M. Donnelly「文学における視点の認知的価値」(2019)論文紹介
https://academic.oup.com/jaac/article/77/1/11/5981458
はじめに
- 書誌情報:DONNELLY, M. (2019), The Cognitive Value of Literary Perspectives. The Journal of Aesthetics and Art Criticism, 77: 11-22.
- 筆者のMaureen Donnelly(ドネリー)はニューヨーク州立大学バッファロー校哲学科准教授。専門は形而上学、形式的存在論、バイオインフォマティクス。http://www.buffalo.edu/cas/philosophy/faculty/faculty_directory/donnelly.html
- 文学の認知的価値についての論文
- 文学の認知的価値の問題:私たちは文学作品から何がしかを学ぶように思われる。それは本当だろうか、そしてそうであるなら、そのような文学の認知的価値はどのようなものなのか、という問題。
- 認知的価値:例えば科学実験は科学的知識、哲学の思考実験は概念に関する知識を与えてくれる
- 文学から得られる認知的見返りは、新聞や科学実験、哲学論文から得られる「(命題的)知識」とは異なるように思われる。ではそれはどのように言い表せるだろうか。
- 発表者は文学に認知的価値があるか/ないか、という結論よりも、フィクション(文学)が現実に対して持つ力をどのように定式化・正当化・記述できるのか、という議論に興味がある。本論文はその点で研究に資すると言える。
- 今回の論文で「文学literature」と呼ばれるのは、狭義の文学=近現代のリアリズム小説であり、SFやファンタジー、ノンフィクション、そして小説以外の文学作品などは含まない。
本文
Ⅰ.イントロダクションINTRODUCTION
- この論文では、以下の二つの文学の認知的価値を示す
- 1.文学は「微妙な差異のある視点的概念nuanced perspectival concepts」を与えてくれる
- これは「私たちは自分の世界経験を構造化する様々な概念を拡張したり、他人の世界経験を理解しようとする際に、用いることがある」もの
- この論文では、自他による世界の主観的経験の認識において、この文学から得られる「視点的概念」がどのように役立つかを論じる(主にⅣ)
- 2.他人の視点から行為を理解すること:他人の動機の理解
- 文学はまた、他人の行為の主観的動機を理解する、現実と違って危険の無い訓練の場を与えてくれると論じる(主にⅤ)
- 以上のような文学の認知的価値を探究するにあたり重要なのが、以下のような文学の特徴:
- 「文学は、読者と作者の両方に平等にアクセス可能とされる視点を対象としたものではない。文学は(例えば科学的、歴史的、あるいは哲学的テクストがそうであるように)世界を共通の客観的視点から記述すると主張しない。また(例えばジャンルフィクションがそうであるように)共有された文化的視点から記述するとも主張しない。文学はその代わりに、読者を自身の主観的視点から出て、なじみのない視点に参与するように誘うのだ」 (11)
- 文学が普遍客観的視点でも、慣習的に構築された視点でもなく、(読者自身とは別の)主観的視点から記述されているという特徴こそが、文学の認知的価値を可能にしていると筆者は主張する。
- 「文学は、読者と作者の両方に平等にアクセス可能とされる視点を対象としたものではない。文学は(例えば科学的、歴史的、あるいは哲学的テクストがそうであるように)世界を共通の客観的視点から記述すると主張しない。また(例えばジャンルフィクションがそうであるように)共有された文化的視点から記述するとも主張しない。文学はその代わりに、読者を自身の主観的視点から出て、なじみのない視点に参与するように誘うのだ」 (11)
- 1.文学は「微妙な差異のある視点的概念nuanced perspectival concepts」を与えてくれる
Ⅱ.芸術と主観性ART AND SUBJECTIVITY
:絵画が人の主観的経験の一般的特徴を明らかにしていることを述べたうえで、文学は同様の仕方で寄与することはできないと述べる。また文学から得られるのは「経験」ではなく、あくまで「視点」であると述べる。
- 文学を論じる前に、美術史家のBurri (2007)の絵画論を引用:絵画の発展によって人間一般の主観的視覚経験の特徴が明らかにされてきた
- 「Burriは芸術を、個人化された主観性と普遍化された客観性の中間の、社会的に教え込まれた出発点から、より主観的な視点を明らかにすることを目的にした探求の一つの形であるとする」(12)
- これを明らかにするため、視覚芸術の歴史を例に挙げる
- 以上のような探求によって、画家たちは(普段は意識しないが)多くの人々に共通する視覚的知覚の特徴を明らかにした;線的遠近法や視覚の周縁部がぼやけていることなど
- しかしその一方で、文学芸術によって同様の事が起こるとは考えづらい
