Shen-yi Liao 「想像的抵抗・物語参与・ジャンル」レジュメ

Shen-yi Liao "Imaginative Resistance, Narrative Engagement, Genre" (2016) https://philpapers.org/rec/LIAIRN

 

 

0.イントロ

 

・想像的抵抗は現実世界と物語上の命題との不一致?

→いや、ジャンルによってそのような不一致は乗り越えられる

 

・想像力には制限がないという直観→しかし実は規範的な制限があるのでは?

→想像的抵抗の問題系:現実世界と一致しない規範的な命題を想像することの困難についての考察の蓄積

→しかし今までの想像的抵抗の議論では二つの特徴が考慮されていないのではないか

  • 想像的抵抗が物語参与(フィクションなどから美的な快楽を得るために想像力を用いること)という特定のプロジェクトを行うときに起こること
  • 規範の不一致の際でさえ、想像力の制限はジャンルによって緩和されること

 

 

1.想像的抵抗

 

1.1抵抗現象の輪郭

 

・最初期の定義:事実的命題に対して倫理的命題において想像的抵抗が起こる(Gendler 2000)

→議論は洗練され、今ではより広く「記述的命題に対する規範的命題」「非反応依存的命題に対する反応依存的命題」において想像的抵抗が起こるとされる

→この論文では名称はともあれ後者のカテゴリーに属する命題を「問題となる命題puzzling proposition」とする

 

・最も重要な洗練は、抵抗の諸相を明らかにしたもの(Weatherson 2004; Walton 2006)

→この論文ではそれらを規範的なものと心理的なものに分類する

→また以上の理論的洗練は、想像的抵抗が必ずしも想像に関連しないとする。よって想像的抵抗と言うより、抵抗現象と呼ぶべきだろう

 

・規範的側面=「虚構的真の問題fictionality puzzle」:何故特定の命題は虚構的に真たらしめることが難しいのか

→そのような命題は「作者の自由authorial freedom」そして「読者の想像力[1]」に規範的な制限をかける

→つまり虚構的命題に対する規範的制限は、(命題が規範的であるのに加えて)読者が想像「しなければいけない」という点で二重である

 

心理的側面=「想像の問題imaginative puzzle」(読者は何故特定の命題を想像するのに比較的な困難を感じるのか)と「現象学的問題」(読者は何故特定の命題に対して不快な混乱jarring confusionを感じるのか)

→二つは関連して起こることが多い:またそれは何故なのかという問いもある

 

1.2抵抗現象の枠組みを考える

 

・以上のような抵抗に関する問題を列挙するだけでは十分でない。それらの問題を適切に位置付ける必要がある

→重要なのは問題を起こす文章が、物語の一部として抵抗を引き起こすということ:抵抗現象は物語参与という心的プロジェクトmental activityの過程で起こる

→心的プロジェクト:特別な規範的・認知的重要性を持つ(精神の)活動。Neil Van Leeuwen(2009)の「実践的設定practical setting」と類似したもの。

―「実践的設定」は主体の認知装置のその場限りの再構成を可能にする

ごっこ遊びの実践的設定の場合、それは想像力がguiding actionの中でより直接的な役割を担うことを可能にする(?)。また実践的設定は私たちの期待を一時的に再形成するため、ごっこ遊びの場合にはその「ふり」に関連する一連の規範を主体は受け容れることになる

 

物語参与はそのような心的プロジェクトの一種であり、そこで私たちはフィクション物語などの想像的プロンプトから美的な快楽を得るために想像力を用いる

→これに対して想像力は様々な心的プロジェクトの中で用いられる命題的態度[2]のことである。想像力は物語参与以外にも、ごっこ遊びや反事実的推論の際に用いられる[3]

→また想像力を用いる物語とのインタラクションすべてが物語参与になるわけでもない:試験勉強のためだけに小説を読む学生や、映画の過激表現をチェックするためだけに見る映倫の人とかは、物語に想像的に参与しているとは言えない

 

・物語参与が、他の物語とのインタラクションと区別されるのは、それが作品それ自体から美的快楽aesthetic pleasureを得るために遂行されるという点。

→これは創造的想像力から美的快楽を得るのとは異なるということ

→また物語参与はそのような美的快楽のために、読者は想像力(や関連する心理的反応)を物語の規定の制御の下に置かなければならないという規範的要求を持つ

→「物語参与の際、人は自分の想像力を虚構的真fictionalityに向ける」

 

・物語参与において抵抗現象が起こる際、他の想像力を用いる心的プロジェクトが発生することはない

→例えば抵抗現象と、倫理的熟考などの反事実的推論は同時に起こらない。つまり「女性の嬰児殺しは善」という命題を反事実的推論として想像するとき、そこに抵抗は生じない

 

