorial connectedness」と名付ける。そして第二節ではどのようにしてそのような経験が可能になるのかを論じ、第三節ではフィクション文学が作者とのつながりそのものでなくても、それに似た何かのための資源を提供し得ることを主張すると述べる。

「作者とのつながり」を直接説明する前に、筆者はどのようなものが「作者とのつながり」ではないのかを述べる。最初に筆者は否定するのは、「友情friendship」としての「作者とのつながり」である。GekoskiやBoothなどは読者が作者に感じる親密さを友情のメタファーによって論じるが、筆者はまさにそれがメタファーであることから、それを拒絶する。つまりそれが指すものは実際には友情ではないのであり、筆者がここで論じたいのは「実際の感情的なつながりthe actual emotional connection」なのだ。そして友情のメタファーを筆者は、それが読者が作者だけでなく、本との間にも感じるものとして使われる点も批判する。

 次に筆者が否定するのは、Levinsonが音楽を聴くことの潜在的な恩恵(reward)としている「感情的共有Emotional Communion」である。つまり音楽を聴く人は、そこに表現されている感情が作曲家によって感じられたものだと思い、作品に表現される感情に感じ入るとき、作曲家と共有された経験を持ったと感じるとレヴィンソンは述べる。文学に関しては感情を伝達することが芸術の役割であるとするTolstoyやCollingwoodが同様のことを主張し、作者が作品で表出される感情を感じていると措定し、読者は作品において感情を感じるときに作者との感情的な親密さの感覚を経験すると考えた、と筆者は述べる。しかし筆者は「感情的共有」と「作者とのつながり」が、同じく作者との親密さの感覚をもたらすとしつつも、その親密さはそれぞれ異なる種類の親密さであると述べる。

 

感情的共有から得られる親密さは、作品によって喚起される感じそれだけによるものである。[一方で]作者とのつながりから得られる親密さは、部分的には読者が作品の中において、自分自身に関する何か、自分がその作品を読む前に信じたり考えたり感じたりした何かに気づくことによるものである。というのも作者とのつながりは、まるで読者がある意味で同胞の魂を見つけたかのように感じるように刺激するものだからだ。

 

このように筆者は、作者とのつながりによって得られる親密さを、単に感情を共有していると感じるだけでなく、読者が自分自身(の信念や思考や感情)を作品の中に見出すというより全人格的な行為によって特徴づける。

 

2.作者とのつながりを説明する

 筆者は以上のような作者とのつながりをもたらすような読書の経験の特徴を四つ提示する。つまり「読みの心理的な文脈the psychological context of reading」「表出された信念と態度の共有sharing expressed beliefs and attitudes」「内在する作者の人格に惹かれることbeing attracted to the implied author’s personality」「表出的潜在力の報酬the reward of Expressive Potency」である。

読みの心理的な文脈

Proustは読書の重要な特徴について以下のように述べていると筆者は考える。

 

ある人[読者]がもう一人[作者]の思考を受け取るが、しかしその人[読者]はある意味で一人であり、作者との(厳密な意味での)会話に参加する可能性を持たない。そしてこの独りであるということが、通常の会話でそうである(あるいはあり得る)よりも豊かな仕方で、もう一人の思考の産物と関わることを可能にする。 (p.4)

 

筆者はこのような「孤独solitariness」が、読書における作者とのつながりを可能にすると述べる。しかし一方でそれは常に生じるものではなく、またテクストの何らかの知覚できる特徴が必要となる(例えば辞書に対して孤独に向き合っても親密さは生まれない)と筆者は主張する

共有された信念と態度

誰かが他人に感情的なつながりを感じるのに必要なのは共通点(commonality)であると筆者は述べる。しかしだからと言って、単に重要だと感じられる事柄に関する信念や態度が一致しているだけでは、感情的なつながりを感じることはできないし、倫理的・政治的な信念を共有していても嫌いな人はいると筆者は述べる。ここで筆者は感情的なつながりに寄与し得る信念の特徴として「不一致に開かれているopen to disagreement」を挙げる[3]が、しかし親密さのためにはそれだけでは足りないと筆者は述べる。

