佐金 武・高野保男・大畑浩志「ユーモアはなぜ愉快なのか」(2020)雑レジュメ
の第4章より。ざっと読んだだけなので雑です。現代英語圏の笑いの哲学を押さえるのに有益でした。
1.はじめに
- 主要なユーモア理論は三つある
- 本稿の構成は以下の通り
- 以上の諸理論は競合するのではなく、ユーモアに関する異なる問いに対する異なる説明であることを論じる(第2節)
- 近年有力な不一致説の問題点を指摘する(第3節)
- ユーモアに特徴的な愉快さは感情であることを論じる(第4節)
- そのような愉快さに対して優越説による説明を試みる(第5節)
2.ユーモア理論とその類型
-
ユーモアや笑いは様々に研究されてきたが、それらは三つの問いに分けることができる
-
⑴ユーモアはどのようなときに生じるか(ユーモアの発生条件)
✏️ 笑いを引き起こすものは何か?
-
⑵ユーモアはなぜ愉快なのか(ユーモアが引き起こす心的状態)
✏️ 笑いの愉快さとは何か?どんな心の状態か?
-
⑶ユーモアはそもそも何のためにあるのか(社会的意義・機能)
✏️ 笑いの機能とは何か?笑いは人類や社会にどんな意義を持つ?
-
-
不一致説は⑴に関するものと言える
- ヒトがユーモアを感知するのは、ものや出来事に「常識や通常の理解との意外なズレ」を見出すとき
- 言い換えれば期待に対する裏切りがユーモアを発生させる
- とんちやボケ&ツッコミの面白さを上手く説明できる
-
優越説は一方で、ユーモアは人が予期しない優越感を得たときに見出されるとする
- 人のどじ(バナナで滑って転ぶとか)によってもたらされる笑いを説明できる
- これは実のところ⑴ユーモアの発生条件というより、⑵のユーモアのもたらす心的状態を説明したものと言える
-
安堵説も⑵に関するものと言えるかもしれない。
- 例えば下ネタは安堵説で上手く説明できる
-
またベルクソンの懲罰理論(肉体や精神のこわばりは滑稽であり笑いはそれに対する懲罰である)は⑶に関するものと言える。
- ユーモアの笑いは、凝り固まった社会的通念に対して笑いは罰を与え、その固定的な思考の枠組みを乗り越える契機としての社会的機能を持つ
-
アクィナスの遊戯説(ユーモアの愉快さは遊戯の愉快さである)は⑵の感情理論とも言えるし、ユーモアが娯楽であるとする点からは⑶の説明とも言える。
-
以上のことから言えるのは、諸理論は必ずしも競合しないということ。
- それぞれの理論に得意なユーモアの種類がある。
- ここから包括的な笑いの理論を構築するためには、以上をパッチワークするのではなく、一つの立場から⑴⑵⑶すべてに一貫した答えを示す必要がある。
- 先行研究ではHureleyの不一致理論があるが、本稿では優越説の観点から包括的理論を構築する。
3.ユーモアと愉快さの甘い関係
- 不一致仮説:⑴ユーモアはヒトが思考のバグを発見したときに生じるのであり、⑵ユーモアの愉快さはそのようなデバッグ作業に伴う心的状態である。⑶さらにユーモアはデバッグに愉快さという報酬を与えることで、思考と現実が乖離せず、正しい世界像を描くデータの整合性を保つ動機づけをする。
- 筆者は⑵が説得的でなく、⑶も可能性の一つに過ぎないとする。
4.ユーモアの愉快さは感情か
- ユーモアの愉快さが感情ではないとするMerreallに反論する。
- また感情が非認知的な身体変化の知覚であるとする新ジェームズ主義に反論し、ユーモアの愉快さは認知的だが感情だとする。
5.ユーモアの感情理論としての優越説
- 優越説とは、ユーモアの愉快さを突如得られる優越感とする理論である。
- この理論はユーモアのダークサイドに言及し、人間の暗い本性を暴露するように思われる
- しかし本稿では優越感とは必ずしも劣った者への見下しではなく、より優れたものへの称賛が伴うものであり得ると論じる。
5.1優越説の擁護
- 優越説への批判1:優越感を感じているがユーモアの愉快さを感じない場合もある