・以上から、抵抗現象は孤立した命題に関してではなく、物語参与という心的プロジェクトにおける規範性物語の心理というコンテクストに位置付けて考えるべき。

―規範性の問題は、物語において命題が虚構的真となる基盤についてのもの

心理的問題は、物語への反応を因果的に形成する要素についてのもの

 

1.3複雑な抵抗現象

・最近の想像的抵抗の議論はジャンルを考慮することが多い

→Nanay (2010):同じ命題でもジャンルによって抵抗現象が生じたり消えたりする

→Weinberg and Meskin (2006):カートゥーンでは倫理的に逸脱した命題への抵抗現象が消えることがある

→経験科学におけるテスト:

―最後に「嬰児殺しは善」という命題をつけたストーリーを、警察の調書のスタイルとアステカ神話のスタイルで提示し、どちらが抵抗を生じさせるか実験した。

→同じ命題(嬰児殺しは善)でも、コンテクストのジャンル(警察の調書とアステカ神話)によってそれを虚構的真とするかどうか分かれる、あるいはそれが倫理的に良いと感じるか悪いと感じるかが分かれる

 

 

2.ジャンルと物語参与

トドロフは『言説の諸ジャンル』(1990)で、「ジャンル」の「読者の期待の地平」であり「作者の執筆のモデル」であるという二重の機能について語った

→つまりジャンルは作り手の物語の構築受け手のその経験に影響する。言い換えれば何が虚構的に真であるか何が想像されるのかに影響する。

→ジャンルは物語参与における規範性と心理において重要である

 

2.1ジャンル

・ジャンル=最も基本的には関連する共同体において特別であると認識される物語のグループのこと

 

ウォルトンは「芸術のカテゴリー」(1970)において、作品があるジャンルに属しているかどうかは様々な要素に依存するとした:

―そのジャンルの他の作品との類似、作家の意図、批評的判断、そしてそのジャンルの美的快楽のための傾向propensity for aesthetic pleasureなど

 

・通常一つの作品は複数のジャンルに属し、そのためジャンル同士は重なる

→それらの対立の解決は関心・文脈依存的に為される

 

・ただジャンルが重要なのは、単にそれがクラス分けである以上に、それが「物語参与の規範性と心理への示唆」を持つため

→作品のジャンルの不一致についての議論は、作品における虚構的真と参与の方法に関わる

―「キャラクターが涙の潮流によって世界に洗い出された」というのが(単に隠喩的な意味でなく)物語における真がどうかに、作品がマジックリアリズムであるかリアリズム作品であるかは関連する(虚構的真)

―グロい斬首シーンを笑えるかどうかは、その映画がホラーなのかブラックコメディなのかによる(参与の方法)

 

・ジャンルは物語における命題が虚構的真であるかと、受け手が物語に参与する(べき)方法に影響を与えるのだ

 

2.2慣習

・規範的側面:ジャンルは作者が何を虚構的真にし得るかを制限する

 

生成原理Principle of generation:直接作品に示されていない命題のうち何が虚構的真であるかを決める

 

・ジャンルの慣習

―記述的側面:SFとされるものは実際現実の物理法則を侵犯していることが多い

―規範的側面:SFに分類されることによって作品は物理法則の侵犯を正当化される

→これはジャンル慣習が生成原理によって作品の虚構世界を制限していると言える

 

2.3期待

心理的側面:ジャンルは読者の想像と心理的反応を規定する

 

ウォルトンごっこ遊び理論:虚構的真とは物語が読者に想像するように指定しているもの

→ジャンルは物語の想像指定の一部であり、それは読者が何を想像すべきかを指定している(SFにおいて読者は現実物理法則の違反を受入れなければならない)

→このようにジャンルは読者に義務を指定する=ジャンル的期待を持つ

 

・心理アーキテクチャとの関係:ジャンル的期待はストーリー図式story schemaである(物語におけるschema概念についてはMandler (1984)など)

→理想的な物語参与においては、読者は適切なジャンル的期待という図式を利用し、それによって「ストーリーについていくgo along with the story」

→一方で読者が適切なジャンル的期待にアクセスできないとき、その物語参与には恣意的・意識的な努力が必要となり、その型に一致する容易さtypical easeが失われる

 

ジャンル的期待/物語参与の流暢さ/美的快楽の三者には相互作用がある

―読者が適切なジャンル的期待によって流暢な物語参与を行うとき、美的快楽は増大する

→逆にジャンル的期待が適切でないとき、作品の美的に価値のある特徴を見逃しがちである

―一方で読者は主に作品の美的特徴を埋め合わせcompensate、関連する類似した作品に触れることでジャンル的期待を獲得する

→読者はそれによって美的快楽を得、流暢な物語参与を獲得する

 