- 確かにプルーストやジェイムズ・ジョイス、ヴァージニア・ウルフなどは(「意識の流れ」の手法など)「内的生inner lives」を強調した記述様式を用いた。
- しかし文学の構成要素building blockは、絵画の構成要素である色や形がそうでないように、抽象的で概念化されている
- また以上のモダニストの手法が、(絵画のように)すべての人類に共通する主観的経験の普遍的特徴を記述しているということは疑わしい
- 以上のように、絵画と異なり文学によって、人間一般の主観的経験の特徴が明らかにされるとは言えないだろう
- また認知主義の主張によくあるような、文学から「特定の種類の経験の知識knowledge of particular kinds of experiences」=「経験的知識experiential knowledge」を得られる、という意見も疑わしい[2]
- Walsh (1969):(命題的知識に対する)「経験的知識」、つまり恋に落ちたり子どもを失ったりすることがどういうことかを、それを描写する文学を読むことによって学ぶことができる
- ウォルシュは文学を通じて、「代理的経験vicarious experience」を読者に引き起こすことができると主張した
- 筆者の反論:「文学作品は読者に、文学作品を読むという経験のみを与える。そして恋に落ちたり子供を失ったりすることについて読む経験は、恋に落ちたり子供を失ったりする経験とは、重要な仕方で異なる」(12)
- どのように異なるのか:例えば明らかに前者は楽しむことができるが、後者はそうではない[3]
- 筆者は結局のところ、ウォルシュの、文学鑑賞によって(その作品を読むということ以外の)ある種の一人称的「経験」(あるいは経験的知識)が得られるという主張は、あまりに強すぎると結論付ける
- また文学は「他人が文学作品において記述されている種類の状況を経験すること[4]」に関する三人称的知識さえ与えるかどうか疑わしい
- 現実の経験は特異的idiosyncraticであり、人によって異なる。しかし文学における登場人物の経験が、現実の誰かの経験を表象している必然性はない。そのため、文学は現実の他人の経験の知識すら与えてくれないだろう[5]
- 以上の(文学作品は経験的知識を与えるという)主張を吟味するために、具体例としてゾラ『洪水The Flood』の読書経験について述べる
- 『洪水』:老農夫ルイス・ルービエンの一家が洪水に巻き込まれ、建物の屋上に避難するも、ルイス以外全員溺死する話
- 筆者に依れば、ある経験の描写を鑑賞することと、それを実際に経験することが違うのは明らか
- 「この物語を読む中で、自分の家族を災害で失うというのがどういうことであり得るのかを想像するのは容易である。しかし私の物語を読む経験は、私が洪水で家族を失う経験とは、まったく異なる。読書しながら、私は自分が心地よい乾いたソファに寝そべっていることに完全に自覚的なのだ」(13)
- また『洪水』を読む経験は、現実の他人が同じ状況に居るのを知ることとも異なる
- 現実にその場に居合わせるのと異なり、『洪水』を読む中でソファから出て助けなければという気持ちは起こらない[6]
- 更に言えば、ルービエン一家に対する心配の感情は、読者としての知識(ゾラの作品で登場人物は大抵ひどい目に会う)に基づいており、その点でも現実の他人に対する心配の感情とは異なる
- 結論:「かくして、私の物語を読む経験は、私自身が洪水のただ中に居る経験と、現実に誰かが洪水で溺れているのを見る経験の、両方から重要な仕方で異なるのだ」 (13)
- 第2節の結論:「文学は、それが自分自身のもの以外の主観的視点を想像的に探索するために与えてくれる機会を通して、重要な認知的価値を持つと、私は考える[7]」しかし筆者の主張は、以下の点でウォルシュらと異なる。
- ①読書によって私たちが探求するのは「別の主観的視点alternative subjective perspectives」であって、「代理的な主観的経験vicarious, subjective experiences」ではない
- Ⅲでこの区別を扱う
- ②文学が認知的に与えてくれるのは「知識」ではなく、「自分自身や他人をより良く理解するために必要な道具や技術tools and skills required for a better understanding of ourselves and other people」である
- これについてはⅣとⅤで議論する
- ①読書によって私たちが探求するのは「別の主観的視点alternative subjective perspectives」であって、「代理的な主観的経験vicarious, subjective experiences」ではない
- Walsh (1969):(命題的知識に対する)「経験的知識」、つまり恋に落ちたり子どもを失ったりすることがどういうことかを、それを描写する文学を読むことによって学ぶことができる
- しかしその一方で、文学芸術によって同様の事が起こるとは考えづらい
Ⅲ.経験と視点EXPERIENCE AND PERSPECTIVE
:「視点的性質」概念を導入し、それによって以後の、文学から得られる認知的利益の議論の基盤とする。