文体と人格

ある人を好むことには、その人の人格が関連するし、そしてもし作者の人格が作品を通して表出されるならば、読者は作者を好む機会が発生するだろうと筆者は述べる。ここで筆者はRobinsonの表出に関する議論[4]を援用しつつ、粗野な感受性の持ち主が粗野な服の着方をしたり、妥協しない性格の人が妥協しない仕方で決断をしたりするように、人の行動をその行為者の人格を知る「窓」とすることができると主張する。そして同様のことが文学作品にも言えると筆者は考える。

 

同じことが文学における個人の文体にも言える。これはある物事を特定の仕方で継続的にし続けることである――言い回しを構成し、文に句読点を打ち、台詞を描き、テーマを提示し、設定や登場人物の心理的な動きを記述し、等々――。そしてそれを作者の人格の表出の方法とすることは正当化されるのだ。かくしてトーマス・ベルンハルトの小説の継続して強迫的なトーンは、ベルンハルトの強迫的な気質を表出している。デヴィッド・ホスター・ウォレスが内省的な語り手を継続的に作り出すことは、彼自身の内省へと向かう傾向を表出している。 (p.5)

 

このように筆者はまず、文学作品の文体が作者の人格にアクセスする機会になると考える。

 しかし筆者は物事がそれほど単純でないことを認める。つまり文学作品の文体に現れているのは実際の作者の人格というより、Boothの言う「内在する作者implied author」、つまり作品の証拠から理解されるような作者であると筆者は認める。というのも文学作品において作者は、しばしば作品を語るときに仮面(persona)を活用するからである。筆者はここでナボコフハンバート・ハンバート(『ロリータ』)、サリンジャーにおけるホールデン・コールフィールド(『ライ麦畑で捕まえて』)、メルヴィルのイシュメイル(『白鯨』)の例を挙げる[5]。またノンフィクションにおいてすらも、David Foster Wallaceが作品における自分は実際の自分より馬鹿で間抜けだと述べるように、作品の文体に表出している人格を実際の作者に帰することはできないと筆者は述べる。また作品だけからは、私たちは実際の作者と内在する作者がどれほど重なっているかを知ることができないとも筆者は述べる。この問題に関しては第3節で詳しく述べられる。

 その上で筆者は、作品の文体に表出される人格に対する感情的な親密さは、厳密には実際の作者ではなく、内在する作者に対するもののように思われると述べ、それでとりあえずのところ問題は生じないと考える。

 

たとえ厳密に言えば作品の文体を通して表出する人格が内在する作者のものであっても、それはそれでもなおテクストの原因としての単一の意識の感覚を与えるのであり、その意識は読者が惹かれる人格のものであり、また読者が当然実際の作者のものと考え得るものである。(p.7)

 

結局のところ重要なのは読者が感情的な親密さを感じる「単一の意識の感覚」が存在するという事実であって、筆者にとってそれが内在する作者のものであれ、実際の作者のものであれ、問題ではないのだと筆者は考える。

 以上の、行動としての文体を通じて、その行動を行う単一の意識としての(内在する)作者に惹かれるという説明だけでは、まだ作者に対する読者の感情的な親密さには至らないと作者は考える。そのような「深くdeep」「意義深いsignificant」感情的なつながりに必要なものを定式化するために、次の項で筆者はレヴィンソンの音楽に対する感情的反応の分析を参照する。

表出的潜在力

 筆者は以下のようなレヴィンソンの音楽鑑賞における「表出的潜在力の報酬the reward of Expressive Potency」の経験についての記述を引用する。

 

もし人が音楽を、その人自身の現在の感情的状態の表出と見なしたなら、その表出はあたかもその人自身から流れ出てくるように、その人の最奥の本質からあふれ出すかのように思われるだろう。そして自分の感じることを外在化し受肉することの中で、自由と安らぎの表出力の印象を受け取ることは、その人にとって極めて自然なことになる。自分の内的生が姿を現す際の豊かさと自然さに関して持つ感覚、それはネガティブな種類の感じを含むことすらあるが、否定することのできない喜びの源であるのだ。 (p.8)