- 例えば動物が賢くない振る舞いをするときや、貧しい人々に対するとき
- 再反論:それらは実は優越感ではない。
- 劣ったものや弱者に対しては優越感だけでなく、不憫さ悲しみ慈しみ同情など様々な感情的態度が取られる。
- また優越感にも悪意に満ちたものとそうでないものがあるが、前者があるからといって後者の存在は否定されない
- 優越説への批判2:ユーモアの愉快さを感じているが優越感を感じていないように思える事例もある
- 例えば大喜利。うまい解答に対する愉快さは優越感と何の関係も持たないように思える。
- ダジャレも上手く説明できない。
- 例えば大喜利。うまい解答に対する愉快さは優越感と何の関係も持たないように思える。
- 反論に応えるために、優越感を二つ区別する
- 対象の自分との下方比較に基づく優越感
- 自分や自分を取り巻く誰かの(比較ではなく)卓越性に基づく優越感
- 数学の難問を解いたとき、険しい山の山頂にたどり着いたとき、すばらしい芸術作品を生み出したときに感じられる
- これに蔑みや見下しなどの感情は含まれない。
- またこの二つの区別は別の観点からも可能
- つまり競争的なゼロサムゲームにおいては、他人の不幸が自分の幸運となるので、相対的な比較に基づいた優越感が生じやすい。これは共有不可能な優越感。
- 一方で誰かの成功が全体の利益になるとき、他人の卓説性への称賛の気持ちは自分自身の優越感となる。こちらは共有可能な優越感。
- また逆に優越感の共有のしやすさによって、それが悪意を持つか否かが判断されるとも言える。共有しにくい優越感に基づく行動は不道徳と見なされる。
- 2の優越感によって批判2に応答可能
5.2優越説の優位性
- またズレの発見に伴う優越感としての愉快さは、明らかに適応的。というのもズレの発見は一般に生存上有利に働くため。
- これは不一致理論とほとんど同じ結論である。
- しかし不一致理論の問題は、ユーモアの発生条件(1)と存在理由(3)に応えるだけでは、ユーモアに伴う心的状態に関する問い(2)に答えられないという点にあった。
- つまりユーモアの果たす機能から遡及的に、それがなぜ愉快なのかを説明するのは困難
- 優越説は不一致説と両立可能であり、両者を組み合わせることでユーモアを巡る三つの問いに整合的な回答を与えることができる
- つまり:「ユーモアは何らかのズレ(思考のバグ)が発見されたときに生じ、ユーモアの愉快さはその発見に伴う優越感に他ならない。そして、ユーモアの存在理由は、この優越感を通じて我々の思考を絶えず最適化することにある」
- キャロルは不一致説と安堵説を組み合わせたがそれはどうか
- つまりユーモアの愉快さとはズレが無害であることを暴露され、安堵すること
- たしかにズレの無害さは愉快さに必要だが、安堵がユーモアの愉快さであるようには思えない
- 愉快さには一種の興奮が伴うから。
- またズレの無害さに安堵することが、なぜ思考の最適化につながるのかも説明できない
- 優越説は不道徳なユーモアを説明できる
- ユーモアは時に攻撃的な嘲笑であり不道徳と非難されることがある
- これはユーモアの愉快さが優越感、この場合には特に相対的比較(下方比較)に基づいている場合だと言える。
- そしてその優越感を表現して対象を毀損したり、あるいはそのようなユーモアに対して公的な反応(笑い)を示すことが不道徳なのだ。
コメント
- ユーモアの愉快さを優越感だけで特定できたのか?
- 下方比較による優越感が笑いにつながらない場合に触れられていたが、卓越性への称賛としての優越感もまた笑いにつながらない場合も多くある。
- いや筆者はそこで不一致説を組み合わせたのか。単なる優越感ではなく、ズレの発見に対する優越感が笑いの必要十分条件と主張
- でもズレの発見に対する優越感を感じていても笑わないこともありそう
- 下ネタの面白さは結局説明出来てない気がする。
- 安堵説に任せるということ?