- 前提として、「経験」は「視点」によって異なる
- 自分と他人は同じ経験をしない。またたとえ同じ時間・場所を共有していても、「私たちは世界を異なる視点から経験する。つまり、世界の物事は異なる人にとって異なって現れるのだ[8]」。
- またこれは単に事実的な認識が異なるだけでなく、同じ対象(例えば猫)に対して、ある人は快いと感じるが、他の人がやっかいと感じる、というような感性的な主観性を含むことを意味する
- 「経験」と「視点」は概念的に区別される
- 「私は主観的視点を、世界が、特定の人にとってその世界経験の中で特徴づけられる仕方として考える。私の視点は、①一般的な特徴づけ(例えば、私の友人同様、私は猫を毛むくじゃらで四つ足のものとして見る)、②私に固有の特徴づけ(例えば私は自分の猫を快くほっとさせてくれるものとして見る)、③そして物事のタイプに関する一般的信念(例えば私はすべての猫が感覚を持っていて、道徳的配慮に値すると信じる)を含む。視点は経験ではない:物事が私にとって特徴づけられる仕方は時間と共に変化するが、私の視点は時空間で展開するような出来事ではないのだ。どちらかと言えば視点は、それを通して経験が構造化されるグリッドのようなものなのだ」 (14)
- まとめれば、視点は経験そのものではなく、経験を認識する枠組みである。それは個人的で他人と共有できないものから、誰にでも当てはまるような一般的なものまで多岐にわたるものを含む。
- 次に筆者は、私たちは他人の視点を、部分的に(一部の側面に限って)想像できると述べる。
- 「私は、他人の視点の側面aspectsを、他人の経験のどんな時間的な断片も想像せずに、想像することができる[9]。これは私が、その人にとって特定の物事が特徴づけられるいくつかの仕方を、その人の経験のあらゆる断片のすべての構成要素を想像することなしに、想像することができるからである。」 (14)
- 「私は主観的視点を、世界が、特定の人にとってその世界経験の中で特徴づけられる仕方として考える。私の視点は、①一般的な特徴づけ(例えば、私の友人同様、私は猫を毛むくじゃらで四つ足のものとして見る)、②私に固有の特徴づけ(例えば私は自分の猫を快くほっとさせてくれるものとして見る)、③そして物事のタイプに関する一般的信念(例えば私はすべての猫が感覚を持っていて、道徳的配慮に値すると信じる)を含む。視点は経験ではない:物事が私にとって特徴づけられる仕方は時間と共に変化するが、私の視点は時空間で展開するような出来事ではないのだ。どちらかと言えば視点は、それを通して経験が構造化されるグリッドのようなものなのだ」 (14)
- 例えば、友人が電話で砂浜に座っていることを述べるとする。私はその友人の視点の重要な側面( 目の前の砂や海)を鮮やかに想像することができる。しかしそのときに、「私はそれを、友人の砂浜での経験に似た経験をしたり、友人の経験がその全体性においてどのようなものかを想像することなしに、想像することができる[10]」のだ。
- 以上から筆者は、「視点的性質perspectival property」を導入する
- 「私は視点的性質を、ある存在物が何らかの主観的視点から持つことができるが、すべての主観的視点からは持つことができない性質と考える[11]」[12]
- 視点的性質の例1:「目の前にあるpresent」
- 友人の目の前にはヤシの木があるが、私の前には無い。
- 例2:相対的位置属性relative locational attributes
- 自分からは右にあるが、あなたからは左にある
- 最も興味深い視点的性質:感情的affective・評価的evaluative性質
- 例えば、自分の視点からは重要であったり愛しているものが、友人の視点ではそうでなかったりするだろう。
- そして視点的なものと同様の性質が、客観的な性質として存在することもある
- 「注意したいのは、いくつかの視点的性質に、客観的な対応物(例えば、対象が美しかったり望ましかったりする客観的な意味)があったとしても、視点的な性質はどんな客観的性質とも同一ではないということだ」 (14)
- 絵画が「客観的に」美しかったとしても、ある人にとって「主観的に」美しいと感じられる必要はない。またある行為が客観的には善いとしても、それを自分にとって善いと感じられる必要はない[13]
- 以上を前提として、文学の認知的価値に関する主張を展開:文学を文学として鑑賞するとは、自分とは異なる視点的性質を認識することである
- 「文学作品に参与することは、単に言葉を処理するのとは反対に、登場人物、事物、そして出来事が、その作品において割り当てられている視点的性質のうち少なくともいくつかを所持していると想像することを要求するのだ」 (15)
- 文学に参与することは、自分が登場人物に似た経験をすることや、物語の状況に実際の他人が置かれているのを経験することとは異なる