 

つまりレヴィンソンは音楽鑑賞において受け手が、作品を自分自身の感情の表出と見なす経験について述べ、そこに作者の「表出力expressive power」を見出す[7]。筆者はここで表出力を、感情だけでなく認知にまで拡張することで文学における表出力を定式化できると考える。なぜなら「文学作品は感情の表出に加えて、出来事の描写や記述の様式、そして観察や洞察、態度やアイデアを表現する仕方において表出的な潜在力や力を持つと見なされることがある[8]」からである。それらの特徴によって読者はまるで自分が出来事や観察や洞察などを、作者がするような仕方で描写するかのように感じられ、「もし自分が本を書いたら、それはちょうど今自分が読んでいる本のようになるだろうと感じ始め[9]」るようになるのだ。

 以上を踏まえて、筆者は以下のように文学の表出力を定式化する。

 

xを表出する文学作品の一節を読むとき、読者はおおまかに言って、xによって表出される内容を評価し、もし自分が作者の表出力を持っていたならば、作者がそうした仕方でxを表出しただろうと信じる。その最も断固とした形では、読者はxによって表出された内容を高く評価し、作者がそうしたのとまったく同じ仕方でxを表出しただろうと信じる[10]。 (pp.8-9)

 

このように筆者は読者が作者の表出力を評価することと、自分が同じように表出するだろうと考えることを結びつける。ただし筆者はその上で、表出内容を評価する度合いと、読者が感じる表出的潜在力は比例すると述べる。

 筆者は以上のように定式化された表出力(表出的潜在力)が作者とのつながりとの実現において重要であることを認めつつも、それだけでは実現しないと考える。少なくとも表出力は内在する作者の人格に惹かれることが伴う必要があり、それによってこそ「表出的な作者とのつながりexpressive authorial connectedness」とも呼ぶべき感情的な親密さが実現すると筆者は述べる。その一方で作品において表出された信念と態度の共有は、必要ではあるものの大きな影響を持たないと筆者は考えるのだ[11]

満足のいく説明

 以上の議論を筆者は以下のようにまとめる。

 

この最も感情的に親密な、作者とのつながりを構成するような瞬間において、フィクション作品を読むことは、ある人物の思考に参与しているかのように感じられる。その人の信念と態度はあなたのそれと交差し、その人格はあなたを魅了するものであり、そしてその人は、あなたが高く評価しもしあなたができることなら、つまりそのような表出力を持つならば、あなたがそうしただろうような仕方で表出する内容を表出する。これらのすべては感情的な親密さのために十分に整った文脈によって高まるのであり、その中において、[文脈を構成するのが]まるであなたともう一人の思考だけであるかのように感じられるものなのである。

 

このように作者とのつながりを定式化するが、いまだ問題が残っていると筆者は考える。つまりこのように感じられる作者とのつながりが、実のところ内在する作者とのつながりに過ぎず、それと実際の作者との関係が不明瞭であるという点である。次の節では以上で述べた作者とのつながりが、実際の作者とのつながりであるという主張を正当化しようと試みる。

 

3.作者とのつながりを正当化する

 筆者は文学研究において、作家の全作品(oeuvre)や伝記が考慮されると述べる。つまりそれらは現実の作者の表出の仕方や表出された信念、態度、人格と、その作者のフィクション作品における内在的な作者のそれとの一致の証拠となるのだ。しかし筆者はそのような全作品や伝記の考慮が、文学作品の鑑賞に役立つかどうかに懐疑的であると述べ、作者とのつながりを別の仕方で正当化しようと試みる。その方法は二つあり、一つはColin Lyasの「ふりの限界the limits of pretence」の議論を援用することであり、もう一つはEileen Johnの「作者の感受性an artist’s sensibility」の議論を参照することである。それらについて直接述べる前に筆者は、作品そのものの吟味が作者とのつながりを正当化する手段になり得ることを述べる。

文体の簡素さ・全作品・伝記[12]