・例えばストラヴィンスキーの『春の祭典』は1913年パリの初演では大不評だったが、現在では名作とされている

→その革新性によって、当時の受容者はジャンル的期待を形成できなかった

 

 

3.ジャンルと想像的抵抗

・ジャンル的慣習は作品の虚構的真を基礎づけ、ジャンル的期待は読者の想像に影響する。

 

3.1虚構的真の問題

・先の例であれば、警察の調書の形式で書かれた「嬰児殺しは善」という倫理的命題は、そのジャンルにおいて慣習不協和であるため、虚構的真の問題を惹き起こす。

→警察の調書というジャンルは倫理的命題の現実世界からの逸脱を許さない

 

・一方で同じ命題がアステカ神話の形式で書かれた場合、「嬰児殺しは善」という命題はそのジャンルにおいて慣習協和であるため、虚構的真の問題を惹き起こさない。

アステカ神話というジャンルは倫理的命題の現実世界からの逸脱を許す

 

・また慣習不協和はどのような命題が虚構的真になり得るかにも影響する

→虚構的真は基本的に作者が決定するものだが、作者が書いたものが全て自動的に虚構的真になるわけではない:例えば作品の諸特徴がそのジャンルはリアリズム小説であることを示していたならば、作者が単に「光より速い宇宙船が存在する」と書いても虚構的真になるのは難しい

―またさらに、作品がどのジャンルに属するかも、全て作者が決められるわけではない

→例えば批評家が作品のジャンルを何と判断するかも影響

 

・以上より倫理的逸脱による抵抗現象という枠組み自体を再考する必要がある

→何人かの論者は倫理的逸脱が抵抗現象の必要条件ではない(抵抗現象の原因は必ずしも倫理的逸脱ではない)と論じたが、筆者はさらに倫理的逸脱は抵抗現象の十分条件でもない(倫理的逸脱があるからと言って必ず抵抗現象が起こるわけではない)と論じるのだ

→結局倫理的に逸脱した命題が抵抗を引き起こすのは、それがジャンル慣習に不協和である場合である

 

ウォルトン(1994)が言うように、SFがあるようにMF(Moral Fiction、現実とは異なる倫理法則が働くフィクション)は存在し得るし、存在するだろう

 

3.2想像的問題

・3.1ではジャンル慣習の不協和によって、倫理的に逸脱した命題が虚構的真を形成できない例(虚構的真問題の例)が示された

→一方でジャンルは読者にジャンル的期待を生じさせ、その期待と作品の不一致が想像の問題を引き起こすのだろう

 

・同じ例を挙げれば、警察の調書のジャンルは、型通りに、自動的に、そして無意識的に現実世界と同じ倫理規範を期待させる

→そして「嬰児殺しは善」という命題はそのようなジャンル的期待に対して不協和であるために、抵抗を引き起こす

―そして一方でアステカ神話のジャンルはそのような期待を形成しないために、抵抗を引き起こさない[4]

 

トドロフが言うように、ジャンル的慣習が作者が何を容易に虚構的真とするかを制限するように、ジャンル的期待は読者が何を容易に想像出来るかを制限する[5]

 

・読者が命題を与えられたとき、その命題が意味を成すための図式や、新しい図式を形成したり所与のものを適用するための傾向を持たなければ、その命題は困惑させるpuzzlingものになる

→例えばジャンルがリアリズム小説であった場合に、それから逸脱する命題に対して、読者は意識的な心的努力によってそのジャンル的期待を乗り越えることは可能。しかしその場合にも、想像が比較的困難であることは明らか

 

・もちろん読者のジャンル的期待は(そこに十分な動機があれば)しばしば再形成を余儀なくされる

→特に優れたフィクション作品の場合、ジャンル的期待を裏切ることは多く、また優れた作者は一見困惑させる命題を提示し、それを美的快楽によって想像可能にすることがある〈しかしどうやって?〉。

→よって読者はそのような期待の再設定の労力を補償してくれる美的快楽を見出せない場合にのみ、リアリズム的期待の初期設定に戻されるdefault to realist expectations。

→よって読者は現実世界的特徴を期待する初期設定を持ち、作品が他のジャンルの目印を示した場合に期待が再構成される(読者は前知識無しの場合作品をいきなりSFとして読み始めないということ)

 

・以上から、上の警察調書が何故抵抗現象を示すのかをまとめる

―まずそれはリアリズム以外のジャンル的期待を提示しない

―さらにそれはそのような想像の困難を埋め合わせるような美的に価値のある特徴を持たない(なんたってそれは哲学者が書いたストーリーであってリデイア・デイヴィスのショートショートじゃない)

→よって読者のジャンル的期待は再形成されず、そのジャンル図式に当てはまらない「嬰児殺しは善」という命題は抵抗現象を引き起こす

 

3.3現象学的問題

・上でも述べた通り、適切なジャンル的期待や図式が無ければ、物語参与は流暢、つまり素早く、自動的で、無意識ではなくなってしまう

→そのようなときに現象学的問題が生じると言える

 

・想像的問題のときと同様、現象学的問題も一時的なものと恒常的なものがある

→一部の作品はわざと不快な困惑を起こし、それより前の部分を再解釈するように読者に仕向けたりする

→よって抵抗の現象学the phenomenology of resistanceは、それ自体は哲学的な問題ではない(?)