- 「ある出来事an eventが展開していて恐ろしいということの想像は、その出来事が(それらが私自身の視点から見て展開していて恐ろしいときに)[同じような]出来事eventsが持つ視点的性質によって特徴づけられている、ということを私が想像することだけを要求する。単に出来事がそのように特徴づけられていると想像することは、砂と海が眼の前にあることを想像することが、私が砂浜に居る経験のどんな断片も要求しないのと同様に、私の経験のどんな断片も描かれた出来事の実際の経験に近似するということを要求しない[14]」 (15)
- 前半部:作中の出来事が怖ろしいことを想像するというのは、単に自分から見て現実の類似した出来事が怖ろしいと感じるときにその出来事に帰属させている性質(つまり私自身の視点的性質)を、その作中の出来事にも帰属させるのを想像することに過ぎない[15]。
- 後半部:想像は経験を必要としない。作中のある出来事がある視点的性質(「目の前にある」「恐ろしい」)を持つと想像することは、自分が現実にその出来事をそのようなものとして経験することや、あるいは自分以外の誰かが現実にその出来事を経験するのをそのようなものとして見ることとは、まったく異なる。
- 「ある出来事an eventが展開していて恐ろしいということの想像は、その出来事が(それらが私自身の視点から見て展開していて恐ろしいときに)[同じような]出来事eventsが持つ視点的性質によって特徴づけられている、ということを私が想像することだけを要求する。単に出来事がそのように特徴づけられていると想像することは、砂と海が眼の前にあることを想像することが、私が砂浜に居る経験のどんな断片も要求しないのと同様に、私の経験のどんな断片も描かれた出来事の実際の経験に近似するということを要求しない[14]」 (15)
Ⅳ.概念的豊饒化の基礎としての文学LITERATURE AS A BASIS FOR CONCEPTUAL ENRICHMENT
:文学からは、視点的性質を含んだ概念を得ることができ、それこそが文学の認知的利益である。そのような概念とは、作品における存在の視点的性質の特徴づけを、読者が一般化したものである。そのような視点的概念によって自他の主観的経験を名指すことが可能になるだろう。
- 「概念」について:「私は概念が、特定の特有の特徴を通して存在物のクラスを同定する、一種の道具だと考える[16]」
- 概念によって、存在物が所属するタイプを名指すことができる。
- 例えば「犬」概念によって、犬に特有の物質的・行動的特徴を持つ特定のイヌ科の動物を区別することができる
- 科学的・哲学的文脈において、概念は定義や必要・十分条件の集合によって導入されるが、文学においてはそうではない
- 「代わりに、文学作品は特定の(通常は虚構の)人物、出来事、感情その他を特徴づける。言い換えれば文学作品は、特定の存在物を、他のものとの何らかの関係を持つものとして提示するのだ」 (15)
- つまり、理論的には概念は定義によって提示されるが、文学においては特徴づけや他との関係性によって提示される
- 読書において概念を用いる仕方は二つある
- 一つ目は、作中の存在物に対して、既存の概念を当てはめること。これは、その存在物が概念に当てはまるような特有の特徴を持つことを認識することによる。
- そうしなければ私たちは登場人物が人間であったり、関係がロマンティックなものであったりを認識することができないだろう
- 二つ目:文学における存在物の特徴づけを一般化することで、新しい概念を得ることができる
- 例えば『洪水』において、娘が自分の子どもを水面の上に掲げながら近くの屋根で溺れそうになっているところを見ながら、それを助けられないルイスの経験の描写から、特定の種類の経験の概念を得ることができる。
- ここで得られるのは、「愛する人に恐ろしいことが起きているのを見ながら、それを助けられないという経験」 (15)の概念
- また「犬」概念が大きさ、色、形、行動において幅を持つように、そのような概念が適用される経験にも幅がある
- 例えば、どのような恐ろしいことが起きているのか、その愛する人が親族であるのか、その恐れに怒りが混じっているのか、などについて。
- このように文学から得られる概念によって、『洪水』のルイスの経験と共通項を持つ、自分の経験や他人の経験を同定identifyすることができる
- 例えば『洪水』において、娘が自分の子どもを水面の上に掲げながら近くの屋根で溺れそうになっているところを見ながら、それを助けられないルイスの経験の描写から、特定の種類の経験の概念を得ることができる。
- 客観的な視点で書かれるテクストから得られる概念と、文学から得られる概念は、概念の種類や得る方法において異なる
- 文学作品から得られる概念は、通常視点的性質を持つ
- 上の例であれば、「愛する人が怖ろしい目に遭う」概念は、「愛するbeloved」や「恐ろしいhorrific」などの、人によって異なる視点的性質を含む
- そして文学から得られる視点的性質を含んだ概念は、客観的性質によって存在物を特徴づける概念と異なり、即座に経験可能である
- 例えば、何らかの行為に「道徳的に間違っている」という客観的性質を帰属させるためには、自分の主観的視点から外に出て、何らかの客観的な道徳的基準を適用する必要がある
- 一方で、「恐ろしい」や「脅威である」というような視点的性質の場合は、単に自分の情動に注目すれば良い