 作者は「簡素な三人称の全知の文体plain third-person omniscient style」が実際の作者の視点である可能性に触れる。しかしこれについてはそれが作者によって作り上げられる(つまり実際の作者が冗舌で大言壮語であっても簡素な文体を用いることはある)ことを筆者は認める。次に作家の全作品(oeuvre)を吟味することは、実際の作者と内在する作者の重なりを保証するだろうか。しかし筆者は、作者が作品を書くときに、常に自分とは異なる仮面(persona)を用いることは十分あり得るのであり、よって両者の信念や態度、人格や表出の仕方が同一である証拠として使えないと述べる。そしてこれはノンフィクションの場合であっても同様だと筆者は考える。最後に伝記的情報を、実際の作者と内在する作者の重なりの証拠とする可能性について筆者は述べる。しかし伝記的情報の扱いについては文学研究内部においても議論があり、作者とのつながりの正当化を議論のある事柄に頼ることは良くないと筆者は考える。

ふりの限界

筆者は人格や仮面の構築に関しては、「ふりpretence」をするのに「ふりをする人にとって何のふりをすることが可能であるかと、何のふりが為されているのかを受け手が想定することが意味を成すのか[13]」の両方の点において限界があると論じるColin Lyasの以下の議論を引用する。

 

内在する作者が鋭敏で、感性豊かで、感情的に成熟している等々のとき、作家がふりの行為によってそれらの特徴を、作家自身はそれらを有しないにも拘わらず、作品の中で具現化しているとの想定が、あまり意味を成すようには思えない。その作品がこれこれであるという判断は、作者がそこにそれらの性質を提示しているという判断である(作家は、ひょっとしたらその非-文学的生への反応として、それ以外の方法ではそれらの性質を提示しなかったかもしれないのだが[14])。 (p.13)

 

Lyasは作品においてあることが見受けられるということは、作者がそこにそれを提示しているということと同一だと考える。筆者は以上の引用に、三つのコメントを付す。

まず一つ目は「何のふりが為されているのかを受け手が想定することが意味を成すのか」、つまり受け手がどこまでがふりなのかを解釈する限界という点は、作者とのつながりの「妥当性reasonableness」に関するものであり、作者とのつながりそのものに関するものではない(つまりふりであっても親密さを感じることはある)と筆者は述べ、よって「ふりをする主体pretender」の限界が問題となると考える。

 二つ目はふりの主体におけるふりの限界が存在するのかという問題である。しかし筆者はこれに関しては、「誰かが例えば、感受性豊かであるふりだけをするのを想像するのは難しい[16]」と述べ、議論を進めるために「文体や表出の仕方が感性豊かであることを示すのであれば、実際の作者は、少なくともその瞬間においては、感性豊かである[17]」とする(つまりふりの限界は存在する)と述べる。

 三つめは、ふりの限界は何かをすることと何かのふりを同時にすることの不可能性として特徴づけられるということである。文を何らかの方法で書くと同時に、その文をその方法で書くふりをすることは不可能であると筆者は主張する。しかしこのことは、表出の方法が常に実際の作者の実際の(つまり日常生活においてコミュニケーションしたり表現したりする)方法であることを意味しないことは筆者も認める。それは単に作られたものに過ぎないかもしれないのだ。

 筆者は以上を踏まえ、作者とのつながりほどの感情的親密さをもたらさない「文学的作者とのつながりliterary authorial connectedness」ならば正当化できると述べる。これは「執筆行為を行っているときの作者とのつながり[18]」であるが、作品の特徴を作者の全作品における特徴と照らし合わせることで、作者とのつながりに進展する可能性を持つ。

 また第2節で述べたように作者とのつながりは、それが文学的作者とのつながりであっても、読者とのある程度の信念の共有が必要になると筆者は考える。問題はテクストの内在する作者と実際の(執筆時のものであれ)作者との信念は明らかに区別されることである。これに対して筆者は再び作者の他の作品が助けになると考える。つまりノンフィクションにおける「忠実性の条件fidelity constraint[19]」、つまりノンフィクションに表出する信念は実際の作者のものとするという条件、を持ち出し、もし作者の全作品にノンフィクションが含まれていれば、そこに表出する信念によって文学的作者とのつながりを正当化できると言うのである。