→その抵抗の現象学が恒常的な場合にのみ、そこに哲学的な問題があると言える[6]

 

・想像的問題も現象学的問題も、適切なジャンル的期待の欠如とそれによるそれによる物語参与の流暢さの欠如という、同じ心理的基礎を持つ。よって二つは概念的には区別されるが、よく同時に起こる[7]

 

3.4 「the Grand Scheme of things」の中のジャンル的説明

・ここまでで抵抗現象をジャンルによって説明した:

―困惑させる命題は、ジャンル的慣習に不協和であるために虚構的真にするのが比較的難しくジャンル的期待に不協和であるために想像するのが比較的難しく、そして流暢な物語参与に必要なジャンル的期待を読者が欠くために、不快な混乱の感覚を生じさせるのだ

→もちろん以上のジャンル的説明がすべてではないが、ジャンルは抵抗現象に際して重要な役割を担っている

 

・ジャンル的説明の優位性

―これまでは想像的抵抗の現象が、異なる説明による異なるメカニズムによって説明されてしまっていた

  • Gendler (2000, 2006)やYablo (2002)は問題となる命題によって生じる観念conceptに注目した。

→作品で要請される倫理的観念が現実のものと異なる場合、想像的抵抗を生じさせるとした

  • Walton (1994, 2006)やWeatherson (2004)は高位の主張と低位の基礎との併発関係supervenience relationに注目した。

→作者は虚構的に真である低位の主張を変えることが出来るが、その低位の基礎に(倫理的主張などの)高位の基礎を結びつける併発関係は変えることが出来ない。よって現実でも適用されるような倫理的併発関係を侵犯することは、抵抗現象を引き起こす

 

・以上の説明はどれも、ある命題がある物語では抵抗を引き起こし、また他の物語では引き起こさないという現象を説明できない

→①の倫理的観念や②の併発関係は、問題となる命題が属するのがどのストーリーであるかとは関係が無いので、警察調書とアステカ神話に関して同じ結論(両方とも抵抗を起こすか、起こさないか)しか導けない。

→それらに対してジャンル的説明は、異なるジャンル的慣習によって異なる観念の適用条件や異なる併発関係を持つことを可能にする

 

・しかし抵抗現象に関しては、作品のジャンルと同様に現実世界の規範や判断などの複数の要素を勘案することが必要

→それは文学理論家が、ある物語において何が虚構的に真であるかを決めるのに、複数の(形式的・歴史的・制度的)要素を考慮するのと同様。

―ある悲痛な独白が、ロマンチストには嗚咽を、皮肉屋には笑いを生じさせる。

→抵抗現象は物語参与という適切なコンテクストに置かれることによって、その複雑性を明らかにするのだ

 

[1] ここで筆者はウォルトンの虚構的真論を採る:つまり虚構的に真であるものでは、想像されるものであるということ

[2] この定義はSEPのimaginationの項(Gendler 2006)によるもので、曖昧な所のある想像力の定義に関して標準的と言えるもの。Liao & Doggett (2014)に命題的態度としての想像力に関する概観、Liao & Gendler (2011)に種々の心的プロジェクトにおけるそのような想像力の使用について書かれる

[3] 「物語参与」と「想像力」の関係は、信念的熟考doxastic deliberationと信念beliefの関係に類似する。信念が信念的熟考で用いられるとき、真理の規範に支配される。しかし深淵はまた同様に他の心的プロジェクトで用いられるとき、他の規範にも支配されうる

[4] でもこれはジャンル慣習不協和による虚構的真の問題と何が違う?同じことを二つの側面から述べているだけ?

[5] しかしウォルトンの言うように〈虚構的真=想像されるもの〉であるなら、両者は同じことを意味する?〈作者が虚構的真を指定する〉と〈読者がそれを想像する〉ことは同じになるのではないか?

[6]現象学的問題は他の二つとは違うレベルにあるということか。ジャンル的説明をする際、抵抗現象は虚構的真の問題と想像的問題に還元されてしまう(私にはその二つも一つの問題の二つの側面に見えるが)ので、現象学的問題を独立して扱う必要はないということ?〉

[7] 〈逆にどちらかしか起こらないことがあるのだろうか?〉