- 文学から得られる概念は、その得る方法において異なる:文脈が大きな役割を果たす
- 「文学由来の概念は、その中で参与した読者が関連する視点的性質を概念のプロトタイプに想像的に適用するような文脈を通して、得られるのだ」 (16)
- 『洪水』であれば、〈娘に恐ろしいことが降りかかっているのを見ながら何もできないルイスの状況を想像する〉というプロトタイプ的文脈を通して、〈愛する人に恐ろしいことが降りかかっているのを見ながら何もできない〉というより一般的な概念を得る。
- 同様の方法では、新聞や哲学者の思考実験から文学から得られるような概念を得ることはできない
- 新聞や思考実験においては、文学で提示されるような視点的性質が明らかでないため
- 「登場人物を、読者が想像的に関心を持つような人々として提示し、物語における出来事を、適切な想像的反応(緊張、不満、恐怖)を参与した読者に引き起こすように展開させるということが、ゾラの書き手としての技術の一部なのだ[17]」 (16)
- 「優れた文学は、参与した読者が視点的性質を、自分の経験において特徴づけられている物事から文学作品の虚構的存在に、想像的に転移させるように駆り立てるのだ」 (16)
- 読書において読者は、自分の現実の経験で結びつけられている視点的性質を、作中の登場人物・出来事に想像的に帰属させる。
- また文学から得られる概念は、定義の適用ではなく、プロトタイプからの一般化(されたもの)generalizationsである
- その結果として、
- 「文学作品における存在に帰されているまさにどの特徴が、現実世界で類似の事物を区別するためのプロトタイプとしてその存在を用いるときに一般化されるのかは、その読者に依るのだ」 (16)
- 作中の存在には、様々な視点的性質が帰されることで、主観的・文学的概念が提示される(「愛する人が酷い目に遭っているのに助けられないという経験」概念)。ただし読者は、視点的性質のすべてを作中と同様に現実世界の事物に帰するのではなく、そのうちのいくつかを選択して、現実世界の類似物を見出す、ということ。
- 以上から、文学の認知的利益は以下のように言い表せる
- 「このように、文学作品から概念を拾い集めることは、主観的視点の内側のから/を超えて考える読者の能力を、読者が、存在物が一つの視点からどのように特徴づけられるかを推論し、異なる視点の間で存在物が特徴づけられる仕方に多かれ少なかれ共通点を見つけることによって、発展させるのだ。」 (16)
- 他の哲学者たちも同様のことを述べているように見える
- Catherine Wilson (1983):私たちは文学から、自分がすでに持っている世界(特に自他の行為)をとらえるための概念よりも、優れた概念を取り入れることができる
- 例:日本の小説を読むことで、自分が今持っている「名誉」「犠牲」概念よりも優れた「名誉」「犠牲」概念を、採用することがある
- 他の論者(Robert Stecker, Eileen John, Noël Carroll, and John Gibson)はそれに加えて以下のように述べる
- 私たちがすでに持っている概念に対して、文学はその概念が当てはまるような具体的で複雑な状況を提示することによって、私たちは理解を深めることができる
- 例:『オセロー』を読むことで、「嫉妬」概念の理解が深まったり広がったりする
- ただし、筆者は上の議論には異議を唱える
- 概念枠組みの大幅な変更や、概念の理解そのものは、文学鑑賞の主要な機能と結びついているわけではない
- 文学への参与はあくまで「私たち自身の世界のような世界を、私たちとは異なる複雑な複数の視点を通して、想像的に探索すること[18]」であり、重要なのはそれによって〈作中における存在物への視点的性質による特徴づけ〉を可視化すること
- 「しかしもし私たちが、文学における特徴づけから、その一般化によって概念を得ているとしたら、そのように得られた概念は通常、名誉、犠牲、そして嫉妬のようなまさに一般的概念というよりも、文学作品で直接描かれた存在物(特定の人々、出来事、経験その他)に関するものである[19]」 (18)
- また文学作品は、その提示する概念が読者の既存のそれよりも優れている場合にのみ、認知的価値を持つという主張にも筆者は反対する
- 読者が文学作品における概念を劣ったものと考え、自分の経験に適用したくないと考えても、他人の視点を理解するのに役立つということだけで、認知的価値を持つと言えるだろう。
- 以下で、文学から概念を取得し、それを自分や他人の視点からの世界経験を特徴づけるのに用いる具体例を二つ紹介する
- ホメロス『イリアス』
- アキレウスが戦いの褒美として手に入れた奴隷ブリセイスを、アガメムノンによって奪われることに怒る描写から始まる。
- アキレウスの視点では、自分の戦士としての名誉は褒美の格によって示されるものであり、それを奪うというアガメムノンの行為は、命よりも重要な自分の名誉を不公平にも格下げするものである。
- このアガメムノンの行為への特徴づけを、直接現実の他人の行為への特徴づけに用いることはしないかもしれない。しかし他人の視点を理解するのに用いることはできる。