 しかし以上のような文学的作者とのつながりの問題点は、そのように都合の良いノンフィクション作品が必ずしも存在しないということである。筆者はそれをオープンレター、ブログ、講義記録、インタビューにまで広げることで解決を図るが、それは別個の議論が必要だと認める。最終的に筆者が正当化できると考えるのは「表出的文学的作者とのつながりexpressive literary authorial connectedness」である。つまり執筆行為における作者の人格を知ることができなくとも、(トリヴィアルだが)執筆行為における特定の表出の方法を持つことは正当化できると言うのだ。

 

感受性

 表出的文学的作者とのつながりについて論じるために、筆者はEileen Johnの以下のような主張を引用する。

 

芸術実践は極度に集中した反省的な制作であるので、[作家以外の]残りの私たちがほとんどすべての跡、すべての特徴を、作家によって制御されており、作家が経験の価値のあるものとした何かの証拠であると考えるデフォルトの保証を与えてくれるのだ。 (p.15)

 

このような主張を筆者は受け入れる。つまり(特に文学においては)作者が経験する価値があると考えるものが作品の要素になるのであり、仮に作品が部分的に集中や反省を欠いて書かれたものであっても、それは規範的ではないと筆者は述べる。

 以上の主張を筆者は、内在する作者についての議論に派生させる。つまり内在する作者が実際の作者と完全に重なってはいなくとも、実際の作者は結局のところ内在する作者の表出の方法や表出された信念・態度や人格を、価値あるものと見なしていたと考えることは正当である。言い方を変えれば、私たちは作品のそれらを示す特徴を実際の作者の「感受性sensibility」、つまり作者が何を経験し、吟味し、理解する価値のあるものとするかの感覚を表出するものだと筆者は述べるのだ。よってこの論文の最初で述べられたような、実際の作者の視点と読者の深い共鳴は望めないが、少なくとも「私たちは私たちの視点と深く共鳴する視点を理解し、また私たちのそれを越えた表出力を持ち、その視点を経験する価値のあるものと見なすような同胞を見つける機会を持つ[21]」のである。そのような感情的な親密さは、確かに実際の作者の視点とのつながりを欠いているが、だからと言って読者と実際の作者の交わりが存在しないということにはならないと筆者は考える。しかも文学制作の集中的・内省的な性質を踏まえれば、そこで交わる作者人格は、実際の作者人格より優れたものであり得ると筆者は述べて論述を終える。

 

[1] Laura Miller, ‘The Salon Interview: David Foster Wallace’, in Stephen J. Burn (ed.), Conversations with David Foster Wallace (Jackson, MS: University Press of Mississippi, 2012), 58–65, at 62.

[2] Marcel Proust, On Reading Ruskin, eds. and trans. Jean Autret, William Buford, and Phillip J. Wolfe (New

Haven, CT: Yale University Press, 1987), 147.

[3] 筆者はここで「1+1が2である」という信念を共有している例を挙げる。それは確かに重要な信念だが、不一致に開かれた信念ではないために、感情的なつながりには結びつかない(p.4)。

[4] 「「内部の」状態は「外部の」行動に表出されたり押し出されたりする。心の「内部の」質、つまり性格や人格は「外部の」行動が実際にそうである仕方である原因となり、そして同様に行動に「痕跡」を残す。臆病あるいは思いやりのある性格は、それを表出する行為に臆病さや思いやり深さの「痕跡」を残す」“an ‘inner’ state is expressed or forced out into ‘outer’ behavior. An ‘inner’ quality of mind, character or personality causes the ‘outer’ behavior to be the way it is, and also leaves its ‘trace’ upon that behavior. A timid or compassionate character leaves a‘trace’ of timidity or compassion upon the actions which express it.” Jenefer Robinson, ‘Style and Personality in the Literary Work’, The Philosophical Review 94 (1985): 227–247, at 229. Tillyard also suggests this line of thought, though much less explicitly. See E. M. W. Tillyard and C. S. Lewis, The Personal Heresy: a Controversy (Oxford: OUP, 1939), 35.