- 「例えば、教授が、憤慨した発言をして学部の活動に参加するのを拒むことによって、私の同僚の昇進を助けることに失敗したことに対してその同僚が反応したとする。私は、同僚が教授の行為を、アキレウスがアガメムノンがブリセイスを奪ったことを見るのに似た仕方で、つまりその人としての価値を不公平にもその評判を下げることによって貶める侮辱として[見ていると]、推論するだろう」 (17-18)
- アキレウスに関する視点的性質を含んだ概念を、一般化した上で実際の他人の経験を理解するのに利用している
- ヘンリー・ジェイムズ『大使たち』:中年のストレザー氏が、アメリカに連れ戻すはずの人物がパリで既婚者の女性と関係を持っているのを目撃する。
- 「きわめて大雑把に言えばジェイムズはここで、ストレザー本人が些細かつ苦痛であると感じる仕方で、彼が自分の想像力、善意、そして欲望に誤って導かれたという経験を描写している。そのような種の経験には名前が無い。そうであるなら、ジェイムズの文学的描写は、そのような経験を(例えば自分自身の場合やストレッチャーのものとの類似点や相違点を見出すことによって)認識し理解しようとするのに有用である」
- 文学の与える概念によって初めて、名前の付けられていない経験を認識し理解することができることがある。
- 「きわめて大雑把に言えばジェイムズはここで、ストレザー本人が些細かつ苦痛であると感じる仕方で、彼が自分の想像力、善意、そして欲望に誤って導かれたという経験を描写している。そのような種の経験には名前が無い。そうであるなら、ジェイムズの文学的描写は、そのような経験を(例えば自分自身の場合やストレッチャーのものとの類似点や相違点を見出すことによって)認識し理解しようとするのに有用である」
- 「例えば、教授が、憤慨した発言をして学部の活動に参加するのを拒むことによって、私の同僚の昇進を助けることに失敗したことに対してその同僚が反応したとする。私は、同僚が教授の行為を、アキレウスがアガメムノンがブリセイスを奪ったことを見るのに似た仕方で、つまりその人としての価値を不公平にもその評判を下げることによって貶める侮辱として[見ていると]、推論するだろう」 (17-18)
- ホメロス『イリアス』
- 私たちがすでに持っている概念に対して、文学はその概念が当てはまるような具体的で複雑な状況を提示することによって、私たちは理解を深めることができる
- Catherine Wilson (1983):私たちは文学から、自分がすでに持っている世界(特に自他の行為)をとらえるための概念よりも、優れた概念を取り入れることができる
- その結果として、
- 「文学由来の概念は、その中で参与した読者が関連する視点的性質を概念のプロトタイプに想像的に適用するような文脈を通して、得られるのだ」 (16)
- 文学作品から得られる概念は、通常視点的性質を持つ
- 一つ目は、作中の存在物に対して、既存の概念を当てはめること。これは、その存在物が概念に当てはまるような特有の特徴を持つことを認識することによる。
- 「代わりに、文学作品は特定の(通常は虚構の)人物、出来事、感情その他を特徴づける。言い換えれば文学作品は、特定の存在物を、他のものとの何らかの関係を持つものとして提示するのだ」 (15)
Ⅴ.行為の動機の理解UNDERSTANDING MOTIVES FOR ACTION
:文学の与えてくれるもう一つの認知的利益は、他人の行為の動機を類推する技術である。
- 文学における人物の動機を理解するのに、登場人物の視点に賛成する必要はなく、単に認識すれば良い
- 「重要なのは、登場人物の視点の要素がどのようにその行動を支持するのかを認識するのに、その視点を共有したり、是認したりする必要はないということだ。[…]物語に参与するために重要なのは、主役級の登場人物が、自身の視点から全く意味を成さない仕方で行為していると見なさないことなのだ」
- その動機を理解するために、作品の提示する人物の視点(つまりその人物が置かれた状況における目標や価値観など)を支持するendorse必要はない。ただその行為を、一つの視点から意味を成すものとして認識することが必要である。
- 実のところ、作中の人物の視点を、想像的にすら完全に共有することはできない。なぜならその人物は自分が作中の人物であると知ることができないためである。
- 「重要なのは、登場人物の視点の要素がどのようにその行動を支持するのかを認識するのに、その視点を共有したり、是認したりする必要はないということだ。[…]物語に参与するために重要なのは、主役級の登場人物が、自身の視点から全く意味を成さない仕方で行為していると見なさないことなのだ」
- 読書によって、自分以外の視点から行為の意味を理解することを訓練することで、認知的資源を発展させることができる
- ただしそれは概念的豊饒化とは相互に独立である:作品で提示される概念を完全に理解しつつも、行為の動機を理解できないことは十分にあり得る
- そしてそのような練習は、実際の人々の行為を、その人自身の視点から理解するのに有用である
- 「そのような技術の一つは、私たち自身の視点の側面を背景に退かせることで、他人の行為を、その人の視点において何が動機づけているのかをより良く理解する能力である。現実世界では、他人の視点を理解することと、それに賛同することの違いのかじ取りをするのが、難しいことがあるのだ」(19)
- 文学によって、他人の視点から行為の動機を理解する能力が鍛えられる。そしてそのような訓練の機会は、現実ではなく文学においてこそ、多く与えられるものなのだ。
- つまり現実では自分の価値観を脅かす行為に対して、その視点を理解するよりも、その行為やその結果を防ぐことに労力が向けられる
- しかしフィクション上の登場人物に対しては、現実の脅威の心配をすることなく、その視点を理解することに注力することが可能である
- また読書によって、自分の動機と他人の動機の共通点を見つける技術も磨かれるだろう
- リチャードソンの『クラリッサ』において、クラリッサは求婚者のラヴレースを、両親が彼と関係を持つのを禁じていることと、彼が彼女の貞操を脅かすという理由で、拒絶する
- 筆者はクラリッサのように性的慎み深さや親への従属を重視しないが、それでもより一般的なレベルで、クラリッサが押しの強い求婚者であるラヴレースを拒絶する動機を理解できると述べる:クラリッサはラヴレースを、彼女の視点から見て彼が彼女を自律した個人として扱っていない、という理由で拒絶すると理解可能である。
- 「これはより一般的な動機の構造(つまりその人自身の視点から見て無礼な人と好意からの関係を持つのを避けること)であり、これを私とクラリッサは他の重要な視点における違いにも関わらず、共有しているのだ」 (20)
- まとめれば、文学は現実よりも以下の点で想像力の訓練の材料と理由を与えてくれる
- 現実に知り合うだけでは、文学における主人公ほどに背景知識や心的生活の詳細を得られることは中々無い
- また優れた文学作品は、読者を美的報酬によって報いることで、読者が(時には縁遠い)登場人物を理解しようとするように動機づける
- 筆者はクラリッサのように性的慎み深さや親への従属を重視しないが、それでもより一般的なレベルで、クラリッサが押しの強い求婚者であるラヴレースを拒絶する動機を理解できると述べる:クラリッサはラヴレースを、彼女の視点から見て彼が彼女を自律した個人として扱っていない、という理由で拒絶すると理解可能である。
- リチャードソンの『クラリッサ』において、クラリッサは求婚者のラヴレースを、両親が彼と関係を持つのを禁じていることと、彼が彼女の貞操を脅かすという理由で、拒絶する
- 「そのような技術の一つは、私たち自身の視点の側面を背景に退かせることで、他人の行為を、その人の視点において何が動機づけているのかをより良く理解する能力である。現実世界では、他人の視点を理解することと、それに賛同することの違いのかじ取りをするのが、難しいことがあるのだ」(19)
Ⅵ.文学と共感LITERATURE AND EMPATHY
- 様々な経験科学における実験は、共感能力が文学作品に触れることによって向上するという結果を示している
- 今までの議論のまとめ
- 「私は第4節で、私たち自身の視点からの存在物の特徴づけだけでなく、またそれが他人の視点にはどのように現れるかを想像するのに役立つことがある、視点的概念を文学から得ると主張した。さらに、第5節で述べたように、物語文学への参与は、自分とは異なる視点における行為の理由を理解する技術を発展させる。まとめれば、それらの認知的資源は、現実の人々を理解するのに役立ちうるのだ」 (20)
- この論文は、文学は「私たち自身の視点を構成する概念的資源の融通を拡張したり向上させるexpanding or increasing our facility with the stock of concepts structuring our own perspectives (21)」という主張に対して反論する
- このような主張は、文学がどのように自分以外の視点を理解する能力を高めてくれるのかを説明してくれない
- また、文学がそのように世界認識の枠組みを洗練させてくれたとしても、それは自分以外の視点の理解には役に立たないだろう
Ⅶ.結論CONCLUSION
- 今までの議論の繰り返しであるから、省略する。
[1] “we may use either to extend the array of concepts structuring our own experience of the world or to try to understand another person’s experience of the world” (11)
[2] Stanford Encyclopedia of Philosophyの「どのようにの知識Knowledge-How」の項によれば、以下のとおりである。知識knowledgeとは何か、そしてそれはどのようにして得られるのかに関する哲学である認識論epistemologyにおいては、一般に二つの知識が区別される。つまり「どのようにの知識knowledge-how」と「であるの知識knowledge-that」である。前者は例えば「自転車の乗り方を知っている」ときに持っている知識であり、後者は「2020年に優勝したのはソフトバンクホークスだと知っている」と言うときに持っている種類の知識である。ここであればウォルシュは、文学を読むことによって、「恋に落ちる・子供を失うとはどのようなものかを知っている」という経験的知識を得られると主張している。