[5] ここで筆者は「内在する作者」と「語り手」を意図的に混同している。その目的は「内在する作者」と「実際の作者」の区別を強調するためのようだが、自分には論理が追えなかった。該当する文は以下の通り:「しかし内在する作者は一人称の語り手とは異なる。一人称の語り手は作中人物であり、内在する作者はそうではない。だがこのことは内在する作者を実際の作者に近づけるものではない。Robinsonの記す通り、どれだけ実際のトルストイが現実の生活で不満たらたらで不寛容であったとしても、『アンナ・カレーニナ』の内在する作者は、思いやりのある理解にあふれている」“But the implied author is distinct from first-person narrators. First-person narrators are characters in the work; the implied author is not. Nevertheless, this does not necessarily position the implied author any closer to the actual author. As Robinson notes, ‘however querulous and intolerant the actual Tolstoy may have been in real life, the implied author of Anna Karenina is full of compassionate understanding’.” (pp.5-6)

[6] Levinson, ‘Music and Negative Emotion’, 328.

[7] ここは解釈に苦労した点である。この「表出力」が帰属するのが作品なのか、読者なのか、作者なのか必ずしも明らかでないように思われる。ここではそれを作品や読者に帰属させているように読めるが、論文の後半部分では作者に帰属させているように読める。おそらくここでの論旨は、作品を作者が用意した感情的・認知的なパースペクティブの表現と見なすことができ、受け手はそのパースペクティブに自分を置き入れることで、そのパースペクティブ追体験することができるということである。ひとまずのところ、そのような事態全体のことを指して「表出力」あるいは「表出」という言葉が使われていると解釈したい。

[8] “In addition to its expression of emotion, a work of literature might be perceived as expressively potent or powerful in its portrayal of events, mode of description, and manner in which observations, insights, attitudes, and ideas are expressed” (p.8)

[9] “it begins to feel to the reader that were she to write a book, it would be just like the one she is reading” (p.8)

[10] ここでxとは先に述べた感情や認知のことだと思われるが、それでは「xによって表出される内容」とは何のことだろうか。あるいは「内容」とは単に感情や認知の表出されたその様態のことを指すのだろうか。

[11] “Thus even if shared beliefs and attitudes are required for authorial connectedness, mode of expression does the heavy lifting and, on its own, can provide a powerful sense of emotional intimacy” (p.10)

[12] 元の論文ではそれぞれ独立の項だったが、興味深い内容が見受けられなかったので簡単にまとめた。

[13] ‘what it is possible for a pretender to pretend and what it makes sense for an audience to assume is being pretended’. (p.13)

[14] この括弧内の意味はよくわからなかった。もしかしたら訳が間違っているのかもしれない。

[15] Colin Lyas, ‘The Relevance of the Author’s Sincerity’, in Peter Lamarque (ed.), Philosophy and Fiction: Essays in Literary Aesthetics (Aberdeen, UK: Aberdeen University Press, 1983), 17–37, at 22.

[16] “it is difficult to imagine someone able merely to pretend being, say, sensitive” (p.13)

[17] “When style expresses or mode of expression demonstrates sensitivity, the actual author, at least in those moments, was sensitive.” (p.13)

[18] “connectedness with the author as she was in the act of writing” (p.14)

[19] 感情や物事の捉え方に関してはノンフィクションであっても実際の作者のものであることは保証されないが、信念に関してはノンフィクションであれば作者のものだと推定できるだろう。もしそれが作者のものでないなら、作者は単純に嘘をついていることになる。

[20] Eileen John, ‘Beauty, Interest, and Autonomy’, The Journal of Aesthetics and Art Criticism 70 (2012), 193–202, at 200.

[21] “we do have the chance of finding a fellow human being who understands a perspective that resonates deeply with ours, does so with an expressive power beyond our own, and finds that perspective worth experiencing” (p.16)