[3] これは「悲劇のパラドックス」として広く論じられている。
[4] “what another person experiences in the sorts of circumstances described in literary works” (13)
[5] これはどういうことだろうか。まず人間の経験が千差万別であるために、ある誰かの一つの経験を他の誰かの経験と同一視することはできない。さらに文学で描かれる経験は、現実の誰かの経験であることを主張しない。以上の二つの主張を組み合わせると、文学は現実の誰かの経験を描いているとは言えない、ということになる。
[6] これは「フィクション(における情動)のパラドックス」として広く議論されている。
[7] “I think that literature has important cognitive value through the opportunities it affords for imaginatively exploring subjective perspective other than our own.” (13)
[8] “[W]e experience the world from different perspectives – things in the world appear differently to different people” (14)
[9] 「側面aspects」という語や「時間的断片temporal segment」という語が具体的には何を意味しているのか、理解しきれていない。おそらく他人の視点を想像するのに、すべてを想像することはできないが、いくつかの側面に絞って想像することはできる、という程度の意味だろうか。
[10] “I can do this without having any experience similar to her beach experience or imagining what, in its entirety, her beach experience is like” (14)
[11] “I take a perspectival property to be any feature which an entity can have from some subjective perspectives but not from all subjective perspectives.” (14)
[12] このような定義だと、逆に視点的でない性質は存在しうるのだろうか、という疑念が生じる。例えば「猫である」という述語すら、本当にすべての主観的視点によって持つことができるものなのかは明らかでない(私たちとは異なる生態学的知識を持つ人にとってはどうだろうか)。結局のところ、ある性質が視点的であるかどうかは、少なからず程度問題なのかもしれない。
[14] an eventの想像に対する視点的性質の想像は、他の類似したeventsに私が帰属させるものを、その単一の出来事に帰属させる想像であると解釈した。
[15] しかしそうすると、文学に参与することとは、作品の提示する視点的性質(のうち少なくとも一部)を想像することである、という主張はどうなるのだろうか。ここでは作中の出来事に帰属させられる視点的性質は、結局(作品のものではなく)読者のものであると言っているように思える。それともここでは文学鑑賞ではなく、一般的な想像(砂浜に居る友人からの電話など)の話をしているのだろうか。
[16] “I take it that concepts are tools of some sort for identifying classes of entities through certain characteristic features.” (15)
[17] このゾラの例は、文学においては新聞などの客観的視点で書かれたテクストでは明らかでない視点的性質が与えられている例だと思われる。そうすると読者に与えられる想像的反応と、作中の視点的性質は、同一のものということだろうか。
[18] “to imaginatively explore worlds like our own through complex perspectives different from our own” (17)
[19] この一文が何を意味しているのかはわからなかった。上で述べるように、文学から得られる概念は一般化を経る必要がある。しかしそれは「一般的概念」そのものではない、ということだろうか。
[20] ただし、むしろ「視点」概念は文学というより、野家啓一が『物語の哲学』で述べるように、「物語」に特徴的なものではないかと私は考える。